第45話 君と夕陽を

 羽衣島は夕刻を迎えていた。

夏空の主人あるじのように振る舞っていた灼熱の太陽も水平線に近づき、辺りを柔らかなオレンジ色に染め上げている。

久遠は窓から差し込む夕焼けの光に照らされながら、滞在している洋館の3階へと続く階段を昇っていた。

リビングやゲストルームは1階と2階にあるため、3階は主に倉庫や物置として使われている。

彼は廊下の一番奥にある部屋のドアをノックした。

「久遠君か。入っていいよ。」

久遠が厚い木製のドアを開くと、空調の効いた室内の冷んやりとした空気が流れ出てくる。

「うわぁ……!」

室内に入るなり、久遠は思わず感嘆の声を上げた。

彼の視界に飛び込んできたのは、室内に並んだ無数の楽器だった。

壁側にはケースに入ったビオラやチェロ、コントラバスといった弦楽器が並び、向かいの壁側にはホルンやオーボエなどの管楽器、ティンパニやシンバルなどの打楽器が置かれている。その光景は学校の音楽準備室を連想させた。

「来るたびに思うけど、壮観だね。爺さんもよく集めたもんだ。」

ひときわ大きいガラス扉のついた楽器棚の前には、大鳥真美の姿があった。

彼女はウェーブのかかった黒髪を後ろで束ね、白衣は着ていないものの、いつものキャミソールにショートパンツ姿でガラス扉の中を見つめている。

久遠は彼女に近づくと、ビニール袋いっぱいのお菓子を手渡した。

「大鳥博士、お土産ですよ。」

「おー、すまないね。お。ヤングドーナツにキャベツ太郎もあるじゃないか。」

「大鳥博士が好きそうなのを選んできました。」

「さすが久遠君。私のことがわかってきたな。」

「まあ、それは色々。」

久遠は微妙な笑みで返す。

彼は研究者としての大鳥真美を手伝うことも多く、その度にお菓子やファストフードの買い出しを頼まれているのだ。

「あかりは?」

「夕食のミネストローネの方を見ててくれてます。後で交代するので、その時に衣装の方をお願いします。」

「わかった。急だったけど、何とか仕立て直しが間に合ってよかったよ。」

「ありがとうございます。大鳥博士。」

久遠は真美に頭を下げると、ずらりと並ぶ楽器を見渡しながら口を開いた。

「それにしても凄いですね……。これだけ楽器があったら、小編成の管弦楽団ができそうですね。」

「以前はもっと多かったらしいんだけどね。祖父が亡くなった時に、大部分を地元のオーケストラに寄附したそうだ。」

「大鳥博士のお祖父様の品だったんですね。」

「ああ。祖父は音楽好きの道楽者でね。本人はその道に進まなかったけど、音楽家への支援は随分していたらしいな。」

真美は懐かしげな表情で楽器棚に手を触れた。

大鳥真美の祖父は、現在のオオトリグループの礎を作った中興の祖だった。

元々、大鳥家は科学技術の分野で多くの研究者や技術者を輩出する一族であったが、彼は経営者としての手腕を発揮し、小さな研究所に過ぎなかった大鳥研究所をオオトリ・ロボティクスなどの大企業を有する巨大なグループに育て上げたのだという。

「バイオリンはいくつかあるから、どれでも好きなものを使うといいよ。」

久遠は頷くと、ガラス扉のついた楽器棚へと足を向けた。

深い艶のあるウォールナット材で作られた巨大な棚は、バイオリンを収めるための特注品だという。

ガラス扉の向こうには、3台のバイオリンが厳かに鎮座していた。

久遠は中央の深い茶色のバイオリンに目を留める。

「このバイオリンは……。」

久遠の言葉に、真美は少し逡巡してから答える。

「……クレモナの工房で祖父が買ったものと聞いているよ。……気に入ったかい?」

「はい。僕が使っているバイオリンに似ている気がします。」

「……そうか。」

真美は短く答えると、ガラス扉の鍵を開ける。

久遠はそっとバイオリンを手に取った。

少し赤みを帯びた深い茶色の本体は、カーテンを引いた窓から薄く差し込む夕日を浴びて複雑な輝きを放っている。

久遠はその美しさに目を奪われてしまっていた。

「こちらのバイオリンをお借りしていいですか。大鳥博士。」

「ああ。今日の演奏、楽しみにしているよ。」

久遠は大鳥真美に頭を下げると、樹脂製のバイオリンケースにバイオリンをそっと収め、再び彼女に向き直った。

「大鳥博士、お祖父様のバイオリン、お借りします。」

「いいさ。たまには弾く人がいた方が、バイオリンも祖父も喜ぶだろ。それに君達のおかげで、我々もこの島の日々を楽しんでる。お礼だと思ってくれ。」

そう言って真美は微笑んだ。

「でも、大鳥博士も篠宮先生もここの研究所に毎日のように行っていて、結局仕事ばっかりになったんじゃないですか?」

「まあ、大人ってのはそういうもんだ。それに、仕事の疲れを仕事で癒すってこともあるのさ。特に良い仕事ができた時にはね。そういう意味でも、久遠君やあかりには感謝してるんだよ。」

優しげに微笑む真美に、久遠は照れ笑いで返す。

「大鳥博士にはここの別荘だけでもかなりお世話になっているのに、今回はバイオリンだけじゃなく僕たちの衣装まで手配してくれて……。 やっぱり何かお礼をしなきゃって。」

「お礼か。それは何でも頼んでいいやつかな?」

真美は久遠のすぐ目の前まで進み出ると、下から覗き込むようにして久遠の瞳を見つめた。

久遠は、小柄な彼女の豊かな胸元が視界に入らないように反射的に視線を逸らす。

「な、何でもはダメです……!」

「そうか。じゃあ、ひとつだけ頼もうかな。」

「……ひとつだけ……?」

真美は何も言わずに窓に向かうと、背の高いガラス窓にかかっていた厚いカーテンをさっと開ける。

窓から差し込んだオレンジ色の光が室内を染め上げていく。

掃き出し窓の向こうは、小さなテラスになっていた。

彼女は久遠を手招きすると、軽い足取りで部屋の外へと出ていった。



「ちょうどいい時間帯だな。」

そう呟く真美の後を追うようにして久遠が歩いていく。

石畳の敷かれたテラスには古いテーブルや揺り椅子がそのままになっていた。

「二階のバルコニーとは別に、こういう場所があったんですね。」

「ああ。祖父のお気に入りでね。景色はさすがにバルコニーからの方が眺めがいいんだけど。」

テラスの柵にもたれかかるようにして真美が呟く。

真美は額にかかった髪に手をやりながら、続けた。

「ここはね、夕陽が最高なんだ。」

「夕陽……。」

久遠はそう呟くと、真美に並んで手すりに手をかけ、同じ方向を見つめた。

視線の向こうには、水平線に沈もうとしている太陽と、オレンジ色に煌めく海が見える。

「綺麗ですね……。」

「だろう。子供の頃から、ここから見る夕陽が好きでね。私にとっても思い出の場所なんだ。」

彼女は風に揺れる前髪に手を触れながら続ける。

「ここの別荘には仕事や片付けで来ることはあったが、しばらくこのテラスには来ていなかった。何だか今日は久しぶりにここからの景色を見たくなってな。」

「何かあったんですか?」

久遠の何気ない問いに返すように、真美は彼の瞳を覗き込む。

「何があったんだろうな。」

彼女がそう言って優しげな笑みを見せると、久遠は思わず息を呑んだ。

彼が知るいつもの大鳥真美は、眠たげな目をしながらノートパソコンに目を落としているか、気だるげな表情でお菓子やアイスクリームを口にしている姿だった。

だが、今の彼女はまるで違う。

少し青みを帯びた黒い瞳は潤んでこちらを見つめ、小さな口元は微笑みをたたえている。

(大鳥博士って、こんなに綺麗だったっけ……。)

眼鏡の下に覗く大きな瞳に透き通るような白い肌、ウエーブのかかった艶のある長い黒髪は控えめに言ってもオーソドックスな美人と言っても差し支えなかった。それに加え、いつもは白衣の下に隠した小柄ながらも豊かなプロポーションを持ち合わせている。

研究所での奇行や突飛な言動に隠れているが、よく考えてみればオオトリグループの令嬢であり、二十代前半にして複数の学位を持つ才媛でもあるのだ。

夕暮れ刻の光を浴びた彼女は、生まれながらに持つ品の良さと、これまでの人生で身につけた知的でミステリアスな美しさを解き放っているかのようだった。

動揺を隠しきれない久遠をよそに、真美はぽつりと呟く。

「賑やかな家だったんだ。昔は。」

「……え?」

「私がまだ子供の頃……。祖父も生きていて、両親や叔母、親戚達も皆若かった。夏のバカンスシーズンはもちろん、何かと言ってはこの別荘に集まって、それは賑やかなものさ。」

彼女は木製の柵に頬杖をついて呟く。

「十年前に祖父が亡くなってから、大鳥家も変わっていった。外的脅威侵攻後の復興需要で会社は馬鹿みたいにデカくなったが、みんな日々の仕事と研究に追われるようになって……。まあ、よくある話だ。」

「じゃあ、この別荘には……。」

「最後に誰かと来たのは私が高校生だった六年前だ。出張の宿代わりに使うのは、ほとんど隣の離れだしな。」

そう言って彼女は小さくため息をついた。

「……ここは思い出が多すぎる。」

「大鳥博士……。」

久遠にとって、彼女のこんなに寂しげな表情を見るのは初めてだった。

「だが、君達が来てくれて久々に賑やかになった。夜に島の研究所から帰ってくる時、坂道を上がってくるだろう? そうすると遠くに談話室の窓が明るく輝いているのが見えるんだ。それが何だか嬉しくてな。」

彼女はそう言うと、ふっと微笑んだ。

「そうか。嬉しいんだな。私は。」

そう呟くと、再び久遠の瞳を見つめる。

「また君に感謝しなくてはならないことが増えてしまったな。久遠君。」

「そんな……。」

久遠は頬を染めて目を逸らしながら続ける。

「僕こそ、大鳥博士には感謝することばかりで……。どうしてこんなに良くしてくれるんだろうって、いつも思うんです。」

「それは前に言ったと思うけどな。」

真美の言葉に、久遠はふと数ヶ月前に研究所の地下「エリア13」で大鳥真美とともに白騎士と邂逅した時のことを思い出す。


『君が気に入ったからかな。』


あの時に身体に回された柔らかな腕の感触と、囁き声が今でも残っているかのようだ。

「大鳥博士はまた冗談ばっかり……。」

そう言って笑う久遠に言葉を返す代わりに、真美は小さな手を彼の頬にそっと当てる。

「私は前から冗談なんて言ってないぞ。」

「え?」

久遠は思わず真美の顔を見る。

いつもの気だるい表情は夕陽の前に消え、潤んだ瞳でこちらを見つめていた。

久遠は動揺をかき消すように、口を開く。

「と、ところでさっき言っていた頼み事って何ですか? 変なことはダメですよ……。」

「変なことって、どんなことだい?」

彼女は久遠のすぐ傍まで近づくと、彼の顔を覗き込む。

「……!」

思わず息を呑む久遠を見て、真美は小さく笑う。

「何か考えていたような気がするが、ここに来たら忘れてしまった。」

そう呟いた真美は、ふと自分の心の底にあったひとつの思いに気づいていた。

(もしかしたら……また誰かとあの夕陽を見たかったのかもしれないな。)

夕暮れ刻にはいつもここに並んで眺めた。

幼い時も、高校生の時にも。

幼馴染であり、同じ志を持つ仲間、そして最も愛した人。

そう。

君と見たあの夕陽を。

「なので、頼み事は次に保留にしとこう。さて、何をしてもらおうかねえ。」

「またそんなことを言う……。今だったら、この夕焼け空のお礼も含めて何かしてあげてもいいですよ?」

「そうだな。じゃあ、遠慮なく頼むか。」

久遠は口を結び、真剣な表情で真美の言葉を待つ。

「良子のことを大事にしてやってくれ。」

「……え……?」

思いもしなかった真美の言葉に、久遠は驚きの表情を隠さなかった。

「前も言ったが、あいつは君が来てから随分明るくなった。出会ったばかりの良子はもっとこう、いつものほほんとしていてな。それが、いつの間にか張り詰めた顔ばかりするようになってた。ここに来て、改めて思い出したよ。」

久遠はいつもとまるで違う様相の大鳥真美に戸惑いながらも、小さな声で、ひとつひとつの言葉を確かめるように答える。

「大事にするということがどういうことか、僕にはまだわかりません……。でも、最近はどうしたら篠宮先生が喜んでくれるかなって考えるようになったんです。旧図書室の先生としての篠宮先生にも、UNITTEの篠宮所長代理にも……。」

久遠は手すりの上に置いた指先を見つめながら続ける。

「新誠学園に来て、篠宮先生には色々なものをいただいたから……。僕のできることで何かを返したいっていつも思うんです。……まあ、特にまだ何もできてないような気がするんですけど。」

「久遠君……。」

「それに大鳥博士のことだって。」

「私のこと?」

真美は思わず問い返す。

「だって、あの白騎士を初めて見せてくれたのは、大鳥博士だったでしょう?」

彼女の脳裏には、数ヶ月前に筑浦研究所の地下で初めて白騎士の姿を彼に見せたことが思い出されていた。

「あのことがなかったら、僕達は今頃ここにいなかったかもしれません。」

久遠の言葉は正鵠を射ていた。

数ヶ月前の大規模調査で久遠が駆る白騎士が現れなかったならば、あの場にいたあかり達はもちろん、UNITTEの運命は大きく変わっていただろう。もちろん、それは誰もが望まない方向にである。

「あの白騎士が何なのかは今でもわからないけど、国連やUNITTEにとって重要な機体であることはわかります。それでも大鳥博士はあの白いディメンジョン・アーマーに僕を引き合わせてくれた……。」

「久遠君……。」

「大鳥博士って、いつもおかしなことをしているようで、あとから考えれば理論的で筋が通っていると思うし……。それに、決して人の道を外れたことはしないですから。だから僕は大鳥博士のことも信じられるんです。」

そう言って久遠は笑みを見せた。

真美は彼の顔を見上げ、小さく微笑み返す。

「良子だけでなく、なぜ皆が君を気にかけるのかが分かった気がするよ。」

「そんなこと……。」

照れ笑いをする久遠の横顔を見つめながら、真美が口を開く。

「それと。ああは言ったが……。」

「?」

「私自身、誰かに大事にされるのも……悪くないと思えてきたな。」

「ふぇ!?」

「私は別に『そういうこと』に関しては良子に遠慮するとは限らないぞ?」

真美はいつもの気だるげな表情に戻って久遠を見つめる。

「ななな、なんでそんなことを言うんですか!?。」

「決まっているだろう。君のことを気に入ってるからさ。」

彼女はそう言って悪戯っぽく笑うと、人差し指の先で久遠の頬にそっと触れた。

「……! そ、そうだ! そろそろ城戸さんと夕飯のハンバーグを焼き始めなければいけないので……! し、失礼します……!」

まるで夕焼け空のように顔を真っ赤に染めた久遠は、慌ててテラスの出口に向かって駆けていった。


 誰もいなくなったテラスで、真美は小さくため息をつく。

「私も冗談が下手だな。まあ、たまにはいいだろ、司。私を今でも一人にしてるのはお前なんだからな。」

彼女はそう言って笑うと、再び空を見上げて小さく呟いた。

「私を信じてると言ってくれたな。久遠君。」

夕陽に照らされた彼女の微笑みは、まるで虚空に溶けていくかのように薄れていく。

「すまないが、君が信じると言ってくれた女の中にあるのは、まだ君に伝えることができないことばかりだ。」

そして彼女はそっと目を伏せる。

「君は……これから多くのことを知ることになるだろう。」

真美は誰もいない夕焼け空にささやくようにして続ける。

「国連もウィーン事務局も。そしてUNITTEも……。君の知らない様々な側面を持っている。そしてその中には、君自身に大きく関わることもあるんだ……。」

真美は瞳を閉じたまま小さなため息をつく。

「だけど久遠君。良子のことだけは信じてやってくれ。……たとえこれから、何が起きたとしても。」

彼女は再び夕暮れの空を見つめる。

水平線に沈んでいくオレンジ色の輝きはいつしか薄れ、空は少しずつ夜の闇へと変わりつつあった。

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