第3話 夏空の通学路

 茨城県筑浦つくうら市。

日本第二の大きさを誇る湖「霞ヶ浦」を望むその街は、交通と商業の要所として栄えたことから、市内には長い歴史を持つ教育機関も少なくない。

新誠学園しんせいがくえん高等学校」もその中のひとつだった。

創立八十年という歴史を持ち、幾つもの激動の時代を通り抜けてきた新誠学園は近隣でも有名な伝統校だ。

六年前に行われた経営刷新により、自由な校風を持つ進学校として新しいスタートを切ってからというもの、今では近隣地域のみならず多くの人が集まる指折りの人気校となり、生徒数は増加の一歩を辿たどっていた。


 和泉久遠いずみくおんは、夏の陽射しが照らす人通りの少ない朝の通学路を一人歩いていた。

筑浦駅から新誠学園高等学校までは、歩いて二十分ほど。

市内を循環する無料のEVバスを使う生徒がほとんどだが、彼は人通りの少ない朝の通学路をひとりで歩くのが好きだった。

七月に入って夏の暑さが増してきたとはいえ、朝のまだ涼しい空気が残るその時間帯は、少し長めの距離を歩くにはちょうどいい気候だった。

珍しく雲ひとつ無い空の下で、久遠は大きく伸びをした。

「何だか、初めて新誠に行った日を思い出すな。」

そう言って彼は夏空を見上げながら、ほんの数ヶ月前にこの学校に来てから今日までのことを思い出していた。


 六年間暮らしていた仙台を離れ、新誠学園に通うことになった和泉久遠。

入学式の日に学校案内で訪れた旧校舎で、彼が偶然出会ったのが司書教諭の篠宮良子しのみやりょうこだった。

彼を図書委員に誘った彼女の優しげな笑顔。

思えば、その笑顔から全てが始まっていたのかもしれない。

今は使われていない旧図書室を根城ねじろとする彼女の仕事を図書委員として手伝うようになってからというもの、彼の生活は驚くほどの速さで変わっていった。


 ある日の夜、久遠と良子は学校からの帰路で「次元獣」と呼ばれる巨大な怪物と遭遇する。

彼らを窮地から救ったのは一体の「機械の鎧」だった。

その機体を駆る少女「城戸きどあかり」や良子が所属する国連組織「UNITTE」。

そして、旧校舎のC教室で出会った「御堂一真みどうかずま」「滝川大進たきがわだいしん」「諏訪内静香すわないしずか」。

彼らもまた機械の鎧を駆り、世に再び現れた次元獣と戦っていたことを知る。

久遠も研究所のアシスタントとしてUNITTEに加わり、学校生活の他に国連の研究所員として忙しい日々を送ることになった。

その後、導かれるようにして出会った一体の白い鎧が、彼の運命をさらに変えていく。

大規模に行われた次元獣との戦闘で窮地に陥った仲間達を救うために、彼は地下深くに秘匿ひとくされていたその白亜の鎧に身を包んで出撃する。

「白騎士」と呼ばれる機械の鎧で身を包んだ久遠は、仲間達と共に強敵を打ち破ったのだった。

久遠の脳裏に城戸あかりや仲間達と喜び合う姿が浮かび、思わず小さな笑顔を見せる。

そして、月光の下で鎧越しに抱きしめた篠宮良子の細い身体を思い出す。

その度に彼の心の中には暖かさで満たされるような気持ちになった。

この時の彼は気がついていなかったが、彼の行動は仲間達や組織を救っただけにとどまらず、UNITTEを束ねる良子の心を癒し、止まっていた彼女の時間を動かすこととなったのだ。


改めて思い返すと、新誠学園に入学してまだ数ヶ月しか経っていないというのに、自分の人生が大きく変わっていたことに気が付く久遠。

そしてそれがまだ始まりに過ぎなかったことには、彼に気づくよしもなかった。


   ◇


「久遠くん!」

遠くからでもよく通る澄んだ声が久遠の元に届いたかと思うと、軽い足取りの靴音が近づいてくる。

彼が振り向くと、肩に触れるくらいの長さに揃えた柔らかなブラウンの髪を揺らしながら駆けてくる女子生徒の姿が見えた。

「やっぱ久遠くんだった。」

城戸あかりは少し息を切らし、うっすらと額に汗を浮かべながら、久遠に微笑みかけた。

「城戸さん。」

「おはよう、久遠くん。」

白いブラウスに赤いリボンタイ、グレーのスカート。

新誠学園高等学校の夏服が彼女の身を綺麗に包んでいる

「早いね、城戸さん。」

「今日は日直だから、少し早めに出てきたんだ。久遠くんは?」

「僕は図書委員の仕事で。篠宮先生、今日は朝しか時間が取れないんだって。」

「そうだったんだ。良子、あれからさらに忙しそうだもんね。」

新誠学園の司書教諭である篠宮良子。

国連機関UNITTEの創設メンバーであり、同組織が有する筑浦研究所の所長代理でもあった。

城戸あかりは彼女とは旧知の仲であり、七歳年上の篠宮良子を「良子」と呼んでいる。

それは彼女達二人だけしか知らない、昔からの約束なのだという。

「良子、朝苦手だからねー。きっと今日も図書室で寝てるんじゃない?」

「そうかも。」

「ね。わかるでしょ?」

あかりが耐えきれずに笑い出すと、久遠も小さく笑った。

「ところで今日の放課後、久遠君も行くでしょ?」

「うん。もちろん。大進君や諏訪内さんも、それから一真君も来るって。」

「あー、一真あれもね。」

口をへの字に曲げる彼女を横目で見ながら久遠は苦笑すると、再び明るい顔に戻って口を開く。

「みんなで街に出かけるの初めてだから嬉しくて。」

「私も。」

あかりが満面の笑みを見せる。

「みんなのことは前から知ってるんだけど、あんまり一緒に出かけたりとか無かったんだよね。」

「そうなんだ。」

「研究所で会えば話くらいはしてたけどね。私は良子といることが多かったし、静ちゃんは大進くんといつも一緒だし。一真はいつも一人でゲームしてたしさ。」

「一真くんはなんとなく想像つくかも。」

「みんなでC教室に集まるようになったのも最近だしね。」

C教室は現在は使われていない旧校舎の一階にあり、彼らの秘密の溜まり場になっていた。

「毎週水曜に集まるようになったの、久遠くんのおかげだよ。」

「え、そうなの?」

あかりは彼の問いに答える代わりに、ちょっとだけ微笑んでみせた。

「私、楽しみなんだ。水曜日が来るのがさ。」

「僕もだよ。何だか部活みたいで。」

「そうだよね! そういえば今日も家でさ……。」

そう言いかけたあかりの小脇に抱えているバッグから携帯の振動音がする。

「ちょっとごめんね。」

彼女はスマートフォンを取り出した。

「あ、時間だ。行かなきゃ。」

二人はいつしか学校まであと少しのところまで歩いてきていた。

「久遠くん、私先行くね。」

久遠が頷くと、あかりはバッグを抱え直して駆け出す。

「また放課後ね!」

大きく手を振るあかりに、久遠は手を振りかえす。

彼女は軽い足取りで学校に続く坂道を駆けていった。


 遠ざかるあかりの背中を見ながら、久遠は小さく息をつく。

「また放課後ね、だって。」

「うわ!」

後ろから投げかけられた声に、久遠が跳び上がらんばかりに驚く。

彼の後ろには、黒髪をポニーテールにまとめ、ヘッドフォンを首にかけた女子生徒が立っていた。

「和泉、おはよ。」

「辻野さん。おはよう。」

久遠のクラスメートで同じ図書委員の辻野真由つじのまゆは、眠たげな目で久遠を見つめている。

黒いヘッドフォンからは古いブリティッシュロックが小さく流れていた。

「邪魔しちゃったかね。」

「え、何を。」

「朝の通学デート。うらやましいことで。」

「もう、そういうのじゃないんだって……。」

「あの子、楽しそうにしちゃってさ。付き合ってんでしょ、ほんとは。」

「そうじゃないってば。それに……。」

「それに?」

「楽しそうなのは、なんか朝にいいことあったんじゃないのかな。家とかで。」

横を並んで歩く辻野の眠たげな目が、一瞬にして怪訝けげんな目つきに変わる。

「マジで言ってる? それ。」

「何が?」

「……あの子も苦労するね。これじゃ。」

「苦労って?」

「なんでもない。」

辻野の呆れ顔を、久遠は不思議そうな目で見ていた。

「あの子、バイト先で一緒なんだって? 国連の。」

「うん。え? なんで知ってるの!?」

「こないだ、たまたまあの子と電車で一緒になってちょっと話したんだよ。和泉のこと色々聞かれたりして。あの子、牛久なんだね、家。」

「あ、そっか。辻野さん、阿見だから方向一緒だもんね。」

久遠はそう言って納得したが、なぜ自分のことを色々聞くのだろうという疑問が頭をよぎっていた。

そんな彼を眠たげな横目で見ながら、辻野は口を開く。

「何だか久遠も毎日楽しそうじゃん。大事にしなよ。そういう場所があるんならさ。」

「そうだね。」

久遠は小さく微笑んだ。

「と言っても、生活が変わりすぎて、時々自分でもどうしたらいいのかよくわからなくて。」

辻野は眠たげな視線を久遠に向ける。

「とりあえず深く考えずに、今の状況を楽しめばいいんじゃね?」

「深く考えずに楽しむ、か……。」

「ま、なんだっていいんだけどさ。」

そう言って彼女は首元のヘッドフォンを鞄に戻す。

辻野のサバサバとした物言いに慣れると、その適度な距離の取り方が久遠にとってなんとも心地よく感じられるようになっていた。

「楽しめるうちに楽しんだ方がいいんだよ。和泉も、楽しめ。」

彼女はそう言って久遠の方を向くと、口元をほんの少しだけ緩ませた。

他のクラスメートから聞いたところによれば、朝から晩まで働いている母親の代わりに、彼女が弟たちの面倒をみているのだという。

朝早い中、眠い目をこすりながら通学しているのは、部活の朝練に出る弟達の朝食やお弁当を作っているからだ。

苦労をしている彼女だからこそ、自然にそう思えるのかもしれない。

「そうだね。ありがとう、辻野さん。」

彼女は眠たげな目をほんの少しだけ見開いて久遠の方を見たが、すぐに目線を通学路へと移した。

「そういや、久遠はこれから篠宮と旧図書でしょ。」

「え。なぜそれを……。」

久遠はそう言いかけ、辻野が図書委員だということを思い出した。

「通学デートの後に、別の女と図書室か……。おとなしそうな顔して、やばいよね。」

久遠の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「それは……その、そういうんじゃないんだって……!」

「楽しめ、和泉。」

辻野はそう言うと、悪戯いたずらっぽい笑みをみせた。

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