第5話 夜道
リビングを出る俺の後からぞろぞろと、この家の人たちがついてこなくてもいいのに全員ついてくる。
この家の吹き抜けの玄関は、温かみのあるオレンジ色にそまっていた。その光は叔母さんお手製のステンドグラスがはめ込まれた縦長の窓に反射し、一層華やかで誇らしげに輝いていた。
ここは、おとぎの国かよ。
「今日はあ、兄貴もうすぐ帰ってくるよ。珍しく会議が早く終わったから」
狸のような体型のおじさんは、大きな体をゆすりながら言う。総合病院の院長は父、副院長は叔父。父は、家に帰ってこない日も珍しくない。
「忍ちゃんのことお、兄貴にも言ったらあ喜んでたよ。帰ったら、お母さんにも報告しなさいねえ」
叔父さんは、ワインのせいでろれつが回っていない。思わず笑みがもれ、笑いながら別れの挨拶を言うことができた。
晶とふたりきりにならず、この押しつけがましいおとぎの国からようやく帰還できるとしんそこ安堵した。けれど、マフラーと懐中電灯を手にした晶を見て、大事なことを失念していた自分を殴りそうになった。
「家まで送って行くから」
そんな必要はないと断る前に、晶はスニーカーをはきだした。
そうだ忘れていた。この家から帰る時は必ず、晶が俺を家まで送るのが習わしだった。だからあいつは、何も訊いてこなかったのだ。晶とこの家で同じ空気を吸った瞬間から、ふたりきりになる時間は確定していた。
俺と晶の家は、同じ敷地内に建っている。広い敷地だからと言っても、五分もかからない距離だ。それでも、晶は俺を家まで送る。
小さい頃、この家から帰る途中で俺が迷子になり、みつけたのは晶だった。それから高校生になった今でも、この習慣が続いている。
暖かな室内から一歩足を踏み出すと、闇夜にちらちらと小雪が舞い散っていた。朝の天気予報では、雪は明日の朝降るとのことだった。
これぐらいなら、傘をささなくてもいいだろう。両脇に植え込みが続く本家までの小路を、晶の後からついてゆく。
晶の持つ懐中電灯が、俺たちの行き先を照らす。植え込みのつつじは短く刈り込まれ、針金みたいな枝先に雪がふれると、すぐに消えてしまう。その光景を見ているとくしゃみが出た。
晶はすぐさま振り返る。懐中電灯を脇に挟み、手に持っていたマフラーを俺の首にグルグルと巻き付けた。懐中電灯の光が、まぶしくて俺は目をしかめる。
狭まった視界。見下ろす晶の視線。マフラーで覆われた口元。息ができない。
苦しくて、乱暴にマフラーをずらし、息を大きく吸い込む。冷たい空気と晶のにおいが肺の奥に流れ込み、息がつまる。
憮然とした態度でいちおう礼を言うと、晶はかすかに笑ってまた歩き出した。
「進路希望、もう書いた?」
前方を歩く晶は振り向くことなく、俺が半日逃げ回っていた質問をようやく口にした。
「まだ、書いてない」
かすれた声で答えながら、内心で舌打ちをしていた。シミセンといい原田といい、どうして俺の進路が気になるんだよ。関係ないのに。
「俺は、東京の医大を受験しようと思う」
医者の家系の一族では、しごく順当な進路だ。この地方にも医大はあるけれど、晶ならもっと上を目指せる。そう、俺には無理だが晶にならできる。
ふたりが歩く石畳に、うっすらと雪がつもり始めた。その道に残る晶の足跡と俺の足跡は、けして重ならない。
「なあ、忍。いっしょに東京へ行こう」
晶の台詞を聞き、俺の歩みはぴたりと止まった。
「はっ? どういう意味だ」
俺は振り向いた晶の顔を、無言で見あげる。
「忍は、東京の美大に行けばいい。あの家から離れた方がいいと思うんだ」
晶は医大で、俺は美大に……。俺の学力を考えればまっとうな意見に、うつむくしかなかった。でも、うつむきながら拳を握りしめる。
こいつは、何にもわかってない。俺がどんな思いで、おまえの背中を見てきたかなんて、考えようともしない。考えもせず、簡単に美大にいけばいいなんて言う。
それは何もかも持っているものの、無神経な押し付けにほかならない。そんなの優しさでも何でもない。
「勝手に決めるな! 美大じゃなくて、地元の医大にするつもりだ」
現役で難しければ、浪人したっていい。とにかく俺は医大にいく。誰にも言わなかった進路を口にして、幾分すっきりした心持になった。
晶は俺の進路に驚いているだろう。驚いている晶の顔を見てやろうと、顔をあげた。
すると俺の予想に反して、あいつの瞳は雪夜の闇よりも濃く深く落ち着いていた。
「せっかくあんなでかい賞もらったのに、美大にいかないつもり?」
淡々と俺を説得するその冷静さが、余計にむかつく。けれど、真摯な晶の視線に対抗できず、たまらず視線をそらせた。
「絵なんて嫌いだ。暇つぶしで描いてるだけだ」
絵がどんなにうまくても、この家では何の価値もない。だから俺は子供っぽく駄々をこねるしかない。
「そんなわけない。ちびの頃から毎日毎日絵を描いて、描きつぶしたスケッチブック、何冊もあるのに」
スケッチブックが山のように積みあがった俺の部屋を、晶は知っている。そんなゴミ、捨てればいいのに捨てられない。
「あのスケッチブックは、大切なものだよ。好きなことをするのが、忍にとって……」
俺がゴミだと思うものを、晶は大切なものだと言う。価値観が違う。俺とおまえは、どこまでいっても重ならない。重なりたくても重ならない。
そのズレに、俺はずっとイライラしてきた。
「うるさい! わかったようなこと、言うな!」
俺の反抗に、いつも穏やかな晶の顔の眉間に似合わないしわがよった。やっと、この整いすぎた顔を無様に歪ませてやれたと喜んだのもつかのま、落ち着いていた瞳にさっと熱が走る。
「わかる。少なくとも今の忍より俺の方が絶対わかる。忍がどんなに無理しても……」
晶は言葉を発する代わりに一歩足を踏み出し、長い腕をまっすぐ伸ばしてくる。その腕に絡み取られまいと、体を大きくずらした。
あの腕につかまれたら、おしまいだ。絶対晶に、抵抗できなくなる。俺が俺でなくなる。
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