第6話 母さん
晶の横をすり抜け、逃げるように屋敷へ向かってやみくもに走った。
外灯の光は、もうそこに見えている。玄関にたどり着きカバンの中から鍵を取り出す。手がかじかんでいて、なかなか鍵穴に鍵を差し込めない。
やっとの思いで木製の引き戸を開け、体をその中にねじ込んだ。荒い息を吐き出しながら後ろ手で戸を閉め、外の気配を体全体でうかがう。晶は追いかけてはこなかった。
首に巻かれたマフラーをほどき、大きく息をひとつつく。口から出された熱い息が白いもやとなり薄闇にとけていった。
外灯の光が引戸の
食堂に入り灯りをつけ、椅子にカバンと晶のマフラーをおく。ダイニングテーブルの上には、何も入っていないジップロックの袋が青白い光を反射していた。
お手伝いさんが、袋をしまい忘れたのだろう。いつもおかずを多くつくりすぎると、袋に詰めて持って帰っていた。もちろん、父の許可をもらっている。
お手伝いさんの家には、介護が必要な母親がいるそうだ。介護の大変さなんてわからないけれど、「大変ですね」と言うと、満面の笑みで「口だけは達者なんで」と言われた。
会話の内容と、そのうれしげな笑みが結びつかず俺は困惑したのを覚えている。
カバンの中から今日もらったチョコレートを取り出し、テーブルの上に積んでいく。俺と父はほとんどチョコレートを食べない。明日お手伝いさんに、持って帰ってもらおう。そんなことを思っていたら、手がとまった。
色とりどりの箱の中から、赤い箱を取りし食堂から出た。長い廊下を歩くと足裏から冷気が登ってきて、ぶるっと体が震えた。十二畳のだだっ広い仏間に足を踏み入れる。廊下の灯りを頼りに奥へ行き、仏壇におかれた白い錦で覆われた箱の上に、チョコレートを乗せた。
「母さん、このブランドのチョコ好きだったよね」
正座をし、
ここは、時がとまったようにいつも静まり返っている。そして、俺の脳内ではいつも同じ光景が繰り返される。
婆さんは、俺が小学校五年の時死んだ。母さんはその一年後に亡くなった。
何時も俺はこの仏間で、畳ばかり見ていた。
親戚が集まるイベントのたび、婆さんは俺と晶を比べた。晶の自慢を並べ立て、最後はそれに比べて……と俺で落として話をしめる。
いつものこの話の流れに、親戚一同笑うしかなく、その嘲笑に晶が抗議するまでが、一連のお約束となっていた。
晶は「忍は絵が上手なんだ」と医者の家ではなんのフォローにもならないことを言って、周りの大人たちの視線を一身に集めていた。
「晶ちゃんは、忍ちゃんと仲がよかねえ」
遠縁のおっさんに言われ、晶は無邪気に答えていた。
「はい。忍は優しくて、大好きなんです」
俺がいつおまえに優しくした? 適当なこと言いやがって……。と今なら悪態をつけるけど、ガキの頭では反感をもつどころか、ただただ自分は晶に同情されるダメな子だと思うことしかできなかった。
ガキの俺は劣等感で押しつぶされそうになりながら、ふと畳の目から視線を上げ母さんをよくうかがった。母さんはきまって、薄い笑いを浮かべてまっすぐ前を向いていた。
俺なんか、そこにいないような顔をして。
晶みたいに勉強ができたら、運動ができたら、素直ないい子なら……。俺のこと見てくれた?
「ここに、いたのか」
突然の声をかけられ、心臓に痛みが走る。振り向くと、父が立っていた。叔父さんが愛嬌のある狸ならば、父は疲れてしぼんだ狸だった。
「髪また切ったのか?」
父は俺を見て、叔母さんと同じことを言う。
「少し伸びて、うっとうしかったから」
父は疲れがにじむため息をつき、仏間に視線を向けた。
「あれは、なんだ?」
骨壺の上におかれた、チョコレートを顎で指し示す。
「チョコもらったから、母さんにお供え」
そう言えば今日バレンタインだったな、とつぶやきながら仏間を出て行った。父の後に従って食堂へ戻ると、カバンから書類を出し父の前においた。
「進路希望の書類に、ハンコを押して」
父はネクタイを緩めながら、視線を走らせる。
「何も書いてないじゃないか」
「医大にする。まだ具体的な大学は考えてないけど。父さんに会った時、ハンコもらわないと」
俺の言葉を聞き、先ほどと同じため息をつく。父との会話の行間は、だいたいため息で埋められる。そのため息をつかせているのは、自分なのだから居心地の悪さに耐えないといけない。
父は太い首から抜き取ったネクタイを、食卓の上に放り投げた。
「今日絵で賞もらったらしいな。それなら、医大より美大にいった方が、いいんじゃないか?」
コチコチと柱時計の乾いた音が、暖房の入っていない寒々とした食堂の底にたまっていく。
「母さんが言ったことなら気にするな。おまえの望む進路なら、きっと応援してくれるだろ」
母さんは最後に入院した病室で、呪文のように「医者になって」と俺に懇願した。ガリガリにやせた腕をのばし、俺の頬に触れて何度も繰り返した。
体から水分がぬけ出て声も肌もカサカサになった母さんの、最初で最後の俺への願いを無視できるわけがない。
「違う、自分で考えた」
「そうか」と父はそれだけを言い、椅子にどかっと腰をおろした。目頭を親指と人差し指でつまむと、またため息をつく。
「今年母さんの七回忌なんだ。その時、うちの墓に納骨しようと思う」
母さんは、うちの墓に入るのを嫌がっていた。はっきりとは言わなかったが、婆さんと死んでからもいっしょにいたくなかったのだろう。
「何時までも、家においておくのも。別の場所に納骨したら、親戚の手前いろいろとなあ……」
納骨は、通常なら四九日か一周忌に行われるそうだ。それを七回忌まで伸ばしたのだ。母さんのわがままには十分答えた、と父は言いたいのだろう。高校生の俺が、異を唱えられることではない。
ハンコを忘れないようにだけ言って、父を残し食堂を後にした。
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