第8話 夕日

 刻一刻と太陽は落ちていき、空と海の色が徐々に変わっていく。今この時をとどめ、変化を拒むことなど許されないほどその変化は劇的に美しかった。


 途切れぬ波音が、体の中に満ちていく。


 どれほどの時が流れたのだろう。もう、あたりはすっかり夕映えに包まれていた。


 落日から放たれた赤銅色の光の柱が、ないだ海を渡り真っすぐ体の中心に迫ってくる。悠久の時の中で繰り返されてきた人知を超えた自然の営みは、俺の中の不自然な物を押し流しあるべき姿へと導いてくれる。


 この景色を絵に描きたい。母さんの遺言や、晶に対するコンプレックス。そんなものはどうでもよくて、やっぱり俺は絵が描きたい。その思いだけが信じるに足るものだった。


 ふと気づくと、俺の膝の上にあった晶の頭が消えていた。昨日借りたマフラーを、黙って晶の体にかけていた。晶はそれを握りしめて、夕日に見入っていた。


「すごく、きれいだ」


 それだけを言い、夕日にのまれたように見続けている。その横顔は、夕日に照らされ赤く輝いていた。


「この夕日、昔庭で見つけた時の忍の顔に似てる」


 自然が生み出した圧倒的な景色と、不完全な俺が似ているはずないのに。何を言いだすんだ。こいつ……。


「家に帰りたいのに帰れなくて泣いてたね。涙ににじんだ目で俺を見て、せつなそうに笑ったんだ。あの時、初めて人をきれいだと思った」


 明日の世界へ帰ろうとしている太陽が、今この瞬間に足止めをされているように、ゆっくりゆっくりあたりを紅色ににじませ、沈んでいく。まるで、泣いているようだ。


「おまえの美的センスは、おかしい」


 きっと俺の顔は太陽ではない自らの熱で、赤くそまっているだろう。


「俺、昔から言ってたよね。忍のこと大好きだって。好きな人はきれいに見えるもんだよ」


 晶のかざらない告白に、あの夏の縁側で唇にふれた感触がよみがえる。


「おまえ、中一の時にキスしたよな」


「ああ、気づいてたんだ」


「気づくだろ普通に。びっくりしたんだから」


「ごめん……」


 晶はすまなそうに、肩を落とした。今謝られても、どう返していいかわからない。わからないのに、勝手に答えが口から漏れ出る。


「今度する時は、ちゃんと許可とって」


「えっ? それってまた……」


 晶が言い終わらぬうちに、突然風が背後から吹き付けた。

 風向きが逆転したんだ。俺はとまどう晶を無視して、カバンからジップロックを取り出した。晶はそれを見て、けげんな顔をする。


「何その、白い粉」


 俺は自慢げに袋を掲げた。


「母さんの、骨」


 再び山から風が吹きおろしてきた。袋のジップを開き、袋をさかさまにする。


 ネットで調べたら、散骨は骨を粉砕するのがマナーと書いてあった。昨晩、骨壺から盗んだ骨を袋に入れ、手のひらで押しつぶすと母さんの骨はあっけなく粉々になった。


 粉雪みたいな母さんの骨は風に乗り、血の色に染まる海へ吸い込まれるように消えていく。


 骨が海に帰った瞬間、ひときわ強い風が吹き、制服のスカートが大きくふくらんだ。


『忍ちゃんが男の子だったら、おばあちゃんも好きになってくれたのに』


『本当は、男の子がほしかったの』


『どうして忍ちゃんは、男の子じゃなかったんだろ』


 母さんから投げつけられた言葉のつぶて。亡くなってから、その礫が私を少しずつ砕いていった。腰まであった長い髪を切った。言葉遣いが変わり、自分を男だと思い込もうとした。


 けっして男になりたかったわけじゃない。けれど、私が男だったら母さんは私をちゃんと見てくれた? 愛してくれた? 


 求めていたものが永遠に手に入らないとわかって、その喪失を私は虚像で埋めていった。私がもし本当に男として生まれていたとしても、晶に勝てる気なんてしない。


 男であっても、変わらず婆さんに比べられ、母さんに愛されなかったかもしれない。


 それでも、妄想の中のわずかな希望にすがりたかった。幻であっても。


 さようなら、母さん。


 私も母さんも自由になろう。


 でも母さんの全部を自由にしてあげるほど、私は大人じゃない。骨は半分、骨壺に残しておいた。お墓の中から、私のこと見ていてよ。


 暮れなずむ薄明の中、手の中にはからになった袋だけが残った。それを、カバンにしまう。


「お腹減った、帰ろっか」


 晶はほがらかな声で帰宅を促す。もう、私が家に帰れるとわかったのだろう。頭のいい晶は、私の行為の意味をちゃんとくんでくれる。


 そして、憎いことに何も訊かない。本当に、腹が立つほど完璧なやつだ。


 私はカバンの中から赤い箱を取り出した。昨日骨壺の上においたチョコレートだ。包みを開け、晶に食べるよう差し出した。


 一日遅れのバレンタインチョコ。宝石のようなチョコを一つつまみ、晶は口に放り込む。甘さに頬をゆるませ、くしゃっと笑った。


 私も一つ口に入れる。チョコをかむとベリーの酸味があふれ、思わず口をすぼめた。濃厚なチョコと甘酸っぱさが溶けあい、口の中に広がる。


 ああ、この甘さをもっと味わっていたい。


 明日はきっとよく晴れるにちがいない。放課後、清水先生に受験の相談に行こう。


 私が行くかどうか怪しんでいたから、原田にちゃんと先生のところに行ったと言わなければ。


 そうだ、描きかけの絵があった。あれを描き終えたら、この風景を絵にしたい。


 私が目覚めた、今日の記念に。

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