ないものねだりの水葬
樒
第1話
初めましては一体いつだったろうか。最早はっきりと思い出せないからかなり昔なのかもしれない。うす暗い水族館の中は、青や白の照明で所々ぼんやりと照らされていたのを覚えている。「幻想的」という言葉はきっとこんな光景を表すためにあるのだろうと僕は自分自身に蓄積された知識と現在進行形で得ている経験を照らし合わせながら歩いていた。
あの時、僕は一人だった。いや、僕は生まれる前から一人だったのだけれど。それでも誰かの腕に抱かれたり、手を引かれることを既に必要としない年齢だったのだろう。水族館に連れて行かれた理由は自然と触れ合うことで僕の人間らしい情緒を発達させるためであった。
水族館にはたくさんの生き物がいた。僕の体の何倍もあるような巨大なものから目を凝らしても見えないようなミクロなものまで、肉食から草食、そのどちらでもある雑食まで、魚はもちろん、貝や珊瑚のような魚とは似ても似つかないものまで、本当にさまざまな種類の生き物がいた。事前に図鑑などからそれらの情報はインプットしていたものの、複数の生き物が目の前を動いているのを見るのは初めてだった。だから僕は「照合」作業に夢中になってどんどん館内を進んでいった。
その中で一際、僕の心に焼き付いたのは生命の起源、青い銀河だった。
十数年後、年月の経過分それなりに成長した僕は監視の目を掻い潜ってまた水族館に来ていた。昔と違って目的の水槽は一つだけ。時間の余裕は無いのでそこを目指して最短ルートで館内を駆け抜けて行く。
青いライトで照らされた目当ての水槽の前で立ち止まり、上がった息を整えてから顔を上げる。
「こんにちは」
ガラス越しに彼ら、ミズクラゲに挨拶をした。
ミズクラゲ、英名はMoon Jelly、学名はAurelia Coerulea。刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科に属するクラゲの一種である。
直径30cmほどのお椀型の傘、透明な体の中央には四つの胃がクローバー型に位置しているのが見える。傘の縁には短めの細い触手が無数に並んでいる。傘の中央から下に向かって伸びた口腕が水流に合わせてふわりと揺れた。
「綺麗だね」
クラゲといえばミズクラゲと言われるほど有名で、多くの人々に癒しを与えている水族館の人気者だ。初めてここを訪れた日から僕はミズクラゲが好きだ。だが、その理由はただ可愛らしいからではない。彼らは僕が失くしたものを持っているからだ。
「君たちは本当に泳ぐのが下手だね」
ぺたりと僕はガラスに両手をつけて出来るだけ身体を水槽に近づける。一つの水槽の中にはたくさんのミズクラゲたちがひしめき合って、どのクラゲも傘を広げたり縮こませたりしながらゆらゆらと移動している。目的地のないような不安定で頼りない泳ぎ方。当たり前だ、彼らの目的は移動ではない。
もちろん、遊泳や捕食の役目が全くないわけでもない。しかし心臓のない彼らにとって最も重要なのは、傘の開閉によって循環機能を働かせることだ。
心臓も血管もない、一般的には原始的な体と分類されるかもしれない。でも体全体が心臓として動いてるようなものなのだから。
「まさに生命じゃないか」
このクラゲたちの動きひとつひとつが心臓の拍動だとしたら、この水槽は凄まじい生命力が閉じ込められている事になる。それはまるで星の瞬きのように僕には見える。
「ねえ、聞いてくれる?僕にはお父さんとお母さんがいないんだ。僕はどこからやってきたんだろうねえ」
そう呟いてから自分の言葉に思わず苦笑した。僕がどうやって生まれたか、そんなの知らないはずがない。今やどこの教科書にも載っている話だ。僕は人類で初めて一人で生まれた人間、母親の胎内で育っていない人間。
「僕、帰り道がわからないんだ」
クラゲの約90%は水で構成されている。死亡した個体は僅かに含まれるタンパク質ごと全て溶けて、海水と混ざり合う。生まれた場所で死に、そしてその一部となって次の生命を育む。古代から変わらない定められた循環が僕には羨ましくて仕方なかった。
「生まれ変わったらクラゲになりたいなあ、なんて」
そもそも僕は死ぬのだろうか。
ないものねだりの水葬 樒 @sinonome_shikimi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます