第8話 生徒会の「策士」

  本校舎から旧校舎へと続く渡り廊下で、一人の女性生徒が辺りを伺っていた。

彼女の名は幸田こうだ早希さき

生徒会で文書管理を担当する二年生である。

小柄な身体にショートカットの黒髪。

華奢な外見とは裏腹に、強い意志を感じさせるような瞳が印象的な女子生徒だ。

彼女は旧校舎を見上げている。遠くでは昼休みを過ごす生徒達の賑やかな声が蝉の声に混じって聞こえてきていた。

(水曜日だけど、昼休みは来ていないようね……。)

そう言って彼女は小さくため息をつく。

早希が探していたのは、C教室を根城とする久遠達五人の姿だった。

普段の彼女は生徒会のエースである剣持秀一郎けんもちしゅういちろうと共に行動することが多い。

御堂一真を生徒会のメンバーにスカウトしようと躍起になっていた剣持とは何度となくC教室を訪れ、その度にけんもほろろに断られるという苦い思いをしていた。

この日旧校舎を訪れたのは、彼女なりに立てた策をもって、お互いに歩み寄ることを話し合うためだった。

(放課後にまた来ればいいか……。)

その時、彼女を後ろから呼び止める声がした。

「誰か探しているのかい? 幸田さん。」

「生徒会長。」

早希が振り向くと、そこには小柄な身体に制服を着崩した生徒会長の姿があった。

ふわっとした毛先の髪の下で、人懐っこい笑みを浮かべている。

彼の両脇には長身に細面の生徒副会長と、豊かな髪を丁寧に巻いた美しい女子生徒が立っていた。

旧校舎は学業に使われることが無いため、この渡り廊下を訪れる生徒は少ない。

生徒会の重鎮として知られる三人が揃ってこの場所にいることが、早希を内心驚かせていた。

「いいえ、何も……。生徒会長はこちらで何か……。」

「旧校舎の視察さ。普段はこっちには来ないからね。いやあ、校舎の暑いの何の。」

そう言って笑う彼の横に立つ女子生徒が口を開く。

「今日は剣持くんは一緒じゃないのかしら?」

「はい……。大会が近いので、剣道場に行っているはずです。」

早希の脳裏に、たくましい長身の男子生徒の姿が浮かぶ。

剣持秀一郎は、学内でも指折りの優秀な生徒として知られ、二年生でありながら生徒会活動の中心を担う人物だ。

「聞いたか、二人とも!」

生徒会長は讃えるように両手を広げる。

このように大仰おおげさなところが、彼の魅力でもあり、鬱陶うっとうしがられるところでもあった。

「まさに文武両道。生徒かくあるべきだな。」

彼はそう言って満足そうに頷いていたが、ぱっと笑顔を見せながら続ける。

「ま、僕はどっちもダメなんだけどね!」

生徒会長は傍にいる長身の生徒の背中を叩きながら高らかに笑うと、生徒副会長である彼は深いため息をつき、こいつは本当に仕方ないな、という顔をした。

「ところで、幸田さん。こないだの話、興味深かったよ。」

「報告書、読んでいただけたんですか。」

「もちろんさ。なあ、白鷺さん。」

白鷺と呼ばれた女子生徒は、胸の下で腕を組んだまま表情を変えずに口を開く。

「旧校舎の理由のない使用は校則違反。生徒会で調査をしたところ、あなたの報告書通りでしたわ。」

背の高い彼女は、早希を見下ろすようにして続ける。

「早速、生徒監査部に話を回しておきましたわ。」

「生徒監査部に!?」 

白鷺百合しらさぎゆりの涼しげな言葉に、早希は思わず声をあげてしまう。

新誠学園の生徒自治は生徒会によって行われているが、生徒及び生徒会の活動を観察し、指導と監督を行う部門が生徒監査部だった。

生徒会よりも強い権限を持たされているが、よほどの時でなければ動かず、ここ数年の間は特に目立った活動をしていなかった。

「そんなに大ごとなのですか?」

「生徒はルールを守る必要があり、我々生徒会はそれを管理する必要がある。」

長身の生徒副会長が発する抑揚の少ない声が、早希の言葉を抑え込むように響く。

生徒会長が黙って頷くと、傍にいた白鷺が口を開いた。

「寂れた旧校舎の古いC教室より、近代的な新校舎の方がずっとエレガント。我が校の生徒にふさわしいと思わなくって?」

白鷺は胸の下で軽く腕を組んだまま、学園の白百合と言われるほどの美貌を少しも崩すことなくはっきりと言い放った。

早希の掌はじっとりと汗をかいている。

「まあ、そういうことだ。」

両脇の二人の背中を叩き、生徒会長が進み出る。

「安心したまえよ、幸田さん。C教室の彼らの経歴に傷がつくようなことはしないさ。なんでも、優秀な生徒が何人もいるらしいじゃないか。」

いつもの人懐っこい笑みを、身を固く強ばらせた早希に向けながら続ける。

「僕達はね、生徒が健やかに楽しく過ごすようにしたいと思っているだけなんだ。新校舎の方がエアコンもよく効くしね。それに。」

生徒会長は、早希の耳元でささやくように続ける。

「剣持くんの顔が立つようにするよ。彼のことは気に入っているんだ。僕もね。」

「わ、私はそんなつもりでは……。」

声を絞り出しているが、生徒会長の耳に入る前に霞んで消えていく。

その様子を見ていた白鷺百合が早希に言葉をかける。

「あなたもなかなかの策士ですわね。見直しましたわ。」

整った口元で小さな笑みを作った百合の言葉を、早希は血の気が引くような思いで聞いていた。

「なあに、策も搦め手からめても技のうちさ。これからも剣持くんの力になってやってくれ。」

生徒会長は、青い顔をした早希の肩をポンと叩いた。

彼の後ろで、副会長のチェロを思わせる低音の声が飛ぶ。

「生徒会長。そろそろ。」

「おっと、そうだな。カフェテリアが終わってしまう。お昼に行くとしようか。」

「わたくし、クロワッサン定食にいたしますわ。」

「旨いのかい、それ。じゃあ僕もそれにしよう。副会長もそれでいいよな!」

生徒副会長と白鷺百合を伴って渡り廊下を行く生徒会長。

白鷺は立ち止まって振り向くと、早希に声をかけた。

「あなたは、どうするのかしら? お昼、まだでしょう?」

美しい口元をほんの少しだけ動かしただけの微笑みの中に、何かを迫るような圧力があることを早希は感じていた。

白鷺百合は、その並外れた美貌と共に、学内でも特に優秀な生徒として知られている。

次の生徒会長選では、生徒会長の座をかけて剣持秀一郎と対決するだろうということは、生徒会のみならず一般生徒の間でも話題になっていたのだ。

彼女は表情を凍り付かせたまま、無言で首を振る。

その小さなリアクションは、早希にとっては渾身の力が必要だった。

「そう。気が変わったらいつでもいらっしゃい。」

白鷺は美しい笑顔を崩すことなく、涼しげに言い残して身を翻す。

渡り廊下を行く三人の後ろ姿を見ながら、早希は呆然と立ち尽くしていた。

足の震えが止まらない。

彼女はその場から動けないままでいた。


(まさかこんなことになるなんて……)

旧校舎利用違反の報告書を書いたのは、C教室を使う御堂達に不満や恨みがあったからではなかった。

もちろん、何度となく彼らの元を訪れて頭を下げたにも関わらず、平然と切り捨てるように断る御堂一真に反感がなかったわけではない。

しかし、それよりも彼女の心を大きく占めていたのは、真剣に生徒会と学校の未来を考える剣持秀一郎の助けたいという気持ちだった。

それが彼に対して長年抱いていた淡い想いとは無関係ではないことは、自分自身にもわかっている。

同時に、ある種の後ろめたさを感じていたのも事実だった。

だからこそ、剣持にも相談することなく事を進めていたのだ。


「幸田。何してるんだ、こんなところで。」


後ろからかけられた聞き慣れた声に、早希の心臓は凍りつきそうになった。

彼女が振り向くと、そこには紺色の剣道着に身を包んだ剣持秀一郎の姿があった。

剣持は中等部は剣道部の主将として活躍したが、高校では生徒会に専念するため剣道部には入らず、大きな大会の前だけ指導役として練習に参加している。

昼休みを使った短い稽古が終わったばかりらしく、彼は額から流れる汗をタオルで拭っていた。

「いえ……何も。」

「こんな何もないところで、何もということはないだろう。」

「本当に、何でも無いんです……。」

「そうか。」

剣持はタオルをしまいながら、続ける。

「幸田、昼休みが暇なら、たまには剣道場に顔を出さないか。」

早希は伏せていた顔をほんの少し上げる。

剣持は稽古の疲れを忘れたように、快活な表情で話を続ける。

「今日も皆と剣道部時代の君の話になってな。中等部時代の君のまっすぐな太刀筋、本当に素晴らしかった。自分より大きな相手でも、策を弄さずに正面から剣をぶつけていくいさぎよさ。今でも後輩達に聴かせているんだ。」

傍目から見れば、剣持は剣道部時代の早希の事を話し、誇ることが嬉しくて仕方がないようだった。

その様子に気づくことなく、早希の表情はみる間に青ざめて曇っていく。

「ごめんなさい、教室に戻ります。」

再び顔を伏せ、剣持の横をすり抜けるようにして歩き出した彼女を不思議そうに見送りながら、彼は優しげに声をかけた。

「来週またC教室の御堂と城戸くんを訪ねる。一緒に来てくれよ、幸田!」

早希は彼の呼びかけには何も答えず、渡り廊下を黙って駆けていった。

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