第4話 フォンダンショコラ
どこか遠くの方で、晶の声がする。今は冬のはずなのに、体がみょうに熱い。
だんだんと晶の声が近づいてくる。起きようと思うが、俺の全身は誰かに押さえつけられたように、ピクリとも動かない。
あー、こんな朦朧とした意識で聞く晶の声を、俺は覚えている。
あれは、中学生だった夏の日だ。
縁側で寝ていて、背中にかいた汗が気持ち悪く意識が覚醒しかけていた。家には誰もいない。
やかましく鳴くツクツクボウシの隙間をぬって、俺を呼ぶ晶の声が聞こえてきた。返事をしたくても、喉がカラカラで声も出ない。
声はだんだんと近づいてきて、寝ている俺のすぐそばに気配を感じる。目を覚まそうとすればするほど、意識が体の奥へ奥へと引っ張られていく。俺は抵抗をやめて、夢うつつの状態に身をまかせた。
晶も何をするでもなく、じっと俺の枕もとにいるようだ。あまりにも動かないので、この気配は晶ではなく、ひょっとして人ではないものかと思った瞬間。唇に何かが触れた。
あの時の唇に触れたものの感触を思い出すと体の芯が熱く震え、俺は重い瞼を開いた。
今、自分はどこにいるのだろう?
かすむ視界は徐々にピントが合い、俺をのぞき込む晶の顔がはっきりと認識できた。
そうだ、俺は晶の家で寝ていたのだ。
「こんなとこで寝てたら、風邪ひくよ」
晶の声音に、からかいがまじっている。『うるさい』と言ってやろうとしたけれど、美優の声が俺よりも早く晶を攻め立てた。
「もうお兄ちゃんは。忍ちゃん疲れてるんだから、起こさなくてもいいのに」
俺はのそりと体を起こすと、誰かがかけてくれた毛布がずり落ちた。
ダイニングテーブルを見ると色とりどりの料理が並んでいて、夕食の支度がすっかり整っていた。
これから、俺をかこんだ祝いの晩餐が始まる。
最初四人だった食卓に途中から早く帰ってきた叔父さんまで加わり、賑やかさが倍増した。この家の人は、みんなおしゃべりだ。
美優が学校の不満を言うと、晶は高校生になったらもっと大変だと、年上風をふかせてすかさず茶化す。ワインを飲んでいる叔父さんは、大きな声でふたりのやりとりを笑っている。その叔父さんを叔母さんが笑いながらたしなめる。
ドラマの中だってこんな理想的な家族、そうそう存在しない。
俺は暖かな家族団らんのはしっこで、もくもくと箸を動かしていた。いつ何時、晶の訊きたいことを振られるかと身構えながら食べていると、ローストビーフはゴムの味がした。
いつもひとりで食べている俺にとって、晶のことをのぞいてもこんな大人数の食事は苦痛でしかたがなかった。
スマホやテレビを見ずに、会話と食事に集中しないといけない。俺だけさっさと食べ終わるわけにもいかない。みんなの食事のペースを見ながら箸を進めないといけない。
こんなに気をつかって食べないといけないなんて、まるで宗教儀式のようだ。
儀式は終盤にさしかかり、ようやく最後のデザートにたどりつく。バレンタインデイのメインディッシュは白い陶器のカップに入った、フォンダンショコラだった。
そっとスプーンを入れると中からとろけたチョコレートがのぞき、銀のスプーンにねっとりとまとわりつく。
こぼさぬよう、慎重に口へ運ぶ。少し苦みのあるチョコレートの甘さが、口の中に広がった。濃厚な甘さはいつまでも舌の上にとどまり、喉の奥になかなか消えてくれない。ブラックコーヒーでそのくどい甘さを押し流した。
昔はチョコレートが大好きだった。すぐに消えてしまわない、後をひく甘さ。何時のころからだろう、その執着する甘さが苦手になったのは。
きれいに食べ終わると、今日の苦行はこれで終了だ。晶はひとことも俺に話を振らなかった。家族の前では訊きにくいことみたいだ。それならば、晶とふたりきりになる前に、逃げるに限る。
「ごちそうさまです。今日は、自分のためにお祝いしていただきありがとうございました。おいしかったです」
礼を述べて席をたつと、叔母さんに引き留められた。
「まだ、いいじゃない。もうちょっと、いたら? 家に帰っても……」
それ以上叔母さんは口にしなかったが、言いたいことはなんとなくわかる。
『さみしいでしょ』
家にひとりでいるよりこの家族といる方が、何倍もさみしいと俺が思っているなんて、叔母さんは思いもつかないだろう。
俺は無理やり口の端をあげて、薄く笑う。
「宿題もあるし、勉強したいから……」
大人は勉強という免罪符を出されたら、引き下がるしかない。叔父さんは赤い顔で、「またおいで」と陽気に言ってくれた。
そのあっけらかんとした台詞が湿っぽさを払しょくしたのか、叔母さんも席をたった。
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