第23話 静香と美咲

 明くる日の放課後、諏訪内静香は旧校舎裏の体育倉庫に向かっていた。

新誠学園の地下に位置する筑浦研究所には校内に隠された出入り口があり、そのひとつがその体育倉庫だった。

旧校舎の裏は本校舎からかなり離れており、体育倉庫以外には施設が無いため、訪れる人はほとんどいない。

静香はいつも通り辺りを見回してから体育倉庫の入り口にスマートフォンを当てて鍵を開け、中に入っていった。

「ここで何してるの、諏訪内さん。」

静香が振り返る。

体育倉庫の入り口に姿を見せたのは、柚原美咲だった。

軽く腕組みをして夏の陽光を背にした彼女の顔には影がかかり、静香を見据える鋭い眼光だけがかろうじて見てとることができた。

「柚原さん。」

「どうしたのこんなところで。ここは生徒立ち入り禁止じゃなかったっけ。」

「……篠宮先生から、体育倉庫のチェックを頼まれていて……。」

「不思議ね。大進君も前に同じことを言っていたわ。篠宮先生って、確か図書室の先生でしょ。何で体育倉庫のチェックを頼むのかしらね。」

美咲はそう言って倉庫内に足を踏み入れた。

夏の体育倉庫内は薄暗く、じっとりと暑い。

静香も美咲も、うっすらと汗をかいていた。

「ま、その辺りはどうでもいいわ。私、諏訪内さんと話したいことがあるだけだし。同じクラスだけど多分初めてだよね、二人だけでこうやって話すの。」

美咲はふわりと巻いた髪を触りながら、続ける。

「諏訪内さんって、大進君と同じ中学だったのよね。」

静香は黙って頷く。

「内部進学の子に聞いたんだけど、中二の時に新誠の中等部に転校してきたんだってね。しかも大進君と一緒に。珍しくない? そういうの。」

静香は何も言わずに黙っている。

滅多に感情を見せることの無い静香の顔は、美咲にはまるで陶器でできた仮面のように見えていた。

それでいて何かを見透かすような落ち着いた瞳に、美咲は自分の内側で抑えていた心の蓋が、勝手に開いていくのを感じていた。

「……あなた、大進君の何なの? 幼馴染み? 恋人? それともただの他人?」

「……わかりません。」

「わかりませんって何よ。澄ました顔して。馬鹿にしてるわけ?」

「馬鹿になんてしてません。」

美咲はふっと息をつくと、静香の顔を真っ直ぐに見る。

「私、大進君に告白したわ。」

表情を変えない静香に苛立ちを覚えながら、彼女は言葉を続ける。

「あんまり驚いてないみたいね。興味ないの。それとも余裕なのかしら。」

小柄な美咲は、諏訪内静香と十センチ以上背丈が違う。

それでも彼女は静香を体育倉庫の壁際に追い詰めるようにして距離を詰めていく。

「言いなさいよ。本当は付き合ってるんでしょ。」

「違います。」

静香は思わず目を逸らす。

「それで、大進君の周りをうろちょろしている私を、陰で馬鹿にしてるんでしょ。」

「そんなことしません。」

「それともあれ? もっと深い関係?」

「何のことですか。」

静香は美咲に目を向ける。

美咲は静香の瞳を覗き込むようにして、言い放つ。

「キスしたり、素っ裸でベッドに入るような関係ってこと。」

「……!」

「そこは否定しないんだ。」

美咲は歪んだ笑みを見せる。

「やることやってんじゃん。大人しい顔しちゃってさ。」

「私と大進君は……そんな関係じゃありません。」

静香の返答に美咲の眼光は鋭さを増し、怒りの形相へと変わる。

「じゃあ、どんな関係だって聞いてんのよ!!」

「……わかりません……! 分かってたら、私……私だって……。」

静香の掠れるような声に、美咲は我に帰ったように深く息をつくと、彼女から離れる。

「ごめん。私、大進君とあんたのことを聞きたかっただけで、問い詰めるつもりはなかったんだわ。」

そう言って小さく、しかしはっきりと付け加える。

「それに、あんたと大進君がどんな関係でも構わない。私はただあの人のことが好きなの。それだけだから。」

美咲はごめん、ともう一言だけ言うと、体育倉庫から去っていった。


 一人残された静香は、胸を押さえたまま両膝をつく。

「私だって……。」

柚原美咲と対峙して、改めて気がついたことがあった。

(私は羨ましいんだ。)

ただ純粋に想いをぶつけることができる彼女を。

幼馴染ではなく、出会ったばかりの彼女は、長く続いてきた関係が変わることへの恐怖も感じる必要はない。

二人が積み重ねてきた時間を思う必要もない。

いや、そうではないだろう。

きっとあの子なら、幼馴染であっても、真っ直ぐにぶつかっていったに違いない。

だから羨ましく、悔しいとさえ思えた。

手を触れずに何百キロもの物体を持ち上げる彼女の力も、何の意味をなさない。

むしろ、この力の存在ゆえに、いつも自分の心を胸の中に封じ込めてきた。

(いいえ、もし彼女が私と同じ能力を持っていたとしても……。)

彼女は思いを伝えることを躊躇することは無かっただろう。

導き出したその答えは、彼女の胸をより強く締め付ける。

体育倉庫のコンクリートの床に涙のしずくが吸い込まれ、小さな跡を作る。

「私はどうすればいいの……。」

静香は声を絞り出す。

いつも隣で微笑み、優しく手を差し伸べてくれる幼馴染は、ここにはいない。

この後に及んでまで彼の姿を求めてしまう、自分自身に嫌気がさす。


 その時、校庭の砂利を踏む小さな音がした。

静香は胸を押さえたままゆっくりと見上げる。

「静香……。どうしたの?」

体育倉庫の入口に立ち、彼女の目の前に現れたのは篠宮良子だった。


   ◇


 筑浦研究所の地下五階に位置するエリア5の研究室。

試験室側の照明を落として少し薄暗くなった室内では、その部屋のあるじである五浦綾子教授がノートに愛用の万年筆を走らせていた。

壁に備え付けられているインターフォンの呼び出し音が鳴り、五浦は顔を上げる。

「篠宮です。入ってよろしいですか。」

五浦が解錠ボタンを押すと、入り口には白衣姿の篠宮良子が立っていた。

「珍しいわね、所長代理。」

「ええ。静香のことでちょっと。静香は……。」

「一時間前に帰ったわ。」

「何か言っていませんでしたか。」

「いえ、別に。」

「いつもと様子は違わなかったでしょうか。」

五浦は首を振って答える。

「実験の数値にも特に異常無かったわ。強いてあげれば……そうね、いつもより元気がないとは思ったわ。だから今日は早く切り上げたの。」

「そうですか……。」

良子はそう言って、手にした袋入りのマドレーヌを二つ差し出す。

五浦は頷いて答えた。

「……コーヒーでいいかしら。」


   ◇


 計測器具の電源を落として静まり返った研究室に、コーヒーの香りが漂う。

五浦が好むキリマンジャロの豆は、酸味のある柑橘類を想起させた。

「そう……。珍しく実験に遅刻してきたと思ったら……。そういうことがあったのね。あの子、何も言わないから。」

「……クラスの女の子と何かあったらしくて。旧校舎裏の体育倉庫が開いたままだったから様子を見に行ったら……。仕事は休ませるつもりだったんですが、旧図書室で話を聞いていたら、少し落ち着いたみたいで。」

五浦は小さくため息をつく。

「あの子はそういう子なのよ。そんなメンタルできっちり実験結果は出すのだから、大したものだわ。でも、珍しいわね。クラスの子とはいえ、静香が他人と諍いを起こすなんて。」

彼女は少し間を置いて付け加える。

「あの子はそういうことを避ける術に長けているでしょう?」

五浦の問いに答えるように良子が口を開く。

「……。あまり詳しいことは聞かなかったんですが……。」

彼女はわずかに逡巡した後、言い淀みながら言葉を続ける。

「その子、滝川大進君のことが好きなんですって。」

「え……?」

五浦は呆気に取られた表情で良子の顔を見ていたが、やがて小さな口元で少しだけ笑みを見せた。

「ごめん。可愛らしくて、笑っちゃったわ。」

「五浦教授が笑うところ、初めて見ました。」

「だって笑っちゃうじゃない。あの静香が男の子を巡って諍いをするなんて、高校生らしくて、可愛らしくて。」

コーヒーカップを両手で包み込むようにして続ける。

「まるで、普通の女の子みたいだわ。」

そう言って静かに笑う五浦教授の表情と言葉には、大きな慈しみが感じられた。

「普通の女の子、か……。」

良子は目を落としたまま、マドレーヌを口にする。

彼女が言う普通が何を指すのかは人によって異なるとしても、子供の頃から超能力を持ち、その能力で人生を左右されてきた諏訪内静香は、端的にも普通の女の子とは言い難いだろう。

五浦はコーヒーの温もりを確かめるようにカップに手を触れながら口を開いた。

「私は静香のことを普通の女の子だと思うようにしているわ。そして同い年の子達が普通に経験するような楽しみや幸せを享受し欲しいと思ってる。でもね、彼女の能力を知っている人達全てが同じように思うかどうかはわからない。そういう人生をずっと過ごしてきたのよ、あの子は。」

良子が小さく頷く。

十五年前の次元獣侵攻と同時期に、人類の一部に顕現けんげんし始めた『超越力トランセンズ』と呼ばれる超能力。

現在は能力者の少なさ故にその存在すら忘れ去られつつあるが、その能力を持つ者の多くはその力に翻弄される人生を送ることを余儀なくされたのだ。

五浦は静香の人生に思いを寄せるように目を伏せ、言葉を続ける。

「茶道、華道、弓、薙刀。全てあの子が自分自身の能力を精神力でコントロールために始めたこと。いつ暴発するかわからない超越力を抑え込むことが、あの子の人生の一部だったのよ。あなたも見たでしょう。先日の調査活動で。」

良子の脳裏に、念動力で巨大な次元獣を捻り潰そうとしていた静香の機体が浮かんだ。

「その結果、あの子は自分の心を抑えることが一番の方法だと経験的に知っているのね。心を波立てないように。波立った心はすぐに抑えられるように。そして……。」

五浦の表情が悲しげに曇る。

「心を波立てるものには、近づかないように、遠ざけるように。そうやって生きてきたのよ。」

彼女は小さく息をついて続ける。

「だからかしらね、私は今日の静香のこと、少し嬉しいと思っているの。静香がそういう一面を持ってくれたことにね。静香にとっては辛いことだと思うけど、このことを乗り越えることができれば、きっと彼女の人生を開く大きなきっかけになるわ。」

五浦はそう言って口元に笑みを浮かべた。

良子は五浦の柔らかな表情を見て、ここに来るまで少し波立っていた心が穏やかになっていく気がしていた。

五浦教授は超越力の使い手としての静香を、最も理解している人だ。

彼女が静香のことを知ったのは七年前だという。

本格的に関わるようになったのは、静香と大進がUNITTEに加入した二年前からだ。

五浦は静香のために、拠点としていた欧州を離れてUNITTE筑浦研究所に入所している。

今でもケルン大学を始め名だたる大学や研究機関に籍を置く彼女が、国連所管とはいえ日本の地方都市にある小さな研究所に所属しているのは、良子達にとっても僥倖ぎょうこうと言えた。

良子や、大鳥真美を始めとする研究員達も彼女には一目置いている。

超越力の研究における彼女の実力はもちろんのこと、静香のことを第一に考えてくれることが何よりも良子にとって頼もしく、嬉しいことだった。

「そう言えば。」

五浦はマドレーヌの包みを開けながら良子に問いかける。

「合宿をするんですってね。」

「あ、はい。夏休みに入ったら、国連の研究所がある例の島で。」

「いいじゃない。あなたも行くんですって? たまには仕事から離れて気分を変えるのはいいことだわ。」

「……仕事から離れて気分を変える、か……。」

良子は何かを思いついたように、コーヒーカップを見つめている。

「どうしたの、所長代理。」

「ええ。ちょっと思いついたことがあって。」

良子はそう言って自分の中で生まれた考えを五浦に話す。

五浦は少しだけ目を丸くしたが、やがて小さく頷いて微笑んだ。

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