第20話 幕間劇「夜の女王 II」

 広大な森の中に建つ石造りの館。

メイド長のエミリアは、かごいっぱいの野菜を厨房裏の入口に置いて一息ついた。

今日のように質の良い野菜が多く手に入ったのはいつ以来だろうか。

市場でも不作の話ばかりが耳に入る。

これから夏も盛りだというのに、この涼しさでは無理もない。

王都の遥か北に位置するこの領地は、年々厳しさを増していくように思える。

彼女は夜空を見つめ、小さくため息をついた。


   ◇


 エミリアは銀色の巻き毛の上に乗せた白いキャップを直し、廊下の照明を灯した。

年代物の壁はよく手入れはされているものの、大部分がくすみ、あるいは色せている。

二人のオールワークス・メイドと老執事が守るさびれた屋敷は、かつての栄光は見る影もなかった。

不意に、廊下の壁に取り付けられた厚い木の扉がきしみ音と共に開く。

白く小さな手が、なかなか開かない重い扉を懸命に押すのが見えた。

「オフィーリア様!」

エミリアは思わず声を上げる。

「いつ戻られたのですか!」

地下室と屋敷を繋ぐ入口から姿を見せた小柄な少女に、彼女は慌てて駆け寄る。

エミリアの姿を見つけたオフィーリアは、ほこりと汗で汚れた顔で天使のような笑みを見せた。

「領地の視察から戻る途中に、ギルベルトとクランツの姿を見かけてな。育成地域から逃亡したレッサードラゴンの捕獲を手伝っていたところだ。」

ひとまわり年長のエミリアに得意げな顔を見せるオフィーリア。

銀髪のメイド長は廊下に膝をつき、ハンドタオルで彼女の顔を拭った。

「またそのような危険なことを……。」

「危険なものか。私には母上よりいただいた鎧衣アルマ『夜の女王』があるのだぞ。」

エミリアが優しく顔を拭うにまかせていたオフィーリアの真っ白な素肌が姿を現す。

菫色の大きな瞳と桜色の小さな口元は、齢十四を数える実際の年齢よりもずっと幼く見えた

「母上はどうしておる。」

「お休みになられておられます。先ほどお医者様がお薬を。」

「そうか。カイウス先生はもう帰られたのか?」

「いえ。薬の調合のために別室を借りたいと。空いていた使用人室をお貸ししました。」

そう言って彼女は廊下の奥にある小部屋を指し示した。

「そうか。母上の病状もお尋ねしたい。夕餉ゆうげのお誘いをしておいてくれ。」

「かしこまりました。」

「エミリア。」

「なんでしょう。」

オフィーリアは悪戯っぽく微笑むと、立ち上がったエミリアの顔を下から見上げるようにして覗き込む。

「急いで帰ってきたのはな、お前が作る料理の味が恋しかったというのもあるのだ。例のスープを作ってくれ。プティングもな。」

そう言ってオフィーリアは笑うと、自室へと駆けていった。

「シロップも忘れないでくれよ! あれが好きなんだ!」

いそいそと駆けていくその後ろ姿を見て、銀髪のメイド長はため息をついた。

あんなに愛らしい少女が、古い扉を通じて地下室を通り抜けると、おぞましい黒き鎧を纏った姿になるなど、誰が想像ができるだろうか。


   ◇


「やあ、とても良い香りがしますね。」

長い髪を後ろで束ねた若き男性医師は、広間に入るなり声を上げた。

彼は白い長袖シャツに、濃い茶色の長ズボンを履いている。

訪れる人がめっきり減った広い応接間に置かれた慎ましいテーブルには、白いクロスの上に二人分のカトラリーが並んでいた。

「晩餐を用意させていただきました。本来なら当主か兄が応対するところでございますが。」

オフィーリアは髪を結い、すみれ色の簡素なドレスに着替えていた。

「いえいえ。『黒い森の姫君』と御同席に預かれるなど、光栄です。」

「おたわむれを申される。そのような話、どこでお聞きになりましたか。」

「この地域の方々で、オフィーリア様のお話をされぬ方はおりません。それに、都でも高名は伺っておりますゆえ。若くして鎧衣アルマを託された、勇ましく賢明な姫君であると。」

「まあ。都ではそういうお世辞が流行っておられるのですね。」

オフィーリアは少し顔を赤らめてそう答えると、エミリアを呼んだ。

 

 テーブルには籠に盛られた黒パンと、ローストした鴨肉に蒸し野菜、そして温かい湯気を立てるポタージュと、小さなガラスの器に入ったプティングが並べられた。

「厳しい土地ゆえ、何も手に入らず。お口にあいますかどうか。」

「これは美味しそうだ。このような立派な食事は久しぶりです。素敵な香りで、朝に食事をしたきりであったことを、今しがた思い出しました。」

「まあ。」

「医者の不養生という言葉ではありませんが、どうしても診察の合間に簡単に済ませることが多いもので。世話になっているお屋敷の奥方様にもよく叱られております。」

細身で背の高い、優しい顔をした医師は嬉しそうに食事を進めていく。

オフィーリアはプラムの果汁を冷たい水で割った飲み物に口をつけた。

「カイウス先生。王都みやこのご様子はいかがですか。夏のこの時期はさぞ賑やかでございましょう。」

「活気はございますが、ここ最近は物資の不足に悩まされております。避難民も日に日に増えておりますゆえ。」

医師の表情がにわかに暗くなる。

「……そうなのですか。噂には聞いておりましたが、まさかあのような大国が、ああまで呆気なく滅ぶとは……。」

オフィーリアは、手にしたナイフとフォークを持ったまま目を落とした。

「オフィーリア様。」

エミリアの静かな一言で、彼女は顔を上げて口を開く。

「……そうだな。せっかく先生がいらしてくれたのだ。このような暗い顔をしていても始まらぬ。都の楽しい話でもお聞かせいただこう。」

「楽しい話ですか。そうですね……。私がお世話になっているお屋敷に住み着いている猫の話でも致しましょうか。」

「猫!」

オフィーリアの菫色の瞳が輝く。

「ええ。しばらく様子を見ないと思っていたら、納屋で子猫を産んでおりましてね。」

「こ、子猫……! それでどうなさったのです?」

オフィーリアはちぎったパンを手に持ったまま、身を乗り出す。

「まあ、オフィーリア様。」

エミリアが思わず苦笑する。

「子猫の話と聞いては、日頃の行儀など守ってはおられぬぞ、エミリア。」

「オフィーリア様は猫がお好きなのですね。」

若き医師は、笑いながらスープを口に運ぶと、不意に手を止めて呟いた。

「……このポタージュは……。」

「どうなされました先生。お気に召しませんでしたか。」

「いえ、めっそうもない!そのようなことではありません……。」

医師は慌てた顔で否定する。

「安心いたしました。私がこの料理を好きなので、エミリアにお願いしたのです。」

「そうだったのですね。美味しいですよ。とても……。」

「エミリア、この料理はいかようなものだったかな。」

「トウモロコシのポタージュでございます。裏漉しをして、牛乳と生クリームで仕上げているのでございますよ。」

「なるほど……。」

医師は大切そうにスプーンで口に運ぶと、懐かしげな笑みを見せた。

「私の古い知人で、この料理を好きな者がいたことを思い出しました。」

その言葉を聞いたエミリアは、一瞬不思議そうな顔をする。

オフィーリアはカイウス医師に問いかける。

「先生も、食べ物で懐かしき人を思い出すこともあるのですね。」

「ええ。オフィーリア様も、そのようなことはございますか。」

彼女は悲しげに目を伏せると、小さなガラスの器に入ったデザートを手に取った。

柔らかく揺れるプティングの表面に、艶やかなブラウンのシロップがかけられている。

「このプディングは良人おっとの好物だったのです。」

オフィーリアは小さな白い指先で、器の縁を愛しそうに撫でる。

「幼き日、私が初めて作ったプディングを、この世で一番好きだと言ってくれました。卵と牛乳、砂糖を混ぜて蒸しただけの簡単なものだったのに。」

彼女は沈黙の後、小さく呟く。

「このようなことになるなら……。もっと食べさせてあげたかった。」

カイウス医師はその姿を見て口を開く。

「その……ご主人は……。」

「婚約して間もなく、遠き土地で国命に殉じたと聞いております。大切な任務の途中だったと……。」

「これは失礼をいたしました……。辛いご記憶を……。」

「良いのです。思えば長らくこの話をしていなかった。久々に我が良人おっとのことを話すことができ、懐かしい気持ちになれました。」

オフィーリアはそう言うと、愛らしい笑みを作ってみせた。

まだ婚姻ができる年に達していない彼女が、婚約者とはいえ「我が良人おっと」と呼ぶことは、人によっては奇妙に聞こえることだろう。

だが、心優しい医師にはその言葉が自然に響いていた。

「このプティングを見るたびに、懐かしく思い出すのです。先生も、そうでございましょう。」

「はい。このスープを彼女に食べさせてあげたいと思いました。」

「その方とはお会いにならないのですか。よければエミリアに作り方を書かせて持たせましょうか。」

「……遠い国におります。もう会うことは……。」

「そうですか……。こちらもすまないことを聞いてしまいました。」

離れて控えているエミリアは、彼らの話を聞きながら、ほんの僅かに違和感を感じていた。

彼女が出したスープ料理は、ここよりさらに北の土地にある故郷で、祖母から『遠い国』のものとして教えられた、都ではあまり見かけることない料理だ。

この国では、その『遠い国』を時折別の名で呼ぶことがある。

『地上』と。


  ◇


 辺りを夜の闇に覆われた屋敷の外には、えりのついた茶色の上着を着た医師と、見送りに出てきたオフィーリアとエミリアの姿があった。

「コミューターまで呼んでいただき、ありがとうございます。」

カイウス医師はそう言って頭を下げる。

屋敷の門の外には、紡錘型の小さな乗り物が一台停まっていた。

継ぎ目の見当たらない合金性の外装とガラスルーフに包まれ、側面にある半円状のカバーの中にタイヤが取り付けられている。

コミューターとは、この国で短距離の移動に使われる完全自動運転の電気自動車である。

星明かりに輝く銀色の車体は、蔦の這う古めかしい門と対照的な様相だった。

半袖のドレスに上掛けを着たオフィーリアが医師に声をかける。

「町場の宿までお送りしたいところですが、母の様子も気になりますゆえ。」

「お気遣い感謝いたします。御母堂様の病気は新しい薬が効いておりますが、安静にされること、心安らかに暮らされることが何より大切です。」

「先生のおっしゃる通りにいたします。お忙しい身と存じますが、またいらしてください。」

「ええ。その時はまた、子猫の話をいたしましょう。」

医師はそう言って微笑み、ふと何かを思いついたように顔を上げる。

「そうだ。奥方様に、子猫の行き先が決まっていなければ、オフィーリア様にお譲りできるか聞いておきましょうか。」

「本当ですか、先生! エミリア、聞いたか!」

目を輝かせているオフィーリアに、エミリアは微笑んで頷く。

「またいらしてください、先生! できるだけ、早いうちに!」


   ◇


 若き医師を乗せたコミューターは、広い農地に挟まれた田舎道を静かに進んでいく。

オフィーリアの住むおごそかな佇まいの洋館はすでに遠く離れ、満面の笑みで手を振りながら見送ってくれた少女の姿はとうに見えなくなっている。

時折農地の中に見える赤煉瓦でかれた家々が灯す小さな灯を遠く見ながら、医師は口を開いた。

「天井を開けてくれませんか。」

『承知いたしました。』

機械合成とは思えないほどの自然な声がコンソールから発せられると、中央の赤いランプが点滅し始めた。

頭上を覆っている銀色の屋根が開いていくと、そこには夏の星空が広がった。

「天の川だ。今日はよく見える。」

彼は空を見上げたまま背もたれに身を預けた。

誰が信じるというのだろう。

この星空が作り物だなんて。

眼前に広がるすべての風景は、地表の光が届かない地下深くに造られているなど、今だに信じきれないことだった。

彼は深く息をつくと、ぽつりと呟く。

「久しぶりに君のことを思い出したよ。」

彼は夜空に広がる星の河を見つめたまま呟いた。

「もう三年になるんだね。真美……。」


   ◇


「母上。領地より戻りました。」

医師を見送ったオフィーリアは、屋敷の二階にある母の寝室を訪れていた。

「おお、オフィーリア。領地視察、ご苦労であった。」

ベッドから半身を起こした母親が答える。

黒く長い髪を無造作に結った彼女のくぼんだ目が、オフィーリアの姿を捉えていた。

「叔父上の付き添いではありましたが、得るものは多くございました。我が一族の威光、衰えていないようです。」

「我らが土地は如何であったか。」

「農地も鉱山も、依然厳しい状態です。ですが、領民たちは知恵を絞り、厳しい冬を超えらるよう努力しております。」

「見捨てられた土地ぞ。人の意志などまるで解さぬ。」

突き放すような声と共に、彼女は小さくせき込む。

オフィーリアは彼女の背中をさすった後に、その細い小さな肩に上掛けをかけた。

かつては都において宮廷の華と呼ばれたその面影は、長い荒地暮らしの中でとうに消えて無くなっているように見えた。

「兄上は都から戻られぬのですか。」

「戻らぬように申し伝えたのだ。棚上げになっている王家との縁談がまとまるまで、軍務に励むようにとな。病床の末娘とは言え、王家は王家だ。」

「……。兄上は黒騎士をお持ちにならなかったのですね。」

オフィーリアの母親は、その名を聞いて蔑むようにして笑う。

「これから王家に連なろうとする者ぞ。よりふさわしい鎧があろう。」

宙を見つめるうつろな眼が、わずかに光を取り戻す。

「あの白騎士のようにな。光り輝く白亜の姿。あの鎧衣アルマこそ王家にふさわしい。」

長く避けていたその名を聞き、オフィーリアは胸が締め付けられるような思いに囚われていた。

再び強く咳込み始めた母の背中を、オフィーリアは優しくさする。

「……オフィーリアよ、地上に送り込んだ獣装兵は如何いたした。」

オフィーリアの手が止まる。

「鎧装した成竜のレッサードラゴンだ。多くの地上人どもを血に染め、蹂躙したであろうな。」

「母上、お身体に差し障ります。」

「如何いたしたかと聞いておる。」

弱々しい姿から発せられたと思えないほど鋭い口調に、オフィーリアは息を呑んだ。

「……地上で消息を絶ったと報告を受けました。」

「な……。何たること……!」

「ご安心ください。組織が用意した水棲型の新しい獣装兵が……」

オフィーリアの母は、ベッド脇に置かれていた花瓶を手で払う。

薄紫の花が活けられた陶器の花瓶は床に落ち、激しい音を立てて砕けた。

「おのれ、地上人どもめ! おのれ!」

「母上! 母上……どうか……。」

「我々がどれだけ犠牲を払ってあの獣装兵を送り込んだと思う……!」

母はオフィーリアの両肩を掴み、自らの娘を怒りに満ちた瞳で射抜いた。

「よいか。お前の良人おっとあやめたのは地上人共ぞ。お前の輝かしい未来を奪い、我ら一族をこのような土地に押し込めたのは、全て地上人なのじゃ。」

オフィーリアは黙って頷く。

「お前はな、あの腰抜けの父親とは違うのだ、オフィーリア。」

彼女は病床の身とは思えないほどの力を手に込めている。

「今は王宮も穏健派が占めているが、遠くないうちに侵攻派の牙城となるであろう。地上侵攻の暁には、オフィーリア、そなたが旗頭はたがしらじゃ。」

オフィーリアが頷くと、彼女の母親は急に柔和な表情となり、瞳に涙を浮かべてささやく。

「それまでは苦しいであろうが、母娘共に歩んで参ろう。これもお前のためなのだ、オフィーリア。母の思い、わかってくれような。」

「……はい、母上。」

彼女はオフィーリアを抱き寄せ、柔らかな黒髪を撫でる。

「さすがは我が娘ぞ。」

オフィーリアは黙って母の胸に顔を埋め、目を伏せた。

その時、ドアをノックする音と共に、メイド長のエミリアの声が部屋に届いた。

「奥方様、お薬の時間です。」

オフィーリアは母親の身体をベッドに寝かせた。

「母上。地上侵攻の暁には、我が良人おっとの仇の首を母に捧げますゆえ、それまではどうぞご健勝で、心静かにお暮らしください。」

「頼もしいぞ、オフィーリア。それでこそ我が娘。天空を駆ける戦乙女ワルキューレですら、そなたの勇ましさにひれ伏すであろう。」

オフィーリアは頷いて踵を返すと、部屋を出る。

部屋の外では銀髪のメイド長がかしづいていた。

オフィーリアは深いすみれ色の瞳で彼女を一瞥すると、何も言わずに廊下を歩き去っていく。

エミリアは、その様相に戦慄していた。

歩き去る彼女が見せたその冷たい瞳は、先ほどまで医師とテーブルを囲んでいた彼女とはまるで別人のようだった。

オフィーリアの後ろ姿に、エミリアは幼き日に読んだ歌劇の一節を思い出していた。

彼女は歌劇オペラというものを観たことがないが、本で繰り返し読んだその内容をよく覚えている。


『魔笛』


幼き日に触れたその歌劇は、今でも彼女に恐ろしい印象を残していたのだ。

歌劇オペラのハイライトとなるアリアで、ヒロインの母親は娘であるパミーナに短剣を渡し、宿敵ザラストロへの復讐心を朗々と歌う。

そして、宿敵が娘の手によって討ち果たされないのであれば、お前は私の娘ではない、と迫るのだ。

燃えさかる地獄の炎のような復讐心に囚われたその母親は、歌劇ではこう呼ばれている。

『夜の女王』と。

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