追憶のアステリズム
中条優希
前編
第1話 プロローグ「夜の女王Ⅰ」
夜を飾る三日月の下には、広大な森が広がっていた。
背の高い針葉樹の間を縫うようにして跳躍する黒い影がある。
全身を漆黒の鎧で包んだまま軽々と木々を渡るその姿は、敏捷な生物のようであり、正確無比な機械のようでもあった。
「これでは埒があかぬ。一旦空に出るか。」
面貌の下で呟いたその声は、勇ましい言葉とは裏腹に、まるで鈴の音のような響きだった。
鎧の背に折り畳まれていた複数の腕が一斉に伸びる。
それらは意志を持つかのように辺りの木々を掴むと、黒い鎧を星が瞬く夜空へと勢いよく打ち上げた。
金属で覆われた背中に生やした補助腕の間に灰色の薄膜が張られ、翼を形成する。
三日月を背にした彼女は、滞空したまま眼下に広がる森を見渡した。
青白い月の光が鎧と翼を用いて描いたそのシルエットは、その鎧に名付けられた「夜の女王」という呼び名にふさわしい優美な姿だった。
「あそこか。何が起きているというのだ。満月はまだ先だというのに……。」
金属製の面貌が見つめる先には、木々を薙ぎ倒して進む巨大な影があった。
胸部装甲の中心に紫色の輝きが宿る。
黒い鎧は両翼を強くはためかせると、眼下に広がる森へと急降下していった。
◇
木々を薙ぎ倒す音が響き、その間を縫うようにして馬の
褐色の馬に跨り、革製の半鎧を着込んだ二人の男が、巨大な獣を遠巻きにしている。
蜥蜴のような巨体を這わせ、紫色の鱗で全身を覆ったその姿は、まさに竜そのものだった。
レッサードラゴンと呼ばれるその竜は、赤黒い両目で辺りをうかがっている。
「ギルベルト、回り込め!」
男はそう叫んで、手にした機械式の弩から連続して矢を放つ。
竜は全身に刺さった矢をものともせず、尾を振り回した。
クランツは慌てて馬の手綱を引いて難をかわし、思わず舌打ちをする。
「大丈夫か!」
同じく馬上のギルベルトが叫ぶ。
赤身のかかった癖毛と、髪色と同じ豊かな髭を蓄えた彼のいかにも生真面目そうな顔には、焦りの様子が滲み出ていた。
これ以上竜に暴れさせれば、「黒い森」にほど近い農園地帯にも被害が出る。
眼前の竜には無数の矢が刺さっていたが、弩の矢に塗られた麻酔薬では、その巨体の自由を奪うにはあまりにも時間がかかり過ぎるのだ。
「クランツ! 対竜麻酔弾はどうした!?」
「あったさ! 先週まではな。」
「酒代にでもしたのではあるまいな!?」
「手に入るならそうするさ! 今や麻酔弾ひと揃いで酒蔵が買えるほどの値段だ。魔獣の世話など辞めて、薬屋にでもなるか!」
口達者のお調子者で知られるクランツの物言いに、ギルベルトはしかめ面をする。
彼がそのような顔をしたのはその軽口に対してではなく、彼の言葉の中に国中を覆う物資不足の深刻さが十二分に現れていたからだ。
苦虫を潰したような表情で残弾少ない対獣ライフルに手を当てた、その時だった。
「離れていろ、二人とも!」
頭上から届いたその声に、馬上の二人は揃って空を見上げる。
彼らの視線の先には、針葉樹の先端を飛び移るようにして近づいてくる黒い鎧の姿があった。
「ギルベルト! クランツ! 無事か!」
「おお! あれは姫様の『夜の女王』!」
「オフィーリア様が戻られたのか!」
黒い鎧はひときわ背の高い木の枝を利用して再び高空へと舞い上がると、背中に生やした六本の腕をひとつに束ねて急降下する。
次の瞬間には、背中の腕から繰り出された鉄槌のような一撃が竜の背に浴びせられた。
轟音と共に竜はたまらず地に伏し、金切り声を上げながら背に載ったままの黒い鎧を振り落とすように身を捩る。
黒い鎧は竜の背を蹴って跳躍し、紫色の鱗をめがけて二撃目を打ち付けた。
「友よ!我々も姫様に遅れをとるな!」
ギルベルトの掛け声と共に、馬上の二人はすかさず麻酔薬の塗られた矢を竜に浴びせていく。
首筋に大量の矢を浴びた竜は二、三歩よろめくと、轟音を立てて大地に横たわった。
オフィーリアがレッサードラゴンの横に降り立つと同時に、ギルベルト・シュタインとクランツ・ローゼンベルクは馬の背から降り、胸に手を当てて礼を取った。
「二人とも、随分手こずっていたようではないか。」
「面目ございませぬ。」
ギルベルトが生真面目な顔をさらに固くして頭を下げる横で、クランツが襟元のスカーフを整えながら口を開く。
「オフィーリア様、いつお戻りになったのですか。」
「今しがた視察から戻ったばかりだ。二人の髭面が懐かしくなって後を追いかけてみれば、この通りとはな。」
「鎧装を行なっていない幼生のレッサー・ドラゴンとはいえ、油断しておりました。」
「しかし、さすがは『夜の女王』でございますな。あの暴れ竜をあっという間に仕留めて見せるとは。」
「何を言うか。二人ともよく知っているであろう。我が良人おっとは、十にも満たぬ歳にして鎧装した成竜を一撃の元に屠ったという。それに比べれば我が力、遥か及ばぬ。」
彼女の言葉を聞く二人は、その漆黒の面貌に隠れた寂しげな表情を容易に見てとることができたのだった。
「姫様……。」
「その言い方はそろそろやめてくれ、ギルベルト。」
彼女はそう優しげに呟くと、彼の肩当てを叩いた。
幼少から彼女の家に付き従っていた二人の革鎧には無数の傷が刻まれている。
オフィーリアの父親でもある領主のために、若い時から様々な形で戦ってきた歴戦の傷であった。
「ところで二人とも。」
黒い鎧は二人に向き直る。
「急いで屋敷に戻ってきたのは、母上のご様子を見るためでもあるが、早く戦果を知りたかったからだ。」
ギルベルトとクランツは眉間に皺を寄せて顔を見合わせる。
「地上に送り込んだ次元獣の戦果はいかがであったか。さぞ地上人共も肝を冷やしたであろう。」
鋼鉄製の腕を組んだまま返答を待つ彼女に、ギルベルトは恐る恐る口を開いた。
「それが……。地上の諜報員からの連絡によれば……。」
彼がおずおずと説明を続けると、オフィーリアは怒気を含んだ声で叫んだ。
「倒されただと! 成竜の獣装兵が一日と保たずに!? それは確かなのか!」
二人が頷くと、彼女は鉄甲に包まれた手を怒りに震わせる。
「なんということだ……。一刻も早く母上の元に戻らねば。」
黒い鎧は踵を返す。
「姫様!」
「二人ともご苦労であった。詳しい話は後で聞かせてくれ。」
彼女は振り向くことなくそう言い残すと、再び夜空へと舞い上がった。
残された二人の従者は、遠ざかっていく彼女の姿を無言で見上げている。
「行ってしまわれたか。」
「無理もない。準備に準備を重ねた獣装兵が、地上であっという間に屠られたと言うのだ。」
「……計画も変更を余儀なくされるだろうな。」
クランツはそう言ってため息をつく。
「不吉なことを言うな。親友とはいえ聞き捨てならんぞ。そのようなことになれば、姫様はどうなる。」
「黒い鎧を脱いで、純白のドレスを着ることになるだろうよ。」
彼はそう言って腰に下げた皮袋から酒瓶を取り出すと、慣れた手つきで蓋を開けて口をつけ、乾ききった喉へと葡萄酒を流し込んだ。
整った黒い口髭を手で拭いながら続ける。
「お前も本当はそれを望んでおるのではないか。友よ。」
落ち着いた響きをもって届いた彼の言葉に、ギルベルトは黙って俯き、深く息をついた。
「……姫様はまだ十五になられたばかりなのだ。」
彼は俯いて地面を見つめたまま言葉を続ける。
「だのに、六年前に死んだ
クランツは黙って彼の肩を叩くと、手にした酒瓶を手渡す。
ギルベルトは小さく頷くと、酒瓶をあおった。
「奥方様も、実の娘に何故あのような酷な人生をお与えになるのか……。」
彼の絞り出すような言葉に、クランツは無言で頷く。
二人の面前には、先刻捕らえた竜が横たわっている。
その紫色の体表を、月は無慈悲に照らしていた。
◇
「夜の女王」と名付けられたその鎧は、三日月の浮かぶ夜空をまるで我がもののように駆け抜けていく。
流線を描く細身の手足と、大きく張り出した肩当て、そして背中に広がった外套を思わせる複数の補助腕は、その呼び名の通りに地位の高い貴婦人を連想させた。
「獣装兵を地上人が屠っただと……。信じられぬ。」
翼をはためかせて強い気流へと移るたびに、大きく張り出した肩当てから、機体のバランスを取る圧縮空気の音が刻まれる。
紫がかかった黒に染め上げられた金属装甲の下、内側の小さな細い身体を包み込むように張り巡らされているのは、おびただしい数のシリンダーやケーブル、電装品などで構成された部品群である。
それはまさに機械の鎧と言って差し支えなかった。
「おいたわしや母上……。さぞ落胆されるであろう。」
オフィーリアはざわめく心をかき消さんとばかりに、勢いよく風を切り、空を飛び渡っていく。
翼を広げて滑空する彼女がふと空を見上げると、散りばめられた宝石のような星群が目に飛び込んできた。
「そうか、もう夏だったな。」
甲冑の下の素顔がふっと緩む。
「確かあれがこと座、そしてはくちょう座……。それから……。」
オフィーリアは、夜空でひときわ明るく輝く白い星を見つめた。
「すべてあなたに教わったのだ……。我が
ほんのひと時だけ、装甲の下に懐かしげな笑みが浮かんだ。
「それなのに……。」
彼女の幼い顔は、やがて憎悪へと歪んでいく。
「許すことはできぬ。我が良人の仇……!」
金属で造られた拳を強く固め、絞り出すようにして叫ぶ。
「地上人共め……!」
オフィーリアの叫び声が星々を切りさかんばかりに響く。
まだ幼さの残るその声は夜の闇へと拡散し、やがて消えていった。
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