第7話

 研究者肌の教授には戦闘に慣れた動きをするジャレンスに対抗できるほどの抵抗力はない。素早い動きを続けるジャレンスに目が追いついていないほど。


 吹き出す血にしては浴びた返り血が少ないジャレンスが次に標的にしたのは膝を震わせ立ちすくむ教授。


「ま、まさか……」


 動悸が激しく今にも息をするのも忘れてしまいそうな程に混乱していたスイクンだったが、尊敬する教授に差し迫る危機に自然と足が動いた。


 当然ジャレンスを撃退できるとは思わない。それでも教授を助けたいと血に足を滑らせながらジャレンスに立ち向かっていく。


 机の上の置物を適当に掴んだスイクンはそれをジャレンスに投げつけながら、自身を奮い立たせるように声を張り上げながら迫る。


「うあぁああああ!」


「スイクン!? どうして君がこんなところにいるんだ!」


 慣れない張り上げに喉の痛みを覚えながら置物を投げつけたスイクン。その姿はジャレンスの目に入っていなかったが、ジャレンスはスイクンにぱっと目を向けただけで投擲された置物とスイクンを正確に捉えた。


 顔に飛んでくる置物を短剣ではじくとジャレンスは身体をスイクンに向けて短剣を身体の前で並行に構える。


「……学生? こんなところにどうして」


 先ほどまで顔色を変えずに短剣を振るっていたジャレンスがここで初めて表情を変えた。

 その顔には明らかに動揺が見て取れた。


 ジャレンスの優秀さを理解しているレイが危惧していたのは、心優しい性格をしているが故に垣間見えるジャレンスのその甘さ。


 アドレナリンが大量に分泌され興奮状態に陥っているスイクンにはそんなジャレンスのことなど知らぬこと。


 動揺に足を止めたジャレンスに、興奮で恐怖をかき消してしまっているスイクンは真っ向から飛び込んでいく。


 血のりで赤く染まる短剣を見ても止まらぬスイクンに、一般人だろうとこうなってしまえば関係ないと覚悟を決めたジャレンスが動き出す。


 武器もなく丸裸なスイクンだったが、先ほど血で染まる床に足を滑らせたことが天啓のように脳を刺激した。


 スイクンとジャレンス、両者の距離が縮まる。

 ジャレンスの間合いの外、スイクンは身を低くして床の血の池を滑るように勢いよくスライディングした。


「えっ!?」


 覚悟を決めたとはいえ動揺が完全に消えていなかったジャレンスには、スイクンのその動きを察知することができなかった。

 勢いそのままに滑ったスイクンの足はジャレンスの両足を掬い転倒させる。


「メイビス教授! 大丈夫ですか!?」


 転倒したジャレンスに目を向けることなく血でべっとりと服を汚したスイクンは驚きの表情を浮かばせ続けるメイビスのもとへ寄った。


「っ! スイクン、今すぐ君はここから離れろ!」


 メイビスはそうスイクンに声を荒らげると、無事を心配するスイクンを素通りして態勢を立て直そうとするジャレンスに飛びついた。


 ジャレンスに覆いかぶさるかたちで起き上がるのを制するメイビスは額に汗を浮かべながら後方のスイクンに呼びかける。


「こいつはおそらくシルバン公国の軍人だ! 私がこいつを押さえつけられていられるのも今だけだ! 君は今すぐにここから避難するんだ!」


 押さえつけられ足掻くジャレンスと全体重をかけて必死にホールドし続けるメイビス。

 メイビスの「シルバン公国の軍人」という言葉にスイクンはやはり学生ではなかったかと合点がいったと同時、どうして軍人が学院にいるのかと困惑し、すぐに次の行動へ移れなかった。


「くっ! こいつ!」


 どれだけ力を入れて足掻こうにも抜け出せないジャレンスは短剣を逆手に握り返し、それをメイビスの背中に突き立てた。


「ぐあぁっ!」


「さっさと、いいから放してくれノーカラー」


 背を一度刺しただけでは力を抜かないメイビスにジャレンスは何度も鋭い短剣を突き刺していく。

 メイビスが着ていた白衣はあっという間に自身の血で真っ赤に染まっていくが、それでも自分の学生を必死に守ろうと決死の覚悟でスイクンの逃げる時間を稼ごうとさらに腕に力を籠めた。


「メイビス教授? なにが、どうして……。彼、軍人……、どうして学院に」


 目の前で見知った人間が死に瀕している状況に、上手く整理することができないスイクンはただ後ずさるだけで前に踏み出すことができない。


「こいつの目的は、そこの剣だ。私と、剣の起動にかかる時間があれば君だけは逃げられる! さあ、早く行ってくれスイクン!」


 メイビスの言葉にスイクンは背後に顔を向けた。

 そこには台座に刺さる無機質な剣が一振りあった。


 剣身に輝きはなく、素人のスイクンでも名剣とは思えないその一本に戸惑いながら身体から血を溢れさせる教授と交互に目をやった。


「剣……。なんで……、なんでこんな剣なんかに必死になって人を殺しているんだ!」


 スイクンには理解できなかった。こんな粗末に見える剣が人の命よりも大きいものだとは。これが理由で恩師が死んでしまうことも。


 武器を持たず丸裸だったスイクンはこの状況を打開できるとは思えず惨状と相まって思考停止していたが、剣に目を向けて行動指針が立った。


「見殺しになんかできない……。させない!」


 スイクンは二人に踵を返して剣が刺さる台座へ向かった。

 部屋の中は多くの研究員の血で真っ赤に染まる中、その剣だけは不気味なほどに色を帯びていなかった。


 まるで生気のない死んだ剣。

 それにスイクンは手をかける。


 剣を振ったことも持ったこともないスイクンでも、動きがとれないジャレンス相手に鈍器程度には役に立つだろうと考えたのだ。


「くっそ! やめろ!」


 短剣を振り上げるジャレンスからはスイクンが剣を台座から引き抜こうとする姿が見えていた。


「スイクン、まさか! やめろ、君にはその業は」


 自身の血が目に流れ込み視界が奪われたメイビスは、ジャレンスの焦る反応からスイクンが何をしようとしているのか察せられた。


 だが続く言葉はジャレンスが短剣を教授の首元に突き刺したことで発せられることはなかった。


「今すぐそれを僕に返せ!」


 ジャレンスは首から噴水のように血を噴き出し絶命した教授の身体を蹴り退かし、飛び起きる。

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