第43話 静香と千鶴

「ふわー、今日も食べたー。」

城戸あかりはソファーに長くなって寝そべる。

合宿四日目を迎えた談話室の窓の外は、すっかり暗くなっていた。

「大進君達のご飯、美味しかった〜。鶏肉の香草焼きとヒラメのムニエル……。あとあれも美味しかった。何だっけフランスっぽい名前の……。」

「ヴィシソワーズ?」

「そう、それ!ヴィシソワーズも大進君が作ったの?」

あかりの問いかけに、花柄のエプロンを大柄の身体につけた大進が答える。

「副菜とスープは一真でござるよ。」

「え、意外。」

「プロヴァンスにいた時に作ったのを思い出してな。」

キッチンでてきぱきと食後のお茶の準備をしている一真が答えた。

ヴィシソワーズとは、ジャガイモとポワロネギの冷製スープである。

静香は、千鶴の顔が少しだけ沈んだ面持ちになっていることに気がついた。

「どうしたの、千鶴ちゃん。」

「……お父さんが好きな料理だったんです。ヴィシソワーズ。」

静香は横で俯いている千鶴の横顔を伺った。

まだ一真と出会ったばかりの頃に聞いた話だが、御堂一真は四年前に欧州で遭った不慮の事故で父親を失ったのだという。

その頃まだ小学生だった千鶴にとっても、その悲しみはいまだに生々しく感じられるのだろう。

「千鶴ちゃん……。」

「大丈夫です、静香さん。ちょっと思い出しちゃっただけで……。」

その時、キッチンでせわしく働いていた一真の声が届く。

「千鶴。デザートができるから、運ぶの手伝ってくれ。」

千鶴は目元を小さな手で拭う。

「うん。今行くから。」

「今日は拙者達の当番なのにすまぬでござるな。」

「いえ、大丈夫です! お皿、出しますね!」

そう言って大進に答える千鶴は、いつもの明るい笑顔に戻っていた。

その時、キッチンのオーブンがメロディを奏でる。

「できたでござるな。」

大進がオーブンを開けると、リンゴとバターが織りなす香りが談話室まで届いてくる。

「美味しそうな香りがする!」

思わず声を上げるあかり。隣に座る静香が口を開く。

「大進君……ひょっとして……。」

「デザートは特製のタルトタタンでござるよ。」

静香は大皿を抱えて談話室に入ってきた大進の方を見る。

彼は焼きたてのタルトタタンを丁寧に切り分けると、バニラアイスクリームを添えていく。

「久しぶりに作ってみたくなったでござってな。」

「大進君、お菓子まで焼いちゃうんだ……! 凄いよね……!」

待ちきれずにソワソワしているあかりに、大進が笑顔えで答える。

「昔、教えてもらったのでござるよ。」

そう答えると、彼はお皿に乗ったタルトタタンを静香の前にそっと置いた。

タルトタタンは、砂糖やバターで煮た林檎に生地をのせてオーブンで焼いたお菓子だ。焼き上がってからひっくり返して型から出すと、タルト生地の上に甘い林檎がたっぷりと載っている形となる。

静香は大きめにカットされた林檎にナイフを入れ、タルトを丁寧に切り分けて口に運ぶ。

懐かしい味だった。

口元が思わず綻ぶ。

「どうでござるか、静香殿。」

「美味しいです。とても。」

「それは光栄でござる。先生が良かったのでごろう。」

大進のいつもの力強い笑顔には、少し照れ笑いが混ざっているようだった。

(覚えていてくれたんだ……。)

静香は、お皿に載ったタルトタタンを愛おしげに見つめる。

子供の頃、大進がナイフで林檎の皮を剥くコツを教えてくれた時に、つい夢中になって大量に剥いてしまったことがあった。

その大量の林檎を使うために、まだ覚えたばかりのレシピを彼に教えながら、二人で一緒に作ったのがタルトタタンだったのだ。

得意になって教えている自分自身や、火を通しすぎて少し焦げた香りのことまで思い出してしまう。

甘い香りとにぎやかな声で談話室が満たされる中、静香は林檎の載ったタルトタタンをそっと口に運んだ。


   ◇


 明くる日の午後。

合宿は五日目を迎えていた。

羽衣島の中心部に位置する布織山のふもとには、豊かな水を湛えた湖がある。

湖畔に沿って続く遊歩道のベンチには、並んで座る静香と千鶴の姿があった。

「良いお話を聞けてよかったですね、静香さん。」

「そうだね。お土産も沢山いただいちゃったし。」

静香と千鶴は羽衣島の特産品である『南陽織』の職人の元へ取材に訪れ、その帰途にあった。

その女性は齢八十を越えるが明瞭快活で、島の方言を交えながら南陽織と呼ばれる織物のことを懇切丁寧に教えてくれただけではなく、島の歴史や風土、伝承などにも話が広がっていった。

事前に用意していた質問を静香が投げかけ、返ってきた内容を千鶴が愛らしいリアクションを返しながらしっかりとまとめるというスタイルだったが、同席していた篠宮良子が後に太鼓判を押すくらいに中身の濃い取材となっていた。

取材後、研究所に向かう良子と別れた後、取材の中で出てきた湖を見てこようと散策に来ていたのだった。

「綺麗な湖だね。」

静香はそう言って湖を眺める。

水面は夏の光をきらきらと反射していた。

「天女の伝説にもあるように、山から流れてくる豊かな川の水と湖。そして地下水。豊富で綺麗な水源が織物に大切なんだって言ってましたね。すごく勉強になっちゃいました。」

「お陰でいいレポートになりそう。ありがとうね、千鶴ちゃん。」

「私は何も……。何か少しでもお役に立ってたらいいなと思ったんですけど……。」

「そんなことないよ。今日の取材でも助かっちゃった。私、人とお話しするのあまり得意じゃないから。」

「本当ですか?」

目を輝かせる千鶴に静香は微笑んで頷く。

「千鶴ちゃんと一緒にこういうことができて楽しいよ。」

「私もです。」

千鶴はそう言って照れ笑いをする。

彼女はそのままふと黙り込むと、湖面に目を落としたままぽつりと問いかけた。

「……静香さん。」

「何?」

「私が来年、新誠学園に来たら嬉しいですか。」

静香は千鶴の問いかけに

「嬉しいよ。」

「本当ですか?」

「うん、もちろん。でもね、私、もっと嬉しいことがあるんだ。」

静香が千鶴の目を覗き込む。

「え?」

「千鶴ちゃんが、自分自身の意思で進む道を決めてくれること。」

「……。」

「私は、必ずしもそうじゃなかったから。」

静香はそう言って寂しそうに笑う。

超越力という生まれながらに持ち合わせた人智を超えるその能力は、彼女自身の力でありながらも、決して彼女を自由にしてくれるものではなかったのだ。

「だから、千鶴ちゃんが自分で考えて、自分で決めてくれたら嬉しいんだ。」

「静香さん……。」

静香は木陰のベンチに座る。

水面を水鳥が羽ばたいて飛び去っていくのを眺めながら、千鶴はぽつりと呟く。

「私が来年受験する予定の清泉女子高校は、母が通っていた高校だってお話をしましたよね。」

静香は黙って頷く。

「新誠学園は……四年前に亡くなった父の母校なんです。だからお兄ちゃんは中等部の先生や母の反対を押し切って……。」

「一真君が……。」

千鶴の兄である御堂一真は新誠学園の中等部時代に、校内ではもちろんのこと、全国模試でトップクラスの成績を修めていたという。

新誠学園は地元有数の進学校とはいえ、彼の優秀さを考えたならそれ以外の選択肢も多かっただろう。

普段はクールな彼がそういう思いで進む道を決めたのは、少し意外でもあったのだ。

「お兄ちゃんが新誠に行ったから、私自身は当然のように清泉女子に行くものだと考えていたんです。……そうすれば……父が亡くなってからほとんど笑わなくなった母も少しは喜んでくれるかもしれないって……。でも……。」

千鶴は小さな手を重ねてぎゅっと握る。

「最近のお兄ちゃん……何だか変わってきたんです。新誠学園に通うまではいつも張り詰めた表情をしていたのに、何だか言葉も表情も少し柔らかくなった気がして……。」

静香はふと、出会ったばかりの頃の一真を思い出した。

人と一切関わろうとせず、まるで自分自身を責め続けるかのように厳しく鍛え、研ぎ澄ます。まるで抜き身の刀のような人だと思った。

最近はすっかり忘れていたが、少なくともC教室で一緒にお茶を飲んだり、城戸あかりの揶揄からかいを相手にするようなタイプではなかったのだ。

「そうしたら、新誠学園やお兄ちゃんといつも一緒にいる人達のことが気になってきて……。それで今回の合宿にも母に無理を言って参加させてもらったんです。」

「そうだったんだね。」

「この島の合宿で……静香さんやあかりさんのことが大好きになって、久遠さんや篠宮先生みたいな人達ともっと関わりたいって思うようになったんです……。でも母のことを考えると…。」

うっすらと涙を浮かべている千鶴。

静香はそっと彼女の髪を撫でると、千鶴は彼女の肩にもたれかかるようにして頬を寄せた。

明るくてよく気がつく彼女の性格も、それは父親を失った寂しさと、火の消えたようになった家庭の中で培われてきたのだろう。

母親への想いや葛藤も彼女の内側から来る深い愛情や優しさから来ているように思えた。それは千鶴にとってどんなに辛いことだろう。

静香は彼女の艶やかな黒髪に頬を寄せると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「千鶴ちゃん。その気持ちをお母さんに伝えてあげればいいと思うよ。」

「……でも……。」

「気持ちを伝えるのって怖いし、勇気がいるよね。でも、私はそのことができる人を凄いと思うし、羨ましいとも思うんだ。」

静香の頭の中には、旧校舎の裏での、そして体育倉庫での柚原美咲の姿が浮かんでいた。

「それに……。」

瞼を閉じると、いつも後ろから見ていた大柄な「彼」の背中が目に浮かぶ。

「……それは……いつかは……伝えなきゃいけないことだから。」

「静香さん……。」

「きっと、千鶴ちゃんのお母さんもわかってくれると思う。だって、一真君と千鶴ちゃんのお母さんだもの。」

「……はい。」

千鶴は微笑んで頷くと、白いハンカチで目元を拭った。

「水辺でもやっぱりちょっと暑いね。どこかでアイスでも食べて帰ろっか。」

「はい! そうだ、南陽織のおばあちゃんが教えてくれた、トロピカルフルーツのソフトクリームにしませんか!?」

「あ、いいね。私もそう思ってたとこ。」

静香はそう言って微笑んだ。

(千鶴ちゃんは、きっと大丈夫だと思う。)

横に座っている千鶴はいつもの明るい表情で、近隣のアイスクリーム屋さんをスマートフォンで調べている。

(勇気、か……。)

静香は小さくため息をつくと、夏の日差しを受けてきらめいている湖を見つめた。

真夏の太陽が彼女達を照らす中、湖の水面では海鳥が小さな水音を立てる。

やがて白い翼を羽ばたかせ、夏の空へと飛び去っていった。

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