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「明日からここに泊ります。」
僕が閑古鳥すら実家に帰った様に静かで長閑な我が探偵事務所にて、昼下がりのひと時及び微睡みを満喫していたところ、彼女は突然、机の上で本を開いて見せた。
おススメ宿泊先一覧。どうやら旅行雑誌らしい。隅っこの方の一カ所に赤ペンで丸がしてある。
「まん・・・ふく・・・りょかん・・・?」
「
中華料理屋みたいなその旅館の名前と彼女の目に灯った煌めきで腹が鳴る。身体は正直だ。
「だけど、そんなお金どこにあるの?」
残念ながら今ヤンキーにジャンプしろと言われても音が鳴るかも怪しい。
「その点なら心配ないわ。ご都合主義万歳ですもの、さっき商店街のくじ引きで旅行券なら入手済よ。この雑誌に載っているところなら何処でも泊まれる。」
「ならもっとこっちにおっきく載ってる高いホテルでも良いのでは…?」
折角何処でも泊まれる夢の様なチケットなら一番いい所に泊って当然ではないか。
「あなた私と結婚でもする気…?」
訝しんだ目で彼女が一歩下がる。確かに僕が指差した先にチャペルもあります!って元気に書いてあるけども。
「よく見なさい。」
彼女が僕の手を払いのけ、先ほどの旅館の欄を指差した。
『心も、お腹も、満足してお帰りいただくことをモットーに』と書かれている。
どうやら彼女の話によると、ここの旅館は大食いの間でも有名で有数のたらふく食える旅館らしい。しかも元老舗レストランで修行を積んだ料理人が担当で味も確か。
腹が鳴る。喉も鳴る。
「決まりね。」
返事と受け取られたらしい。否定はしなかった。
というわけで翌日、僕と彼女は萬福旅館を訪れた。
随分と遠い所まで来てしまったね、という山奥。
流石は雨女との旅行、道中急な大雨に見舞われた。バスは数時間に一本。
お陰様でタクシーに乗る羽目になった。しれっと僕に払わせて。カードが使えて助かった。
旅館は名前の割にこぢんまりとしていて質素、まるで小説家がお忍びで執筆活動に利用しそうな佇まい。またの名を趣、とでも呼んでおきましょうか、と知った様な軽口を脳内で叩いていると物理的に重い一撃で後頭部を叩かれた。彼女が昨日の旅行雑誌を丸めて握っている。旅行雑誌って便利なんだな、読む以外武器にもなるなんて、うちも一冊買っておこうか母さん。また叩かれた。彼女は僕の脳内ジョークを見透かしたようなところがある。やれやれ。
彼女に旅行雑誌を突き付けられた形で暖簾を潜る。
静か。
「おいでませもいないわ。」
「仲居さんのことを”おいでませ”と呼ぶな。」
「すみませーん!お客様ですよー!」
彼女が声のトーンを変えずに音量だけ増大して旅館に呼びかける。無機質で大きい声が響き渡る。声が立ち消えて静けさが戻ってくる頃、とっとっと、と足音が廊下の奥から響いてきた。
「は、はいただいま!!!」
裏返り気味の声と共に髪を振り乱して大層取り乱した様子の着物の女性が現れた。歳の頃、40歳くらいだろうか。ふっくらとしていて健康的で美しい。既婚だが仕事の時は指輪を外すのか、左手薬指の跡は割とくっきり残っている。その締め付けられた跡から察するに結婚してからふくよかになったタイプか。とすると彼女が女将で、噂の料理人がご主人か。というのは飛躍し過ぎた推理かもしれない。
「あのー、昨日ご連絡した、」
「その件なのですが、誠に申し訳ございません。実はちょっとしたトラブルがありまして、近くの別の宿泊施設をこちらで手配いたしますので、少々お待ちください。」
トラベルにトラブルはつきものというどうしようもないギャグを思いついた時点でまた叩かれた。この子の方が探偵に向いているかもしれない。
女将らしき人物は宿泊者名簿を開いたり閉じたり、電話機を取ったり戻したりしている。あたふたの擬人化という感じ。手が震えている。
「もしかして、何かありました?」
僕の隣の彼女がテンションそのままに尋ねる。怪訝でもなく、笑うでもなく、ただただ持った疑問を自然的に発露する。
「いや、それが、っ…」
落ち着きを見せて然るべき妙齢の女性はもじもじしているとなるとなんだかグッとくるものがあるが、そこは抑えて少し思考する。すぐに言えないこととなると、旅館としては隠したいことなのだろう。つまり流布しては困る類の事件が起きたのだ。例えば、
「死体でも出ましたか?」
暫定的女将が目を大きく開いて口元を押える。何か自分がまずいことを口走ったかと思っているのだろう。おろおろと目が宙を舞う。少々涙目、可哀そうになってきた。
「ずぼしですね。案内してください。」
彼女がとんとん拍子に話を進めようとするので、
「いやいやいや。なぜそうなる。今日はバカンスじゃないのか?」
僕がそう言うと彼女は大層呆れた表情を浮かべ、
「昨日までずーっとバカンスだった気がするんですけど?」
と言った。閑古鳥が仕留められた音がした。
「し、失礼ですが、あなた方は、どういった…?」
女将(女将じゃないと重ね合わせの状態)は恐る恐るこちらを窺ってくる。
今日の所は探偵と名乗りたくないなぁと僕がだらだらしている内に、
「奥ですよね。」
と言って彼女は廊下の奥へとずんずん歩いて行ってしまった。熟女女将風が「お待ちください!」とその後を追う。僕もその後を追う。
廊下を進むと突き当りの引き戸に『露天風呂-安静-はこちら』と書かれている。
引き戸から一度表に出て、石畳の上を進んでいくと男湯、女湯の暖簾が見える。
男湯入口で人が集まっていた。周囲の人の制止をすり抜けて彼女が男湯の暖簾を潜っていく。ここまで来たらもう従うしかない。
洗い場の近くに男は仰向けで倒れていた。
先に検分を始めていた彼女は脈を確認して首を横に振る。
30歳くらい。頭を打ち付けたらしく、頭を持ち上げてみると後頭部から出血が見られるが、あらかた流れてしまっていた。顎にかすかな切り傷。その他の部分から争った形跡は認められない。僕は注意深く周辺を観察する。男の周辺には手ぬぐい、桶、リンスインシャンプー、石鹸、髭剃りが散乱している。頭を打ち付けたものはなんだろうと見ていると
「この人、足おっきいね。」
と彼女はそのツヤのある足を持ち上げて言った。
「うげ、無闇に触らないでくれ。でも確かに大きい。」
露天風呂は思いの外広かった。と言っても僕の露天風呂に対する思いを大抵の人は知らないと思うけど。周囲も見渡す。辺りを埋める岩々はしっとりと濡れている。
旅館側の入り口とは反対の塀にも小さな戸が設けられていて、どうやら入口は一つではないらしい。
「おい、なんなんだ、あんたたちは…?」
板前風の格好をした男がいつの間にか後ろに立っていて、近づいてきて僕達をねめつける。まぁ当然の反応ですよね。彼が噂の料理担当だろうか。
「この人は、」
と彼女が僕を指差したタイミングでサイレンが聞こえてきた。
女将が警察官2名とあからさまなトレンチコートを連れて戻ってくる。
「通してください。」
先ほどの僕たちとそう変わらなそうな検分をしてから、警察官たちが現場保存用のテープを貼り出した。
「後はこちらに任せてください。それと、関係者はこの旅館から出ていかないように。」
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