第4話 旧図書室の花

 和泉久遠が通う新誠学園高等学校には、三つの校舎が存在する。

近代的な外観と最新の設備を擁する「新校舎」。

三十年前に建てられた六階建ての「本校舎」。 

そして、新誠学園の歴史が始まった当時からある「旧校舎」だ。

八十年前、地元の名家から提供された広大な敷地に、海外を視察してきた教育者達が当時の先端技術と大きな理想をもって建設した木造二階建ての校舎である。

白木を用いた美麗な外観は当時でも群を抜く美しさを誇り、その先進性から多くの教育者達が視察に訪れたという。

時代の移り変わりと共に、筑浦市を代表する教育機関として多くの生徒を迎え、見送ってきたが、今ではその役割を終えて生徒達の声を遠く聞きながら静かな刻を過ごしていた。


 久遠は旧校舎の正面にある木製の巨大な扉に取り付けられたセキュリティ装置にスマートフォンを当てた。

生徒証アプリが起動し、認証音とともに鍵が開く。

扉を抜けると木製の靴箱がずらりと並んでおり、これまでその校舎で時を過ごした生徒の多さを物語っていた。

彼は建物の形に沿って伸びる長い廊下を進んでいく。

窓からは夏の日差しが降り注ぎ、踏み締める木組の床は時折きしみ音を上げた。

今では倉庫として使用されているA教室とB教室の横を抜ける。

二階への階段を挟んだその隣には、C教室の札がかけられた教室があった。

その中はありし日の教室をそのまま保存したかのように、巨大な黒板と古い木製の教卓、そして三十人分の机と椅子が整然と並んでいた。

久遠は無人のC教室を横目で見ながら、歩みを進めていく。

長い廊下の突き当たりには、ガラスがはめられた木製の引き戸がある。

引き戸の上には、開校当初から使われているという「図書室」と筆で書かれた小さな木板が掲げられていた。

久遠は小さく深呼吸をすると、そっと引き戸を開けた。


   ◇


 薄暗い図書室の中では古い壁掛け時計の針が小さく鳴っている。

背の高い木製の本棚がずらりと並び、ところどころ背が焼け、管理番号の文字がかすれた蔵書が敷き詰められていた。

彼は慣れた足取りで奥の司書教諭室へと進んでいく。

奥から聞こえてきた、草木の重なるかすかな音に彼は歩みを止める。

少しだけ開かれた窓から入る夏の風が、薄いカーテンを揺らしている。

久遠の視線の先に、髪の長い美しい横顔の女性が姿を見せた。

「おはようございます。篠宮先生。」

彼女は久遠の姿を見つけると、明るい笑みを見せる。

「おはよう、久遠君。」

深いブラウンの長い髪を後ろで束ね、いつものベージュのカーディガンに、白いブラウス、紺色のスカート。

彼女は色鮮やかな夏の花で作られた花束を、胸の前に掲げていた

朝の陽光に照らされた透き通るような白い肌、青みのかかった黒い瞳を見ていると、久遠はまるで魔法にかけられたように声を出せずにいた。

「綺麗でしょ。」

久遠は目を見開いたまま、二回ほど頷く。

「学校来る時に買っちゃった。最近、全然花を見るような生活してなくてさ。いろどりが無いっていうのかな。」

「綺麗ですよ、本当に。」

久遠は絞り出すような小声で言うと、頬を赤らめているのを気がつかれないように、少し目を背ける。

篠宮良子は彼のそんな様子に気がつくと、花束を持ったままそっと近づいてくる。

「ひょっとして、久遠君。見惚みとれちゃった?」

「!」

久遠は声にならない声を出し、思わず一歩後ずさる。

「綺麗って言ってくれたのは、お花のこと、でいいのかな。」

彼女は悪戯っぽい微笑みを浮かべたまま、彼に顔を近づける。

目を背けたまま何かを言おうとしている久遠の口元を見て、彼女は耐えきれないように小さく笑った。

「冗談よ、冗談。学校では年頃の可愛い子達に囲まれているし、研究所でも綺麗どころは見慣れてるもんね。」

彼女はそう言って笑いながら久遠の制服の肩を軽く叩くと、身をひるがえして司書教諭室の奥に入っていく。

良子は手慣れた様子で花瓶に花を活けながら、彼に声をかけた。

「コーヒー飲んでくでしょ? 昨日、ちょっといい豆を買ってきたんだ。」

「はい! あ、その前にシステムの更新だけ先に見ちゃいますね。」

「うん、お願いね。」

図書委員として良子の仕事を手伝う彼は、司書教諭室で彼女とお茶やコーヒーのひと時を過ごすことがあった。

彼にとって、その時間は何よりもかけがえのない時間だったのだ。

奥の部屋でコーヒー豆を挽く音が聞こえる中で、久遠は旧図書室用のノートパソコンを開き、蔵書管理システムのアップデートプログラムを走らせる。

程なく現れた完了のメッセージを確認すると、彼はノートパソコンを閉じた。

「え。もう終わったの!?」

良子は湯気の上がる二つのコーヒーカップを載せたトレーを持ったまま、呆気に取られたような声を上げた。

「マニュアルの手順が一個抜けてたみたいです。新図書にあるパソコンと同じ手順でやったら上手く行きました。」

「なんだー。昨日あんなに一人で苦労したのに……。最初から久遠君にやってもらえばよかったわ。」

良子はそう言って笑うと、テーブルに並べたコーヒーとマドレーヌを久遠に勧める。

挽きたてのコーヒーと甘い焼き菓子が奏でる香りが二人の心を賑わせていた。

「ありがとね、こんなに朝早くに。」

「いえ、図書委員の仕事ですし。それに……。」

「それに?」

「朝から篠宮先生とコーヒーを飲めて、その……。」

「その、なあに?」

彼の目の前に座り、両手でコーヒーカップを持った良子が彼を見つめる。

久遠は絞り出すように呟く。

「……嬉しいですし。」

良子は彼の表情を見て微笑みかける。

「私も。」

「え?」

「私も嬉しい。」

そう言うと、彼女は小さく微笑む。

「天気のいい朝に、お花を飾って。コーヒーを飲めて。久遠君と。」

コーヒーカップに手を添えたまま聞いていた久遠は、彼女の屈託のない笑顔の眩しさに、思わず目を逸らしてしまうのだった。

その時、司書教諭室の片隅にある透明の器に入った薔薇の花が目に入った。

「篠宮先生、あの花は……。」

良子はほんの少しだけ戸惑った様子を見せたが、すぐにいつもの表情に戻る。

「あの花はね。何年も前にいただいた花なの。」

「花って、そんなに保つものなんですか?」

アクリル製のケースに入ったその花は、瑞々しささえ感じるピンク色の花弁をつけていた。

「プリザーブド・フラワーと言ってね。何年も保つことができるように、花に特殊な加工をするの。」

「へえ……。素敵ですね。」

「もちろん、何十年も保つようなものじゃないから、いつかは枯れてしまうんだけどね。」

「わかりますよ、そういうの。いつまでも保つかわからなくても、できる限り長い間残したいっていう気持ち。」

ケースの中の薔薇を興味深げに眺めている久遠の後ろ姿を、良子は愛おしげな眼差まなざしで見つめる。

「この花を先生に渡した人も、きっと喜ぶと思います。」

彼の言葉を聞き、良子はほんの少しだけ哀しげにまつ毛を伏せた。

その時、久遠のポケットに入ったスマートフォンが振動する。

「あ、ホームルームが始まっちゃう。」

彼はそう言ってスマートフォンをしまう。

「そろそろ行きますね、先生。」

「うん。ありがとね。助かったわ。」

鞄を手に取って立ち上がる久遠に、良子は静かに近づく。

「久遠君。」

「あ、はい。」

彼女の方を向く彼に、良子の細い両腕が伸びる。

「ネクタイ、曲がってるよ。」

細い指先が久遠の首元に結ばれた赤色のネクタイをそっと直す。

「……その、ありがとうございます。」

頬を赤らめて固まっている久遠に良子が笑いかける。

「いつも格好良くしてなさい。せっかくイイ顔してるんだから。」

「そんなことないですよ。」

「何言ってんの。きっと学校の子達にも、君のこと気になる子が出てくるわよ。」

「まさか。そんなことありえないですよ。」

久遠は照れ笑いをしながら答える。

良子は彼の姿を見ながら、優しげに微笑んだ。

遠くでホームルーム開始十分前の鐘が鳴る。

「いってらっしゃい。久遠君。」

「いってきます。篠宮先生。」

彼はそう言って小さく微笑むと、旧図書室の木戸を開けて早足で廊下を駆けていった。


   ◇


(ちょっとはしゃぎ過ぎたかしら)

篠宮良子は遠ざかっていく久遠の制服姿を見ながら小さく息をついた。

普段は彼女と久遠以外にほとんど訪れることのないこの旧図書室で、彼と二人で過ごす短い時間がいつの間にか自分の中でも大きな位置を占めていることに気づいていた。

ここ数年買っていなかった花を買い、目立たない場所に仕舞い込んでいたプリザーブドフラワーを手入れして飾ったのも、気持ちに余裕が出てきたからなのだろう。

(助けたと思っていたのに、いつの間にか助けられていたのね。)

彼女の脳裏に、いつも遠慮がちに笑う久遠の姿が浮かぶ。

数ヶ月前、学校見学で旧校舎を訪れた和泉久遠に声をかけたあの日がまるで昨日のように思い出される。同時にそれは、遠い昔のことのように思えた。

忘れられないあの春の日に想いを馳せながら、彼女は自分の白い指先を見つめる。

先ほど触れた彼の赤いネクタイの感触が、今も残っているように感じる。

願わくば、その時に速くなっていた心臓の鼓動や、慣れないぎこちなさが、彼に伝わっていなければいいなと思った。

(そういえば六年前のあの日もネクタイを直してあげたね。君は自分のことにはいつも無頓着なんだから……。)

彼女は寂しげに笑って小さなため息をつくと、司書教諭室にある自分のデスクへと足を向けた。

部屋の隅では、透明のケースに入った薔薇の花が、六年前と変わらない姿で静かに彼女を見守っていた。

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