第3話 晶の家

 かじかむ指に力をいれてチャイムを鳴らすと、晶の母親の声が聞こえた。


「今開けるから、待っててね」


 しばらくすると、目の前の北欧風のドアがゆっくりと開き、中から叔母さんの顔がのぞく。何時も機嫌のいい華やかな顔が、俺の顔というよりも頭を見て少しくもった。


「寒いのに、ずいぶん短くしたのね」


 まだ何か言おうと、叔母さんの口が開きかけたその時、晶の妹の美優がパタパタ足音をたて奥から走ってきた。大きな目をさらに見開いているので、俺の登場に興奮しているのがわかる。


「忍ちゃんいらっしゃーい。最近ちっとも遊びに来てくれないから、美優さみしかったよ。あがって、あがって」


 体育の時間に聞いた晶の伝言は、渡したいものがあるから放課後家によってほしいという美優のお願いだった。


 玄関に並んだ靴の中に、晶のバカでかいスニーカーはなかった。ほっと息を吐き出し、ローファーを脱いであがる。


 叔母さんに促されリビングに入ると、甘ったるいにおいが部屋中に充満していた。


「忍ちゃんに渡すフォンダンショコラ作ってるんだ。今年は何個チョコもらったの?」


 俺の少しふくれたカバンをみて美優が言う。今日はバレンタインデーだ。一日いろんな子からチョコをもらった。数なんていちいち数えていない。


「美優も学校で渡してくれたらよかったのに」


 そうしたら、わざわざ晶の伝言を聞かずにすんだ。俺の少し非難がまじったセリフに、美優は頬をふくらませる。


「だって、高等部のお姉さま方を差し置いて渡せないよ。それにフォンダンショコラは出来立てがおいしいの」


 中等部の美優にとって、校舎が違う高等部に来いというのはこくな話か……。いやそもそも、LINEしてくれたらよかったんだ。校内は使用禁止でも、通学前に送るとかできるだろうに。


 カバンを置きソファーに座ると、今日一日の疲れで体が深く沈みこむ。

 俺は、なんでこんなにむきになってるんだ。別に晶はいとこなんだから、伝言を聞くぐらい特別なことじゃない。


 目を閉じると、耳元で聞いた晶の伝言内容が脳内で再生された。


『美優が、忍にチョコ渡したいって。俺も訊きたいことあるから、俺が帰るまで待ってて』


 思わせぶりなこと言いやがって。なんだよ、訊きたいことって。さっさとあの場で言えばいいものを。


「そうだ、お祝いまだ言ってなかった。公募展に入賞おめでとう!」


 背後からふいに美優に話しかけられ、返事をする間もなく後ろから抱きつかれた。美優の柔らかい髪が頬をこする。チョコとは違う甘いにおいが鼻をくすぐった。 


「家に帰ってすぐ、お父さんにもLINEしたんだ。すごいって褒めてたよ」


 俺はどう答えていいかわからず、美優の桜貝のようなかわいらしい爪をただ見ていた。この家の人たちは、手放しで俺のことを褒めてくれる。


 そのまっすぐな賞賛に、いつも居心地が悪くなる。

 叔母さんのうきうきと弾んだ声が、聞こえてきた。


「今日は夕飯うちで食べていきなさい。みんなでお祝いしましょうね」


 祝ってもらうほどのことじゃない。


 喉元まで出かかったセリフを飲み込む。こんなことを言ったら、善意にあふれたふたりを困惑させる。なんとかうまい言い訳をひねり出し、夕飯を食べずにこの家を出ないと。


 晶と顔を合わせたくない。あいつがバスケの練習を終えて帰宅するまでまだ時間はある。フォンダンショコラだけ食べて、さっさと家に帰らないと。


 あいつは『待ってて』なんて言ったけど、そんなの知るか。

 俺は首にまとわりつく美優を振りほどき振り返ると、叔母さんの様子をうかがう。叔母さんは、上機嫌でシンクで作業していた。


「お手伝いさんが、ご飯つくってるから」


 俺の弱々しい抵抗は、あっけなく撃沈された。


「本家の方にはさっき電話しておいたから、大丈夫よ」


 叔母さんは、満面の笑みを俺に向ける。この笑顔に勝てる自信なんてない。


 俺は大きなため息をつき、目をつむる。叔母さんと美優が、チョコの温度について言い合いをしている会話が耳に流れてきた。


 他愛ない母と娘の小競り合いの声が、だんだんと遠くなり俺だけをおいて消えた。

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