第39話 思い出のカノン

「これでよし、と……。」

久遠は古い革張りの椅子に座ったまま大きく伸びをした。

洋書が並んだ書棚の置き時計を見ると、もうすぐ正午を迎えようとしている。

彼は年代物の木製机に置いたノートパソコンを閉じると、もう一度大きく身体を伸ばす。

久遠達が滞在する別荘では、各自それぞれに部屋が割り当てられいた。

彼の部屋は長らく書斎として使われていたらしく、壁を埋め尽くすような巨大な本棚と、海外製らしいアンティークデスクが設置されていた。

朝早くから部活動のレポートを書くだけでなく、他のメンバーの進捗チェックや資料集め、原稿の確認といった諸作業を済ませたため、一気に疲れがやってくる。

「みんなもいないし、お昼は外で済ませようかな……。」

彼はそう呟くと、部屋を後にした。

別荘はかなり昔から使われていた洋館に改修を重ねたため、古めかしい造りと近代的な設備が混在している。

それはどこか新誠学園の旧校舎を連想させた。

普段着の白いシャツに着替えた久遠が階段を降りていくと、階下から小さく口ずさむ歌が聞こえてくる。

(この曲は……)

階段を降りた彼は談話室を覗き込む。

彼の視線の先には、大きな花瓶に色鮮やかな花を活けている篠宮良子の姿があった。

午後の晴れ間から窓越しに差し込んだ光が、彼女の黒に近いブラウンの長い髪を美しく照らしている。

彼女は小さな微笑みをたたえて、細い指先で花々のひとつひとつを丁寧に整えていた。

「篠宮先生。」

久遠の声に振り向く良子。

「あら、久遠君。二階にいたの?」

「はい。一階に先生が来ていたの、全然気が付かなくて。」

「近所のお花屋さんが開いていたからちょっと寄ってきたの。午後に研究所に行く前に活けてあげようと思って。どう、綺麗でしょ。」

良子はそう言って微笑む。

大きなガラスの花瓶には、南国らしさが溢れる色鮮やかで大きな花弁を持った花がいくつも活けられていた。

皆が賑やかに過ごす談話室らしい、華やかさを感じる花々だった。

「素敵ですね。旧図書室に活けてあった花もそうですが、篠宮先生ってセンスがいいなっていつも思うんです。」

「私も久遠君は、褒めるの上手いなって、いつも思うのよ。」

彼女はそう言って照れ笑いをする。

「お花の活け方は子供の頃長野にいた時の先生にね、随分教えられたわ。」

良子はそう言うと、赤い花の花弁を少しだけ向きを整える。

その横顔は、少し懐かしいものを見るような姿に見えた。

「さっきの曲、好きなんですか?」

「あらやだ、聴いてたの?」

久遠は少し笑って頷く。

「パッヘルベルのカノンですよね。」

「わかった?」

「いい曲ですよね。メロディが綺麗で。」

良子は微笑んで頷くと、少しだけ目を伏せて答える。

「思い出の曲なの。」

そう小さく呟くと、彼女はいつもの明るい顔に戻って久遠に話しかける。

「ところで、みんなは?」

「城戸さんは朝から大鳥博士と研究所で、大進君と一真君は島の文化会館に行ってそのまま研究所に。諏訪内さんと千鶴さんは一緒に街の方に出ていて、夕飯の買い出ししてから夕方頃には戻るそうです。」

良子は細い指を顎に当てて少しだけ考えを巡らすと、久遠に悪戯っぽい視線を向ける。

「そっかー。ということは、久遠君と二人っきりなんだね。」

「……!」

思わず顔を赤らめる久遠に、良子が笑いかける。

「なんてね。冗談よ冗談。あ、そこの花鋏をとってくれる?」

「あ、はい。」

久遠はテーブルに置かれた赤い花鋏を手に取ると、良子に手渡した。

彼女は花瓶から黄色の花を一本取り出すと、手際よく茎の先をカットする。

「お昼はこれから?」

「はい。研究所行くのは二時過ぎなので、外で食べようかなと。」

「そうなんだ。あ、これちょっと持っててくれる?」

良子はいくつかの花を手に取ると、久遠に手渡す。

「はい。」

いつ間にか、久遠は良子のすぐ横で花を活ける手伝いをする形になっていた。

良子は真剣な目を花々に向けて、全体を整えていく。

花の香りと共に、時々彼女の息遣いが聞こえる。

優しげな表情や屈託のない笑顔も魅力があるが、何かに集中している時の良子の横顔は、惹きつけられるような美しさがあった。

久遠は頬が熱くなるのを感じながら、彼女が時々口ずさむカノンを聴いていた。

「久遠君。」

「はい。」

「一緒にお昼にしよっか。」

「あ、はい。」

久遠は手に持った大きな黄色の花を彼女に渡すと、良子は丁寧に花瓶に挿して向きを整える。

より鮮やかさと豪勢さを増した花々を見て、良子は満足げに頷いた。

その横の久遠は、表情が固まっている。

「え? お昼って……? 篠宮先生と……?」

「そうよ。久遠君もお昼ご飯まだなんでしょう? 」

「はい……。」

「何か作ってあげる。今日は自分で作って食べる予定だったから。」

「ええ!?」

「そんなに驚かなくってもいいじゃない。ちゃんと食べられるもの作るわよ?」

良子はそう言って笑うと、久遠の額を人差し指で軽くつつく。

「そ、そうじゃなくて……。なんだか、その、いいのかなって……。」

「気にしなくていいわよ。一人分も二人分も一緒だし。」

良子はそう言って笑うと、鮮やかな花が活けられた花瓶をそっと談話室のテーブルの中央に置いた。



「久遠君、結局手伝ってもらっちゃって、ゴメンね。」

「いいんですよ。一緒に作った方が楽しいかな、って思って。」

久遠はそう言って手際よく玉ねぎを薄く刻んでいく。

横にいる良子は底が深めのフライパンを火にかけていた。 

彼らは別荘として使っている洋館の隣にある一軒家に移動していた。

こちらも大鳥家所有の別荘であり、手入れに手間のかかる洋館ではなく小人数で気楽に過ごしたい時に使う家だという。

合宿中は洋館の方を久遠達が使い、篠宮良子と大鳥真美はこちらの一軒家を宿としていた。

リフォームしたばかりのキッチンは綺麗で広々としており、窓からは洋館の中庭にあるよく手入れされた木々がよく見える。

サラダに使う野菜を一通り刻んだ久遠は、ちらりと横を見た。

良子は長い髪をスカーフで後にまとめ、赤色のリネンエプロンをしている。

彼女はフライパンにバターをひき、慣れた手つきでキャベツを炒めていた。

良子のリラックスした横顔は、久遠にとって旧図書室や研究所で見る彼女とはまた違う魅力を感じさせていた。

久遠は白い顔を少し赤らめたまま、乱れた心を落ち着かせるようにタマゴサラダの製作に向きあう。

天井の高い広めのキッチンでは天井据え付けのスピーカーから流れてくるモーツァルトの室内楽に、包丁の奏でる音や大きな鍋でぐつぐつと煮えるスープの音が拍子をあわせている。

「久遠君、オニオンスープはこんな感じかな。」

良子は小皿にすくった黄金色のスープを少し冷ましてから久遠に薦める。

久遠は彼女の白い手に顔を寄せるようにして、小皿に口をつける。

「……! 美味しいです。」

「良かった。よし、これでスープは出来上がりと。」

良子はそう言って微笑むと、湯気を立てている大鍋にパスタを入れた。

久遠は卵とマヨネーズを混ぜながら、ボウルの中を見つめている。

(……篠宮先生とお昼に二人っきりで並んで料理を作って、これってなんだか……)

「新婚さんみたいだね。」

「えっ!!」

良子のあっけらかんとした物言いに、久遠は思わず長スプーンの手を止めてしまう。

彼女は特に表情を変えることなく、刻んだウィンナーとベーコンを投入しながら続ける。

「ほら、さっき別荘を出た時に、写真を頼まれたじゃない? 多分新婚さんだよね、あの人たち。」

「そ、それは……この島は落ち着いた雰囲気を好む新婚カップルがハネムーン先として選ぶそうなので……とネットで見ましたので……。」

俯いたまま早口で答える久遠は卵をかき混ぜる速度を上げていく。

横にいる良子はその様子を見ながら小さく首を傾げていたが、やがて何か気がついたように声を上げた。

「あっ、そういうことか。」

パスタを入れた鍋をゆっくりとかき混ぜた良子は、何か気がついたようにそう言うと、悪戯っぽい視線を久遠に向けた。

「ひょっとして久遠君、私のことそんな風に考えてくれたんだ。」

「ち、違います……!」

「ええ……? 違うの……?」

良子は切なげな表情で久遠を見つめる。

「違わないですけど、いや、違うんですけど……! でも……。」

元々肌が白い久遠は耳まで赤くなりながら、意を決したように言葉にする。

「こんな綺麗な人が毎日一緒にいたら……幸せだろうな……とは……思いました。」

フライパンではバターの芳醇な香りと共に、ベーコンとウィンナーが時々パチっと音を立て、大鍋はぐつぐつと言いながら湯気を立てている。

彼女はフライパンに視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」

「ですから、こんな綺麗な人が毎日一緒にいたら……。」

久遠はそう言いかけて横を見ると、良子は目を輝かせてこちらを伺っている。

「……! 篠宮先生、聞こえてましたよね……。」

久遠は珍しく訝しげな視線を送る。

「いいじゃない、今までそんなこと言われたことないんだもの。もう一回ちゃんと聞きたい。」

「ダメです。」

「お願い。」

「……。」

久遠は卵をかき混ぜる手を止めると、少し深呼吸をしてから言葉を綴る。

「こんな綺麗で素敵な人が一緒にいたら、毎日すごく幸せだろうなって思いました。」

「へへ。」

良子は顔を赤らめて小さく笑う。

「ありがとね、久遠君。お世辞でも嬉しい。」

「……お世辞じゃないです。」

「そう言ってくれると思った。」

「もう、子供だと思ってからかわないでください。」

「ごめんごめん。」

良子はそう言って笑うと、久遠の耳元でそっとささやく。

「でも、嬉しかったのは本当だよ。」

「篠宮先生……。」

久遠は小さく呟くと、頬を赤らめて微笑んでいる彼女を見つめた。

「二回目、ちょっと付け足してくれたのも嬉しかったし。」

「やっぱり最初から聞こえてたんじゃないですか……!」


 

 海が見える大きな窓の側にある六人掛けの広いテーブルには、花を活けた白い花瓶と、ふた揃いのパスタとサラダ、スープが並んでいる。

久遠と良子は木製の椅子に座り、できたばかりの料理を楽しんでいた。

「……美味しい……!」

久遠がそう言って二口目のパスタを口に運ぶのを見届けると、良子は満面の笑みを見せた。

「良かった! 久しぶりに作ったけど、うまくいったわ。」

「バターのいい香りがして、スパイスが効いてて……。クミンですか?」

「あ、わかった?」

「はい。なんていう料理なんですか?」

「『キャベツのパスタ ウィーン風』ってとこかな。向こうではフレッカールっていうショートパスタを使うんだけどね。ウィーンにいた頃に地元の女の子に教わって。」

「ウィーンか……。そうだ、篠宮先生はオーストリアの国連大学に行ってたんですもんね。凄いなあ海外の大学って……。」

「まあ、高校生の時にちょっとだけ国連の仕事をしてたから、その関係でね。その分、向こうで勉強に苦労しちゃったけど。授業は厳しいし、資料も山のように読まされるし。おかげで教室と自分の部屋以外の記憶がほとんど無いわ。」

スープのカップを手にしながら、彼女は照れくさそうに笑った。

ひと皿のパスタの話は、良子の学生時代の小さな思い出話へと繋がっていく。

久遠は、普段あまり昔のことを話さない彼女が学生時代に過ごしたウィーンでの生活を話してくれることに嬉しさを感じていた。

高校生の久遠にとって、大学の授業も海外の生活も本の中でしか知らない。

目の前で屈託のない笑顔を見せてくれる篠宮良子が、自分の知らないことを沢山知っている大人の女性なのだということを改めて感じていたのだった。

「パスタ美味しかった……。篠宮先生、料理も上手なんですね。」

「このキャベツのパスタだけは失敗しないの。学生時代、毎日のように作ってたからね。」

彼女は照れ笑いをしながら続ける。

「ナポリタンにしようかとも思ったんだけど、ケチャップを切らしちゃってて。好きだったものね、ナポリタン。」

良子の言葉に、一瞬だけ久遠の手が止まる。

「好きですよ。……でも、その話、しましたっけ。」

「……。あれ、どうだったかしら。そうだ。ウスターソースは入れる派?」

「入れる派です! ケチャップだけのナポリタンも、美味しいんですけどね。」

「私も入れる派。スパイスが効いて味が立体的になるのよね。」

良子はにっこりと微笑んで立ち上がる。

「食後はコーヒーでいい? こっちで買った豆があるから淹れてあげるね。」

そう言って彼女は笑顔を見せると、キッチンの奥へと向かった。

久遠はスープの入ったカップを片手に、窓の外の海に目を向ける。

(ナポリタンの話なんて、したっけかな……。)

窓にうっすらと映る篠宮良子は、冷蔵庫の中からコーヒー豆を取り出している。

そういえば、出会ったばかりの頃はフィナンシェなどのお菓子を食べているところしか見たことがなかったので、料理の話をすること自体が珍しい気がしていた。

ましてや、南の島の別荘で一緒に料理をして、二人っきりで食べることになるだなんて……。

久遠はつい先ほどキッチンで良子に告げた自分の言葉を思い出し、恥ずかしさに身悶えしそうになる。

彼の心の戸惑いを知らず、良子はコーヒー豆を丁寧に計っていた。

小さな微笑みをたたえた彼女の横顔を遠く見ながら、久遠はふと考えていた。

(そういえば、なんだか最近の篠宮先生、少し変わった気がする。)

彼女は初めて会った時から明るくて気さくな女性だったが、心の中に落とした影を作り笑いで隠しているように感じることがあった。

七月の大規模調査を終えた頃からか、以前よりも自然で快活な笑顔が増えたような気がする。

それが彼女が元々持っていた前向きな明るさが顔を見せ始めていたということ、そしてそれは久遠自身の存在が影響していたことを、この時の彼は気が付いていなかった。

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