SideA プロローグのプロローグ08

 シーアの瞳が炎の揺らめきと同化するかのように深紅に染まっていく。いや、瞳だけではない。シーアのあらわになっている腕や足、頬にも血のような紅の紋様が浮かんでいく。


「お、お姉さんそれ……。それにあれって……鼠?」


 相手を威嚇するように二本足で身を立たせたその獣は確かに鼠の姿そのもの。だが、その瞳に潜むどう猛さと残忍さは矮小なる鼠とは明らかに異なる。


 目の前に迫る獣の恐怖とそこに立ちふさがる異様な姿のシーアにクーラは軽いパニック状態に陥る。幸いなのは彼女は依然腰が抜け立ち上がることができなかったこと。目の前の獣は立ちふさがる奇妙な女性よりも楽に食せるであろう少女を標的にしている。もしも少女がその場を離れ女性の背後から動いたならすぐにでも襲い掛かっていたであろう。


「こっちを……見ろ!」


 それはまさに目にも留まらぬスピード。およそ人間とは思えぬ速度でシーアは化け物に詰め寄り、鼠の口元から伸びた髭に手にした剣で切りかかる。


 小さくなった今、彼女の腕ほどはあろう太さの髭。それをまるで柔らかなバターでも切るかのように滑らかな剣さばきで切り捨てる。


ぐぎゃっ! ぐぎゃぎっ!


 鼠のそれとは思えぬ重々しくくぐもった鳴き声。髭を切られ一時的に恐慌状態に陥った化け物は顔を抑えその場でごろごろと転がり始める。そこにすかさず剣先を向けたシーアが突っ込む……が、不意に何かが彼女のあばらを薙ぎ払う。


 シーアはすんでのところで剣でそれを受けるが衝撃までは押し殺せず、近くの麻袋に叩きつけられるように吹き飛ばされる。


「ちっ……手癖が……いえ、尻尾癖の悪い鼠ね」


 人の胴ほどの太さの尻尾はまるでそれだけで意思を持つかのように闇と炎の狭間で蠢いている。鼠のような姿・形をしているだけで、鼠とは本質的に何か異なるようだ。


「お、お姉さん!」

「けほっ……だ、大丈夫。今年は豊作のようで助かったわ。吹っ飛んだ先が

木の柱とかだったら流石にまずかったわ」


 麻袋と中に詰まった麦が衝突の衝撃を和らげたようで、シーアに大した損傷はない。だが、その間に化け物もなんとか冷静さを取り戻したのか、シーアに真正面に構え警戒態勢をとる。


「鼠のくせに随分と勇猛なのね。少しくらい鼠らしく日和ってくれると楽なんだけど。まあ、お前はもうただの鼠じゃないか……希源種オリジンワンだからな」

「オリジン……ワン?」


 クーラの疑問など関せず、左右に大きく体を唸らせながらシーアへと突っ込んでくる化け物。瞬時に足に力を入れ真横へと飛翔する体勢をとり、シーアはすぐさまはっと身をひるがえし背後へと全力疾走する。


 その視線の先で震えたまま腰を落としている少女、クーラ目掛けてシーアはただ走る、走る、走る。


「ひゃっ!?」


 突然のシーアの接近とその後の浮遊感で思わず小さな悲鳴をあげる。再びシーアによって抱きかかえられたクーラは自分が元居た場所に突っ込み、止まれずに壁にぶつかる鼠を見てようやく理解した。あのままあそこで座っていたら自分は死んでいたのだと。


「人気者ねクーラ。あいつ、私よりもあなたをご所望のようよ?」

「や、そんなのやだ!」

「ぷっ……」


 緊迫した状況の中、今までで一番子供らしく応えたクーラに思わず吹き出すように笑ってしまう。背後には再度自身をめがけて迫りくる化け物がいるにもかかわらずだ。


「お、お姉さん! う、後ろからあいつが来てるよ!」

「安心して……今打開策考えているから」

「え……」


 血の気が引くという感覚をクーラは今まさに人生で一番感じているかもしれない。自身を抱える女性はどこからその自信が出るのかあっけらかんとしている。


「あいつの術式……"独創術式"はなんだ」

「え?」


 シーアの呟きに思わず返事をしてしまったクーラ。だがシーアは集中しているのかぶつぶつと独り言染みた呟きを続けている。


「対象を小さくする力か? いや、それなら私はもうノミぐらいに小さくされて詰んでいる。それができない理由はなんだ? 小さくできるサイズに制限があるのか? それとも、単に対象を小さくするという能力ではないということか?」


 何度も背後から襲い掛かるネズミをクーラを担いだまま器用に逃げ回るシーア。おまけにリアルタイムであれこれと考えながらそれを実行しているというのだからクーラも素直に感嘆の声を漏らす。


「そもそも術式の発動条件は何だ? 私が倉庫に入ってもすぐには小さくならなかった。ではいつ小さくされた。たしか物音を聞き麻袋の近くで屈んだ時だ。松明を地面に刺し、地面を両手で調べようとして……」

「わ、私は倉庫に入ってすぐに小さくなったよ」

「むぅ……」


 シーアの流れるような独白にクーラの指摘が重なる。シーアは一瞬の微笑みをクーラに向けた後、背後から迫る化け物の鼻先を踏み台にする様にして飛翔し、化け物の背後へと降り立つ。一瞬、獲物を見失った化け物は現れた時のようにして二本足で立ちあがり、きょろきょろとあたりを見回す。


「そうだ……後から来た村人たちも入ってすぐに小さくされていた。なぜ私だけ時間がかかった。私の存在に気が付かなかったのか。そうだな、少なくともその時は倉庫に誰もいないはずと奥で麦を漁っていたのかもしれない。だから……奴は"私の姿を見ていなかった"」


 シーアはそっとクーラをその場に降ろす。クーラは少しふらついたがなんとか立つことができた。そしてすぐにシーアの方を見るも彼女はすでに剣を手に化け物へと立ち向かっていた。


「鼠は人に比べ小さい。だからこそ人に怯え、隠れながら地を這っていた。もしその立場が逆転したならば? 見上げても全容を捉えれぬ巨人がもしも自身が見下せるほどの大きさであるならば、それは餌として見えただろう。自分を小さきものと見下した相手との"逆転"。それがお前の願望にして能力の根源か!」


 剣を握るシーアの右手がうっすらと青い光を帯びていく。それは空気中でバチバチと音を立て、剣へと伝染してゆく。剣はまるで青い稲妻を纏うように激しく光り、辺りの空間そのものを歪ませているように見える。


「"カラミティ"……全てを破壊しろ!」


 シーアは自分たちを探そうと背を向けて立つ化け物目掛けとびかかり、頭へと器用にぶら下がると輝く剣を化け物の右目に突き立てる。


ぐぎゃっ!ぐぎゃがががっ!


 激痛にまみれた獣の咆哮が静かな倉庫内に響き渡る。その場でのたうち回る化け物から距離を置いて着地したシーアは剣を鞘にしまい、暴れ狂う化け物を不敵な笑みで睨みつける。


「おい、鼠」


 小さく、だがどこか重々しい威圧感をまとったその声を……言葉を到底理解したとは思えない。だが、鼠と呼ばれた化け物はよろよろとシーアの方を向き直る。


「お前はどれだけ大きな存在だとしても小さき存在……臆病者だ。まだ私に勝てる気でいるのか」


 もはや剣を構えることもなく、シーアはゆっくりとまっすぐに化け物のいる方へと歩み寄っていく。シーアの腕や足に浮かぶ紅の紋章がここにきてまるで炎のような輝きを放つ。


ずさっ!


 依然として体の大きさは自身が上。されど目の前で自身に向かってくるそれは自身よりも"大きな存在"。退かねば殺される。そう感じたからこその無意識下の後退。


「……臆したな?」


 シーアの表情はもはや相手をどう殺そうかと愉悦に浸った捕食者のそれ。紅の瞳がうっとりとした表情で化け物の全容を映しこむ。


「あうぅ……」


 背後から聞こえるクーラのくぐもった声。突如全身を襲う謎の衝撃。だがシーアはそれを待っていたとばかりに口の端を緩ませて受け入れる。


 刹那の暗闇。そして目を開くとそこには"見慣れた視点"の倉庫の風景。


「あ……あれ? 私……」


ぐぎゃ!


 耳障りな悲鳴にクーラははっと前を向く。その視線の先では地面に剣を突き立てるシーアの姿。その剣の先には一体の鼠が貫かれている。


「いくら最強の力を得たとしても……お前はしょせん小さきもの。少なくとも私の敵ではなかったな」


 シーアが剣をゆっくりと抜くと、鼠の亡骸はまるで金色に輝く鱗粉の

ような粒子となってゆっくりと消滅を始める。


「そ、その鼠が"狩る者の収穫"の正体なの?」

「ええ、おそらく……。こいつは視界に捉えたものを自身より小さな存在へと変える能力を持っていた。普段見上げることが多い小さき存在は願ったんでしょうね……自身も"相手を見下す"存在になりたいと」

「そ、そんな術式が存在するの?」

「やつらは"独創術式"と呼ばれる固有の術式を使う。この世界で奴だけが使える術式。希源種オリジンワンの唯一の共通する事項ね」

「オリジンワン? さっきも言ってたみたいだけど?」

「あ、やば……そういえば」


 あからさまにばつが悪そうな顔でシーアは口元に手を添える。クーラは何が何だかと困惑した様子でシーアの言葉を待った。そしてしばらくしてシーアが大きくため息をつき、ぐっとクーラの両肩をつかむ。


「まあ、あれよ……今聞いたことはお姉さんとの秘密ね」

「は……はい?」


 シーアはその後顔の前で手を合わせ何度もお願い、と頭を下げた。それまで命を賭した化け物との戦いをしていた女性とは思えないその滑稽な様子に思わずクーラは安堵の笑み、いや、満面の笑みを浮かべた。

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