SideB チュートリアルのチュートリアル02
不貞腐れる有栖を残して部屋を出たのち、階段を下りてすぐの101号と書かれたドアを数回ノックする。やわら築三十年を迎えるこの古びた木造二階建てのアパートに呼び鈴なんて洒落たものはない。
ドア越しに聞こえる足音。よかった、どうやら留守ではないみたいだな。
「すみません、205号室の
しばらく待つとガチャっとドアが開く。それと同時に湿った空気とシャンプーの香りがふんわりと俺の体を吹きぬける。
「あ、こんにちは三階さん。あ、すみませんこんな見苦しい格好で」
「あ、いえ。こちらこそなんかタイミング悪くてすみません」
目の前の女性はまだ髪を乾かす前のようで、艶やかに濡れる黒髪と紅潮した頬が風呂上り直後であることを俺に教えてくれる。
先ほどまで見た目が幼い有栖といたためなんだか一層目の前の女性が艶やかに見える。まあ実際タイプ的にはドストライクなわけだが……。
「えっと、今日の晩御飯ですけど先週お伝えした通りバイトでシフト交代があって。俺の分は今日は不要です」
俺の住むアパートだが、今では珍しいのかな? 平日朝晩の食事付きの物件になっている。一階の管理人さんの部屋の横が二部屋分くらいの広さの食堂になっており、アパートの住人全員が集まって食事をとることもある。
「わかりました。バイト頑張ってくださいね。あ、夜勤のようでしたら帰ったらすぐ寝たいでしょうし、またおにぎりでも作り置きしておきましょうか?」
「あー、すみません。よかったらお言葉に甘えてもいいですかね。夜勤明けって妙に腹が減るもので」
「ふふ、大丈夫ですよ。それじゃあ食堂のテーブルの上に置いておくので、忘れずに食べてくださいね」
「おにぎりー!
部屋の奥から底抜けに明るい子供の声が聞こえた。俺の勘違いじゃなければ褐色肌&長く伸びた翡翠色の髪をした一糸まとわぬ姿の幼女が見えた気がするんだが、生憎とすぐに視線を外に向けたので真相は定かではない……ということにしておく。
「こら絵芽! 早く服着ないと風邪ひくっていつも言ってるでしょ!」
「ふはは! 絵芽に風邪なんてものは通用しない!」
どういう理屈だ……そう呟く俺の声とこちらに向き直りつつ呟く管理人さんのそれが偶然にも重なった。どうやら思っていたことは同じだったようで、俺は苦笑い交じりで軽く会釈し、その場を後にする。
「あ、そういえば三階さん。有栖、もしかして今日も三階さんのお部屋にお邪魔してたりします?」
「あー……いますね。まあ盗られるものも無いですけどよかったら合鍵でまた戸締りだけお願いできますか」
「うぅ……すみません。あの子にはまた私から言っておきます」
「あはは、管理人さんもなんか苦労してそうですね」
申し訳なさから委縮した姿がなんか妙にかわいく見える。そんなことを人知れず思いながら再びアパートに背を向け歩みを再開する。
空は徐々に茜色から黒へと色変わりしていく。
「そういえば、今のあのやり取りも今月に入って何度目だろうな」
気が付けばまた口の端が緩んでしまっていたようだ。
* * * * * *
「ありがとうございましたー、またお越しくださいませー」
閉まるドアの向こうで待たせていた男性と腕を組み歩いていく女性の背。ふう、今日はなんだか嫌に客足が多いな……しかもカップルのだ。今日は何かイベントでもあったかこの近くで?
「カップル客、今ので何組目だ? なんだかやけに多いな今日は」
歓楽街の端にあるこのコンビニには主に飲み終えたあとの客が日々押しかけてくる。大学生から会社員。また、近くの店に努めるバイトやきれいなお姉さんなんかも数多く来るわけだ。
「ああ、今日この近くでイベントあったみたいですよ。なんでも有名どころのスイーツ店が全国から集まって色々振舞ってたみたいです」
レジ周りの備品を補充しながら横にいた男がにやりとした表情で教えてくれた。バイトの同僚の山崎君だ。なぜかいつも決め顔で会話を始めるのはなんでだ?
「へー。そりゃ世の甘いもの好きな女子は放っておかないだろうな。てーことは男性もそれに付き合わされたって感じか」
「そうですか? 案外甘いもの好きな男性って多いんですよ? もしかしたら彼女さんの方が付き合わされたんじゃないですかね。さすがにそんなイベント、男性だけじゃ顔出しづらいですからね」
なるほど、甘いもの好きイコール女子っていうのも偏見だったか。まあこの世界は男女平等。いや、何かと平等であろうとしているといった方がいいか。変わるものだな、世界が違うと……俺は何を言っている?
「ぐっ……」
「あれ? 大丈夫っすか先輩。なんかひどそうですけど」
「ああ、大丈夫だ。最近多くってな、頭痛が」
ここ最近おかしな頭痛がよくある。なんだろう、そうした頭痛の時は決まって俺が俺でないような不思議な感覚に陥る。いや、そうじゃない。俺という存在がそもそも……くそっ!
「だ、大丈夫ですかほんと? い、いやですよ? ここで先輩が倒れたら今晩の夜勤自分一人になっちゃうじゃないっすか! ただでさえ飲み客に加えイベントで人が多いっていうのに!」
「お、お前なぁ……」
山崎の俺を思いやらない心配そうな声でなんだか一気に頭痛が引いていくのを感じる。あー、夢から現実に戻るような感覚。俺はバックヤードからごみ袋を持ち出すとレジ横のドアを開け店内に出る。
「はぁ、少し頭冷やすついでにゴミ箱の袋替えは今日は俺がするわ」
「え? いいんすか? ラッキー」
「おう、ごみ捨てはいつもより丁寧にするからちょっと時間かかるかもだけどその間レジと品出しよろしくな」
「ちょ、ごみ捨てるだけに丁寧もくそもないでしょ! それさぼり!」
「いってきまーす」
手際よくごみ袋を替え、満タンになったゴミ袋を手に表に出る。この店のゴミ置き場は少しめんどくさいことに店から少し離れている。そのため山崎もごみ捨ては嫌っている。
店横の狭い路地裏を抜けると目の前には静かに流れる川が見える。川の向こうには住宅が所狭しと並んでおり、たまに人声も聞こえてくる。なんだか妙に心が落ち着くな。
「にぎやかな街もいいが、やっぱりこういったのがいいな……」
どれだけその場で立ち尽くしていただろう。頭痛の痛みは完全に引き……同時にサーっと血が引くのを感じた。やばい、そういや山崎一人にレジ任せっぱなしだった。
軽い冗談のつもりが結構シャレにならないほど時間をくってしまった。このままではまたバイト上がりにたかられてしまう! 山崎は後輩という立場を最大限活かそうとする。もしそのスキルに名前を付けるなら……
もときた路地裏を駆け足で戻る。道とも呼べない密集した建物の隙間のような狭いスペースだが表の道よりは早い。路地裏を出るときは入り口近くに無数に積み上げられた酒のケースだけは崩さないように注意しないとな。
一度崩したことがあるが片付けがめんどくさい。てかあれ絶対近くの居酒屋が放置してるやつだろ……。
さすが路地裏という名の無法地帯。下水のにおいやマナーの悪い阿呆が捨てたごみが散乱しているがお構いなしだ。だが……そこに構わずにはいられない事態が起きる。
「なんだ、眩暈……?おかしい、なんだよこれ」
強烈な立ち眩みのような感覚。歪む視界。一瞬目の前が真っ暗になった。そして次に目の前に広がったのは元いた世界……なのだが。
「ど、どういうことだ。え? な、なにこれ? こんなイベント今日予定してたっけ」
自分でも何を言っているかわからないが、冷静に見るに考えられる可能性は二つ。一つは、俺はあの頭痛のあと実は倒れてしまい、いまは夢でも見ている。そしてもう一つは……俺の身長が縮んでしまった。
先ほどまで足元に転がっていたペットボトルが俺の身の丈ぐらいの高さまである。捨てられたたばこの吸い殻も俺の膝ぐらいまであろう太さだ。
「は、はは……どうなってんだよこれは」
〈そろそろまずいんですよ実は……〉
なぜか有栖のセリフが急に脳裏をよぎる。おいおい、嘘だろこんなの。
ガリガリッ
何か固いものが削られる耳障りな音が聞こえた。それと同時に背後から何か不気味な熱量というか、気配を感じる。後ろを見るのが怖い。だが、このまま立ち止まっているのは危険だと、俺の中で今までにない警鐘が鳴り響いている。
足元に垂れるぴちゃぴちゃという音。右腕を襲う強烈な痛みと熱。気が付けば振り返ることもできず走り出していた。もしかしたら悲鳴のようなものをあげていたかもしれない。助けてくれと叫んでいたかもしれない。
ガリッ
再度聞こえた音とともに俺の視界は真っ暗になった。
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