第37話 ふたりの夜空

 「そこで、久遠君の空中回し蹴り! 研究室のみんなも『おおーっ!』て感じになってさ。」

城戸あかりは談話室のソファーから乗り出すようにして、身振り手振りを加えながら昼間の研究所での出来事を話している。

談話室で行われる夕食後のお茶会では、今日は久遠が駆る白騎士が話題の中心となっていた。

「いや、あれは城戸さんの教え方がよかっただけで……。」

「そんなことないよ。久遠君、素質あるって。」

そう言ってあかりは機嫌良さそうに南国しろくまバーを口にした。

「いずれにしても、大したものでござるよ。拙者達も最初は苦労したでござるからな。」

「そうですよ。あの大規模調査で初めてあの白騎士を見た時、本当に驚いちゃいました。」

静香がティーポットを片手に微笑む。

彼女はいつもの優雅な手つきで、空になったあかりのティーカップにダージリンティーを注ぎ終えると、自分の食器を手に取って立ち上がった。

静香に続き、千鶴も立ち上がって軽く頭を下げる。

「あれ、二人ともこれから何かするの?」

あかりの言葉に、静香は申し訳なさそうな表情を浮かべて答える。

「千鶴ちゃんと、夜にレポートの続きを少しやろうって話していて……。」

「そっかー。何かあれば手伝うよ?」

「ううん。あかりちゃん達は研究所のお仕事で疲れてると思うし。ゆっくりしてて。」

彼女はそう言って微笑むと、何か思いついたように付け加える。

「あかりちゃん。明日の夕食、何か食べたいものあります?」

「おお。明日からは各チーム交代で夕食作るんだもんね。」

島での食事は国連やオオトリ・グループの施設を安価に使うことができたが、「合宿らしくしたい」というあかりの提案で、何日かはみんなで夕食を作るということになっていたのだった。

「カレーがいい! 最近食べてないし!」

「わかりました。期待しててくださいね。みんなも何か食べたいものあったら。」

静香はそう言って微笑むと、千鶴を伴って談話室を後にした。



 静香と千鶴が二階の部屋に戻ると、あかりは心配そうな表情で隣の久遠に話しかける。

「ねえ久遠君。静ちゃん達、あまり進んでないの? レポート。」

「うーん、そういうわけではないんだけど……。」

久遠は少し間を置いて答える。

「テーマというか……。レポートの芯になるようなところがまだ定まってないみたい。」

「そうなんだ……。でもさ、それならとりあえず進めていくとか……。」

あかりの言葉に、一真が手にしていたゲーム機の操作を止めて答える。

「できないことはないが……。そこが定まっていないと、進めても手戻りになるか、肝心の中身がぼやけてしまうからな。」

「じゃあ、手伝ってあげた方がいいんじゃないの? 合宿も日数が決まってるわけだしさ。」

あかりの視線は自然と大進の方に向かう。

彼は太い腕を組んだまま、押し黙っていた。

ソファーから身を起こしていて様子を見ていた良子は、大進の考えを察したかのようにゆっくりと口を開く。

「中身が決まって進めている状態ならともかく、今の段階で手を貸してあげたら、本来の意味で二人のレポートでは無くなってしまうわ。ここは静香と千鶴ちゃんの頑張り時だと思うの。」

大進が無言で頷く。向いに座る久遠も彼と同じ意見のようだった。

あかりは、言葉の厳しさとは裏腹にどこか優しげな表情を見せている良子の横顔を見つめた。

「心配いらないわよ。静香はああ見えて強いし、千鶴ちゃんも頭の良い子だから。それに。」

良子は微笑んで続ける。

「タッグバトルなんでしょ? あかり。それより、あなた達の方こそ、大丈夫なの?」

「……うう、それは……。」

良子から目を逸らすあかりの声は段々と小さくなっていく。

「いや、その。今日は疲れたし、もういいかな……って。一真達もそうでしょ。」

「俺と大進はこれから部屋に戻ってフランス文化協会ユースメンバーとのミーティングだ。」

すんなりと答える一真に、あかりは血相を変える。

「う。……わ、私達だってそうよ? 久遠君、ミーティングしよ! ミーティング!」

「え? 今から?」

「そうよ。どっちの部屋でする?」

「部屋!? え!? ここじゃなくて?」

詰め寄るあかりに、困り顔で後すざりをする久遠。

「もう……。」

良子は眉を顰めてため息をつく。

「若い子は元気だねえ。」

いつも通りソファーで胡座あぐらを組み、ノートパソコン越しに様子を見ていた大鳥真美はそう呟くと、森永のビスケットサンドを齧った。



 談話室の賑わいから数時間後。

諏訪内静香は、別荘の二階にあるバルコニーに出ていた。

長い髪を一本に編んだ彼女を、淡い白色に朝顔の模様をあしらった浴衣が包んでいる。

一階の談話室とほぼ同じ広さを持つバルコニーは、普段は抜けるような青空の下で、リゾートホテルが並ぶ街並みやどこまでも広がる海が一望できる。

静香は木製の柵に手を置いて見渡すが、厚い雲が覆う空の下で街はすでに眠りにつき、わずかな月明かりが照らす暗く沈んだ海からは、遠くかすかな波の音が聞こえるだけだった。

小さく息をつく彼女を、夜風がその頬を撫でていく。

その時、バルコニーに続く入り口の床板がわずかにきしむ音がした。

静香にはその音の持ち主が誰なのか、すぐにわかっていた。

「……大進君。」

静香は振り返り、長く親しんだその名を呼ぶ。

「驚かせてしまってござるかな。」

「ううん。」

静香はゆっくりと首を振る。

「なんだか、来てくれるような気がしていました。」

そう言って静香が微笑むと、大進は小さく頷き、静香の横を少し空けるようにして柵の前に立った。

「ずいぶん遅くまでかかったのでござるな。」

「ええ。千鶴ちゃんとしばらくレポートのことで話していて。部屋に送ってあげた後にお風呂に入ったり色々してたら、こんな時間になっちゃいました。」

そう言って静香は微笑むと、大進は瞳でその姿を追う。

薄曇りの空は月も星もその光を失い、彼女の横顔は闇に溶け込むようにしてその様子を伺うことができない。

だが、大進にはその少し寂しげな横顔がはっきりと見えているように感じた。

「その……。大丈夫なのでござるか。」

「……大丈夫って?」

「部活のレポートのこととか……。それから……色々でござる。」

「色々、か……。」

大進は彼女の答えを待つ。

彼が心配していたのは部活動のことだけではなかった。

合宿中は静香だけが島の総合研究所に行くことがなく、篠宮良子や大鳥真美の事務仕事を少し手伝うだけとなっていた。

あかり達もそのことは気にかけていたが、合宿に向かう前に大進だけは静香の担当者である五浦教授からその本当の意向を聞いていたのだ。


『彼女は少しの間離れてみた方がいいと思うの。超越力とその研究、そしてディメンジョン・アーマーから……。ごめんなさい、こんなことを話してしまって。でも、大進君ならその意味をわかってくれると思うから。』


申し訳なさそうに話す五浦教授の表情を今でも思い出すことができる。

彼女の考えを頭では理解していたが、心の中ではそのことを受け入れられない自分もいた。

静香にとってはどちらも彼女の日常であり、それから離れることがどれだけ彼女に寂しく、たまれない思いをさせることだろうかと。

そして、ここ最近の静香が胸の中に深い混沌とした想いを抱えていることに気づいていながら、その正体もわからず、何をすることもできずにいる自分にも、強いもどかしさをおぼえていた。

(拙者がもっと……。)

暗い海に目を落とす大進の心を見透かしたかのように、静香が口を開く。

「大変なのはみんなも同じだから……。」

静香は遠い海を見つめたまま続ける。

「大進君だって、毎日訓練で大変でしょう?」

「拙者は平気でござるよ。次からはもっと機体の力を活かした戦い方ができるでござる。」

「頼もしいです。」

「なので、拙者は大丈夫でござるゆえ……。拙者にできることがあれば、力になるでござるよ。」

大進の言葉に、静香は黙ったまま何も答えない。

「……静香殿……。何も気にすることはないでござる。今までずっとそうしてきたではござらんか。」

そう言って大進は静香を見つめる。

静香はバルコニーの柵に手を乗せている彼を少しだけ見上げるようにしながら、大進の顔を覗いた。

逞しい身体を紺色の浴衣で包んだ彼の横顔は、星明かりすら乏しいバルコニーでは暗く沈んでよく見えない。

だが、静香にはその表情がはっきりと目に映るように感じた。

いつもの逞しい笑みに少し申し訳なさそうな表情を重ねて、真剣に自分のことを見つめてくれているのだろう。

「大進君。私ね。」

静香は小さく息をついて続ける。

「改めて思ったんです。ずっと守られてきたんだなって。」

「静香殿……。」

「いつしかそれを当たり前のように感じてたんです。当たり前のことではないのに……。」

静香はそう言って大進を正面から見つめる。

大進もまた彼女に身体を向け、見つめ返す。

雲が流れていき、わずかに届いた月明かりが静香の白い顔を照らす。

彼女は柔らかな、しかし凛とした表情で大進を見つめていた。

「あともう少しで何かを掴めそうな気がするんです。それまで大進君には見守っていて欲しい。……そうしたら私……。」


そうしたら、あなたに何かを伝えられそうな気がする。


静香は心の中に浮かんだその言葉を口にするかわりに、小さな手を強く握り締めてうつむいた。

「静香殿……。」

「ごめんなさい、私いつもわがままばかりで……。」

静香の言葉の端が震えるのに気がついた大進は、何も言わずにそっと進み出ると、指先でそっと静香の頬に触れた。

静香は目を閉じると、何も言わずにその大きなてのひらに手を添えて頬を寄せる。

温かな感触と共に、彼の心が伝わって来るような気がした。

「わかったでござるよ。それに。」

大進は静かな口調で続ける。

「たとえどこにいても、拙者は静香殿のそばにいるでござる。」

静香は小さな笑みを見せて頷いた。

彼以外から発せられた言葉であれば、それは空々そらぞらしく聞こえたかもしれない。

だが、ずっと昔から彼のことだけは、離れていても隣にいるようにさえ思えることがあった。

厚い雲に遮られ星ひとつ見つけることができない夜でも、その向こうで瞬く星々の輝きを、心の中では感じることができるように。

「いい夜ですね。大進君。」

「そうでござるな。」

大進と静香はしばらくの間並んで寄り添い、夜空を眺めた。

二人の間に言葉は無く、遠く微かな波の音だけが聞こえる。

雲間から薄く届いた月の光が、二人を優しく照らしていた。

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