第26話 何もない部屋

「そう、電子サインが必要なのは学校に出す申請と、さっき送った書類と……。あと、国連の仕事は出張扱いになるから……。」

和泉久遠は一人暮らしをしているマンションの一室で、仙台に住む義母と通話をしていた。

「萩の月? ありがとう、みんな喜ぶよ。え? そんなに沢山!? ……ううん、大丈夫。よく食べる子もいるから。ありがと。後で連絡先を送るね。」

タブレットで合宿先の住所を確認しながら、久遠が続ける。

「ありがとう、義母かあさん。義父とうさんにもよろしく言っておいて。明日は練習試合でしょ。後でメッセも入れるから。それじゃ。」

久遠はスマートフォンを切ると、ベッドに座り、深い息をついた。

視線の先には、真っ白な壁だけがある。

白いクロスが貼られた壁には、何も飾られていない。

最低限の洋服が入った低いキャビネットの上には、古いバイオリンケースがひとつ置かれているだけだ。

机の上には中学時代から使っているPanasonicのノートパソコンが置かれ、その横には教科書用のタブレットと愛用のタッチペンだけがあった。

「……我ながら、本当に何もない部屋だな。」

独り言を呟いてベッドに寝転ぶ久遠。

だが、この何もない空間こそが彼の心に平穏をもたらしてきたことを、彼はよく知っていた。


 久遠が新誠学園に入学し、筑浦市内にあるこの部屋で暮らし始めてから、3ヶ月以上が経った。

入学してから今日までの出来事、そのひとつひとつを鮮明に覚えている。

だが、中学時代のことは家族旅行や、賞を貰ったロボットコンテストなどの印象的な思い出を除いては、まだらに覚えているだけだった。

そしてそれ以前の小学生時代と、さらに昔のことは全く記憶がない。

四年前に病院のベッドで目覚めた時の白い天井と、意識を取り戻した自分に慌てながらも声をかけ続けてれた看護師達のことはぼんやりと覚えている。

十歳の時に遭遇した事故で、実の両親と共に、自らの記憶をすべて失ってしまったと言うことを聞いた時には、まるで他人の話のように思えた。

何も覚えていない子供時代。

写真だけで知っている両親。

自らの境遇を悲しもうにも、その理由さえ見つけることができなかった。

久遠は白いシーツの上で深いため息をつく。

この何もない部屋こそが、自分そのものだったのだ。


 十五年前の外的脅威の侵攻とその後に続いた世界的な混乱の中、久遠のように親を失った子供は少なくなかった。

国連が提供する養子縁組プログラムにより、久遠は仙台市に住む養父母の元に引き取られて暮らすことになった。

義父母は外的脅威の侵攻があった年に、生まれたばかりの一人息子を失っている。

無口だが優しい技術職の義父と、明るくてよく気がつく義母の元で、久遠は育った。

記憶を失って何もかもがまっさらな状態だった彼は、新しい両親の元で日常生活のひとつひとつから学び直すこととなる。

記憶を回復する治療のため、仙台市内の国連病院と家を往復する日々が続いたが、久遠の失われた記憶が回復することはなかった。

習った覚えのないバイオリンが弾けることも。

背中についた大きな傷のことも。

結局何ひとつ思い出すことなく、中学時代は終わった。


「……明日の準備をしなきゃ……。」

彼はそう呟き、ベッドから起き上がる。

ベッドの横には合宿先で使う旅支度を詰め込んだ小さなキャリーバッグが置かれている。

その横には仙台の実家から送られてきた藤崎百貨店の大きな紙袋が置かれていた。

世話好きの義母が、一緒に合宿をする皆さんに、ということで仙台銘菓などを紙袋いっぱいに詰めて送ってきたのだ。

「義母さんが一番楽しみにしてるみたいだ。」

彼はそう言って笑いながら紙袋の中を見ると、大量のお菓子の他に、丁寧にラッピングされた小さな包みがあることに気がついた。

義母の名前と共に、『久遠へ』と書かれた小さなメモが貼られている。

「なんだろう?」

彼は包装紙を外し、中に入っていた白い箱をそっと開ける。

中から現れたのは、一枚の写真立てだった。

ガラスを重ねた透き通った本体を銀色のフレームで縁取ったシンプルな姿は、久遠好みのデザインだった。

「義母さん……。」

彼は優しげに微笑むと、写真立てを傍に置いてスマートフォンを取り出した。

義両親と撮影した写真を懐かしげに眺める。

指先でフォトフォルダの中を探っていくと、あかりから送られてきたお好み焼き屋での写真があった。

久遠の指が写真に触れると、小さな画面いっぱいに画像が拡がる。


満面の笑顔にピースサインを作っている城戸あかり。

クールな横顔で、切れ長の目だけをこちらにむけている一真。

いつも通りたくましい笑顔の大進。

彼のすぐ横で、美しい微笑みを見せる静香。

そして、奥には身体を伸ばして何とか画角に入ろうとしている自分自身の姿があった。


「何もないと思っていたのに……。」


久遠は小さく微笑んで呟く。

いつしか、何も無かった部屋に少しずつ物が増えてきていることに気がついた。

何ヶ月も空だったウォールシェルフには、篠宮良子から勧められて買った本が何冊も並び、その横にはあかりから渡された『布教用』とメモが貼ってあるアニメのブルーレイディスクが置かれている。

小さなサイドテーブルには、一真や大進達とゲームをするために買ったばかりの携帯ゲーム機があり、その隣にはティーセットと共に静香から贈られたナルミの一人用ティーポットがあった。


 久遠はベッドから立ち上がり、まだ何の写真も入っていない真新しい写真立てを机に置く。

まるで仙台にいる義母が、良い思い出を作りなさい、と語りかけているようだった。

彼は小さく笑みを浮かべると、窓辺へと向かう。

ベランダに通じる大きな窓を開けると、夜風が彼の柔らかな黒髪を撫でていく。

眼下には街の営みを示す小さなともしび達が、そして見上げた先には七月の星空が一面に広がっていた。

久遠はスマートフォンを取り出し、マンションから見える星空を撮影する。


『合宿、楽しみだね。』


星空の写真をメッセージと共にあかり達がいるチャットグループに流すと、タイムラインは瞬く間にスタンプで埋まっていく。


久遠はベランダにもたれかかり、星空を眺めた。

夜空に散りばめられた星々が久遠の目に飛び込んでくる。

それは去年見上げた夏の夜空とは、全く違う空のようにさえ思えた。


高校生の久遠が初めて迎える、夏休みが始まる。

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