第2話 城戸あかりの朝

 幼い頃、朝が来るのが怖かった。


布団を跳ね除け、ベッドから飛び出す。

カーテンを開けて、部屋着に着替えて

階段を駆け降りて、家族におはよう、と言う。

ただそれだけのことが、私にはできなかった。


一緒に遊べなくてごめんね、と友達が言うのも

お医者様が深いため息をつくのも

大好きな両親が毎日言い争うのも

全て自分のせいだと知っていた。


毎晩眠りにつく前には、いつも同じ願い事をした。

神様、この身体がみんなを困らせないようにしてください。

そうでなければ

朝が来ない世界に、私を連れて行ってください、と。


   ◇


 雨戸の隙間から薄く朝の陽光が差し込んでいる。

城戸あかりは枕元のスマートフォンが振動し始めるのを素早く止め、液晶画面の時間表示を確認する。

「久しぶりに子供の頃の夢を見た気がする……。」

彼女は毛布にくるまったまま小声で独り言を呟いた。

微睡まどろみの中で見た幼い頃の自分は、朝の光の中で薄れていく。

彼女は思い切って掛け布団を跳ねけると、ベッドから飛び降りるようにして両足で着地する。

柔らかなブラウンの髪に無造作にくしを入れ、いそいそと制服に着替えて部屋を出る。

階下からは彼女の祖母が毎日かけているバッハの曲が聞こえてくる。

鼻腔をくすぐるのは、あかりが一番好きな朝食であるイングリッシュ・マフィンが焼ける香りだ。

彼女は軽い足取りで階段を駆け降りていく。

「おはよう!」

あかりのよく通る声が、リビングに響いた。

「あら、あかり。おはよう。早いわね。」

陽美ひろみママ、今日はマフィンでしょ。トマトも切ってくれた?」

待ちきれない様相のあかりを見て、陽美は笑顔で答える。

「切ってあるわよ。早く顔を洗ってらっしゃい。」

上機嫌でぱたぱたと洗面所に向かうあかりが足を止めてソファーの方を振り向く。

「孝一パパ、おはよう。今日は会社無い日だっけ。」

「今日は家でお仕事ですって。」

オーブンから焼きたてのイングリッシュ・マフィンを取り出しながら、祖母の陽美が代わりに答える。

コーヒーを片手に大型のタブレットで朝のニュースに目を通していたあかりの祖父は、いつものように片手を上げて微笑んだ。


 城戸あかりは、彼女が通学している高校がある茨城県の筑浦つくうら市から数駅離れた街で祖父母と共に暮らしている。

小学生の時に茨城県内の病院に転院してからは、静岡県で暮らす両親と離れ、母方の祖父母の家に預けられていた。

「まだ”おばあちゃん”と言われたくない」という祖母のリクエストで、あかりは祖父母二人のことを『陽美ママ』『孝一パパ』と呼んでいる。

陽美は空になった食器を片付けながら口を開く。

「あかり、まだ部活は入らないの?」

「うーん。国連のお仕事もあるしなあ。」

フォークを片手に考え込むあかりに、孝一が声をかける。

「学生なんだから、学校生活を楽しんでおきなさい。働くのは大人になってから嫌ってほどできるぞ。」

「そうよ。あかりはやっぱり合唱部がいいと思うの。声が綺麗だし、ピアノもやってるから楽譜も読めるし。それに新誠の合唱部は県内でも有名でしょう?」

「もう、陽美ママはすぐそれなんだから。会う人みんなにコーラスを勧めるって、お母さん呆れてたわよ。」

「あら。私と孝一さんが高校の合唱部に入らなかったら、あんた産まれてなかったわよーって、あの子に言ってやって。」

そう言って陽美は笑った。

「それに、あかりも誰かいい人見つかるかも知れないでしょう?」

「あたしは別にそういうのいいし。面倒だもの。」

「あら、クラスに気になる子とかいないの?」

「全然いないよー。」

「お仕事の方には?」

あかりはほんの少しだけ考えて首を振る。

「……いない、かな。」

二人の会話を横で伺っていた祖父が、タブレットに目を落としたまま口を開く。

「……あかり、学校は大丈夫なのか。」

「そうだ! 今日は日直だからいつもより早いので行かなきゃ。」

あかりは紅茶を飲み終えると、慌てて立ち上がる。

「今日も国連の仕事で遅いの? 駅まで迎えに行くわよ。」

「ううん。今日水曜だから。あ、そうだ。今日はお夕飯無しでいい? みんなと食べに行く約束しちゃってて。」

「お友達?」

「そう!」

あかりは満面の笑みで答える。

陽美は微笑んでうなずくと、あかりを呼び止めて彼女の制服のリボンを丁寧に整える。

「急いでいても、身なりはきちんと。ね?」

「はーい。」

「よし。いってらっしゃい。」

「行ってくるね!」

学校推奨の黒い大きな鞄を背負うと、あかりはドアを勢いよく開けて飛び出して行った。


 朝の喧騒が終わり、陽美は小さく息をついた。

リビングのソファーに腰掛けた孝一が口を開く。

「あかりは最近、ますます元気になった気がするな。さっきも二階でドスンと凄い音がしたぞ。床が抜けてしまう。」

「もう。年頃の女の子にそんなこと言ったら、怒られるわよ。」

「……床が抜けそうになるほど元気になってくれてなあ。」

孝一が鼻をすする音がする。

「そうねえ。」

エプロン姿の陽美はあかりの食器を片付けながら呟く。

「感謝しなくてはいけないわね。」

彼女の言葉に、孝一は黙って頷いた。

陽美の脳裏には、毎日うつろな目をしてベッドに横たわっている少女時代のあかりと、泣き腫らして憔悴しょうすいしたあかりの母親の姿が思い出されていた。

いつ治るとも知れない病に侵された孫と、泣き暮らす娘の姿は、思い出すだけで今でも胸が張り裂けそうになる。

何と引き換えにしても構わないと願ったあかりの元気な姿を目にするたびに、心の中で感謝を捧げる。

あかりを診てくれた医師や研究機関、協力をしてくれた多くの人達。そして。

陽美は胸に手を当て、静かに目を閉じる。

「辛抱強く願いを聞き届けてくれた、神様に感謝しないとね。」

彼女のまぶたの裏には、夏の陽射しの中を駅に向かって駆けていくあかりの姿が浮かんでいた。

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