5ー1


「そろそろ家に帰るわ」


「そうか、帰るのか……はっ?」


 こいつは何を言っているんだ?


「お前、一人暮らし。風邪ひいている。おけ?」


「どうして片言かしら? 大丈夫」


 三梨は立ち上がろうとするが、バランスが取れてない。


「めっちゃ、ふらついとるやないかい」


 その状況でよく大丈夫って言えたな、三梨さんよぉ。


 それでも三梨はベッドから降りようとする。


 おいおい、マジかよ。この三梨楓花って奴ぁ、頭の中がお花畑なのかよぉ。


「一人暮らしのお前が動けなくなったら、誰が助けてくれるんだよ」


「大げさね。大丈夫よ、この程度」


「道端で倒れていたお前にだけは言って欲しくないセリフだな」


 その自信はどこから来るのか、非常に気になる。


「大人しく、ここで寝ろ」


「分かったわ……」


 暫く三梨は苦い顔をするが、諦めたようにベッドに寝転んだ。


 とか言いながら、三梨は再び立ち上がろうとする。おいおい。再放送、早すぎだろ。


「もうええて、大人しく寝ていてくれぇ」


「お手洗いに行ってもダメかしら?」


「よし、行きますか」


 ベッドから降りようとする三梨に肩を貸す。


 ややこしすぎますぜ、三梨さんよぉ。





「ごめんなさい、手伝ってもらって」


 トイレから出てきた三梨は申し訳なさそうに頭を下げる。


「気にするな」


 無理されるよりはマシだ。


 三梨に再び肩を貸して二階にある僕の部屋へと、ゆっくり向かう。


「この体勢になると、お化け屋敷に入った時の事を思い出すわね」


「三梨はずっと絶叫。その上、僕に引っ付いたままで離れなかったな」


「まさか自分が怖がりだったなんて思わなかったわ」


 彼女は微笑を浮かべて。


「でも、その出来事をきっかけに私は笑顔を知ったの」


 遊園地の帰りに三梨が口にした、人生で一番楽しかった、という言葉。

あの時は大げさって思ったけど今、思えば感慨深い。


 隣を歩く彼女は風邪を引きながらも、楽しそうに話をする。


 その笑顔に魅入ってしまった僕は、


「ちょっ‼」


 階段にてスルッと足を滑らしてしまいました。


 あっという間にバランスが崩れて、そのまま一階へと落ちていく。さほど高い場所から落ちたわけじゃないので、怪我はしなかった。


「すまん、滑った。怪我はないか?」


「ええ、大丈夫よ」


 良かった——いや、ちょっと待ってよ。


 フローリングの床に仰向けになる僕と目と鼻の先で赤くなった(風邪のせい)三梨の顔。これ、四つん這いの三梨に襲われている絵面が完成していないか?


「ただいまー。由紀くん帰ったよ」


 目の前の玄関の扉が開く音と、母の声が聞こえた。


 視界を上の方に持っていくと、無言で笑っている母と目があう。手には傘を持っていた。


 気まずい空気が数秒流れ、


「あっ、ごめん。邪魔だったよね! うん、消える。さよなら」


「ちょっと待って」


 呼び止めるが、母は既に消えていた。


 最悪だ。タイミング完璧すぎだろ。何この、お決まり展開!


「大丈夫かしら?」


「ああ」


「今の方は、誰かしら?」


「母です」


 動揺している僕とは違って、三梨は冷静だった。なんでこんな絶望な状況で冷静でいられるのか知りたい。きっと純粋なんだろうな。


「三梨、これがラッキースケベだ」


 念のために伝えてみたが、彼女はポカーンと首を傾げるだけ。


「よーし、由紀くん。心の準備は、できたよ。さあ、何が、あった、のか話して」


 玄関の扉から息を荒くした母が参上する。絶対に心の準備できていないですね。


「私のいなかった間、きっと、由紀くん、は大人になった」


「いや、なっていない。自己完結しないでくれ。とりあえず、落ち着いて」


「大丈夫、私は誰が相手でも……あれ、どっかで見た事ある顔?」


 三梨の顔を見るなり、眉を潜める母。


「あっ、思い出した! 目の前のゴキブリマンションの住民だ!」


 母の顔が迫真になった。なんて迫力だ、まるでジャンプ漫画の敵キャラみたいな顔だ。


 まさか母が三梨を知っているなんて。それも最悪なパターン。


 僕の母は未だに三梨の住んでいるマンションの事を敵視している。殺虫剤をまくのは辞めたが、今でも洗濯物を干す時、呪怨的な何かを呟いている。暇な時は、悪口やら嫌がらせ方法を僕に聞かせてくるくらいに恨んでいる。親との普段の会話がカオスな件はさておこう。


「目の前のマンションとは、ナナフシマンションの事でしょうか?」


「そう、ナナフシマンションとも呼ぶらしいの」


 そうとしか呼ばない。ゴキブリマンションと呼ぶのは僕の母くらいだ。


「由紀くん、今日の晩御飯はステーキだけどいい?」


 目を赤く光らせて不気味に笑い始める我が母。笑顔から殺意が溢れ出していた。


「思い出したわ。ナナフシマンションの前で不審な動きをしていた方だわ」


 三梨も母の事を知っていた。なんという奇遇。


「警察に通報してからは姿を見なかったから、忘れていたわ」


 衝撃的事実。お前か、嗚呼、お前だったのか。同級生に母を通報されていた件。


 勿論、母が黙っているわけもなく。


「よし、標本にしよう」


 殺気が増した。四つん這いになっている三梨の方へ、闇の手がゆっくりと伸びていく。


 三梨は何が起きているのか気づいてないからか、いつまでもポカーンとしている。


「あまり困らせないで上げてほしい。僕の数少ない友人だから」


 このままだとマジで殺りかねないので、ギリギリの位置で止めた。


「そうなの? なら許すしかない」


 殺気は一瞬で消え、すぐに営業スマイルへと変化していく。


「由紀くんの友達には優しくする。だから友達じゃなくなったら、すぐに言ってね。いつでも料理できるように、しっかりと包丁を研いでおくから」


 任せろと言わんばかりに親指を立てる母。本気で殺りそうなので、マジで怖い。


「それで、二人は付き合っているの?」


「いや、付き合ってない」


「プレイ後なのに?」


「プレイしてないから」


 既成事実になる条件は揃っているので、勘違いされるのも仕方ない。


 ちなみに三梨は何の話をしているのか理解してないようで、ずっとポカーンとしている。


「なんで、その体勢のままなの?」


 おっしゃる通りです。なんで、この体勢のまま、無実を主張していたのでしょうか。


「そろそろ疲れてきたから、立ち上がるわ」


 三梨はゆっくりと起き上がる。一人だけ気にしている部分がおかしい。


 誤解を解くために、事情を分かりやすく母に話した。


「なるほど、それは大変だ。ここからは私に任せて」


 母は荷物を下ろすと、三梨に肩を貸す。


「大丈夫です。一人で歩けます」


「ふらふらな状態で言われても、説得力ないよ」


「でも、人様のお母さまに迷惑はかけられません」


「つまり私が迷惑だって思わなかったら、大丈夫ってわけだね」


「それは……」


「甘える時は、とことん甘える。まだ、子供なんだから」


 僕の母は世話好きだ。その上、困っている人がいれば放っておけない。

仕事で疲れている筈なのに、そんな身振りを見せずに、優しく寄り添う。


「……すみません」


 反応に戸惑いながら、三梨は申し訳なさそうに呟く。


 そんな三梨の頭を母は優しく撫でる。


 二人の姿が、少し微笑ましく見えた。





 自分の部屋のベッドにて、体を休める。


 やっと三梨と話せた。おかげで今まで抱えていた、もどかしい気持ちが吹っ飛んだ。


 一か月前の三梨は恋を知らなかった。学校に持ち込んではいけないカップルのペアアイテムを没収したり、注意してカップルの時間を奪ったり、様々なカップルの仲を悪くした。それが原因で破局したなんて事はないだろうが、逆恨みで三梨に当たろうとする奴だっている。あまり人と関わらない僕でも、その話はいくつか聞いた事があった。


 三梨の悩みは考えればすぐに分かる、大きな悩みだった。


 なのに、僕は気付けなかった。察しがいい、と言っておきながら大事な時に気付けない。


 しかも悩みの原因は僕にあった。もっと考えて行動していれば。自分の浅はかさを憎む。

 そんな悲観的になっている僕に、ゆっくりと彼女は静かに語り始める。


「私ね、みんなが見ている景色が知りたかったの」


「それが、恋愛アニメ研究部に入った理由か?」


 返答はない。


 代わりに、彼女は笑顔を浮かべた。薄暗い部屋の中だったが、その光景は鮮明に映った。


 そうか、知りたかったのか。

融通の利かない彼女。いつも真面目で、どんな事にも屈しない頑張り屋。


 その心の中には、誰かの事を想えるようになりたいという願いが隠れていた。


「最初はね、後悔していた。辛かったし、悲しかった」


 三梨の話を静かに聞いた。一人暮らしをする理由、家族の話、学校の話。


 様々な辛い過去だった。聞いていると、自分を嫌いになっていく。どうして今まで三梨の事を知ろうとしなかったのだろう。もっと早く力になれていたのかもしれないのに。


「でも、今は後悔してない。またこうして斎藤君と話せているもの。だから、ありがとう」


 感謝の言葉。優しい声音に綴られた言葉は、僕の心を温かくしてくれた。


 彼女は悲しい話をしていながらも、一度も笑顔を崩さなかった。


 それでも後悔したと片づけるのは、彼女に失礼極まりない。


 だから僕も同じように笑った。


 ところで、一つ。思った事を言わせてもらいますね。


「なんで三梨が隣で寝てんの?」


 突っ込まずにはいられなかった。


「私も同じ事を思ったわ。二十二時までに家に帰らないとダメなのに」


「そこじゃない。それに関しては問題ない。なんなら、家に帰る方が問題」


 三梨は一人暮らしだ。悪化する場合を考え、今日は僕の家に泊まる事になった。


「他に何か問題でもあるかしら?」


「おおありだよ」


 泊るまではいい。問題なのが、どうして隣で寝ているのか、だ。


「紗栄子さんに、一緒のベッドで寝てほしいって頼まれたからよ」


 母のせいでしたか。他にも部屋あるのに、なんて事を考える母だ。解せない。


 しかも母の事を名前で呼んでいるし。自然すぎてスルーしかけたわ。僕がベッドでゆっくりしている時に、二人の間に何があったんだよ。絶対に仲良くなっているだろ。


「大丈夫よ。斎藤君の寝相が悪くても、気にしないから」


「それはむしろ僕が気にするわ。そういう事じゃなくて、異性で寝るという部分で問題なんだよ。思い返してみろ、アニメでも主人公とヒロインが一緒に寝ているシーンは、互いに躊躇していただろ。それくらい、今はすっごい状況なわけでな」


「でも、同時にお互いに気持ちが高揚していたわ」


「…………まあ、そうだな」


 言い返せなかった。確かにこの場面は、喜ばしい場面かもしれない。


 仕方ない。正直に話そう。


「三梨、一ついいか。初めて寝る相手は、彼女と決めているんだ……」


 幾度か三梨に初めてを奪われているが、これだけは絶対にプライドが許さない。


「私じゃ……ダメかしら?」


 甘い声が耳朶を打った。


 振り返ると、虚弱しきった子猫のような瞳が僕を見ていた。風邪によって朱色に染まっている頬。なんというか三梨さんがすっごく、あざとい恰好しているのですが。


 急すぎて、硬直してしまった。えっと、こういう時はなんて言えば良かったっけ?


 アニメの知識を頭の中で模索する。そこで、気付く。こういう時は必ずと言っていい程、主人公はヒロインに寄り添っていた。


「ごめん、少し大胆だったかも……」


 悲し気に呟く。そんな悲しい声を上げられると、すっごく悪い事した気分になるのだが。


 一つ、ため息を漏らして。


「分かった」


 背中を許した。そこまで言われたら、もう何も言い返せないですから。


「まだ甘いのかもしれないわ」


 急に我に返った声を上げる三梨。


「どった?」


「いえ、実践してみたのだけど、斎藤君はいつものままだったから」


 なるほど、恋愛アニメで習った知識を実践していたのか。


 そうだよな。三梨が、か弱い子猫ムーブを素でかますわけないし。


「悪くなかったぞ。ドキッとしたし」


「本当かしら?」


「ああ、ちょっとだけな」


「やっと恋を少しだけ理解できた気がするわ」


 真面目な奴だ。


「愛、については知る事ができたか?」


「ええ」


「そうか」


 会話はそれで終わった。静かに時計の秒針の音に耳を傾け続けた。


 三梨は静かに眠っている。小言が多い奴だが、眠っていると別人のように大人しい。


「こうして誰かと一緒に寝るのは、初めてかもしれないわ」


「いや、起きているんかい」


「ごめんなさい、眠れなくて」


「修学旅行に行った時の中学生ですか」


 でも、三梨の放った言葉には刺さる部分がある。


 その言葉だけでも、三梨のこれまでの日々に愛がなかった事が伺える。


 誰からも忌みられた彼女は、しっかりとルールを守って。何が正しいのか間違っているのか。頼れるのは教科書と大人の言葉だけ。不憫で不自由。ある意味、綺麗な人間が生まれたのかもしれないと考えられる。


 そう思えば、僕らの行為は間違っているのかもしれない。教師目線で言えば、優等生になんて事をしてくれたんだ! って怒るだろう。彼女の綺麗な波長を乱したわけだし。


 でも、後悔はない。彼女が笑っているのに、間違っているなんて思えない。


 だから、これからも彼女と一緒に居たい。


 彼女の初めてを失くしていこう。


 そのためにも、解決しないといけない問題がある。


 三梨はたくさんの嫌がらせを受けている。理由は恋の研究。


 これから様々な想いを知っていく彼女にとって、邪魔になる要因。


 エスカレートしていく前に、早急に手を打っておこう。


 ホコリ扱いされている僕が、どうにかできる問題じゃないかもしれないが、絶対にどうにかする。これでも恋愛アニメ研究部の部長、部員が困っていたら助けるのは当たり前だ。


 三梨は傷ついた。誰よりも深く、誰よりも残酷に、心に刻み続けられた。


 だからこそ、幸せになってほしい。また安心して部員で馬鹿が出できるようになる為に。


「熱が下がったら、鵜乃乃と梓間を連れて恋愛映画でも見に行こうぜ」


「そうね、もっと深く知る為にも」


 彼女は手を口元に添えて小さな笑い声を漏らす。


「でもテストの補修があるから、ちょっと先になるかもしれないわ」


 三梨は明日のテストを辞退する。今まで一度も学年トップを譲らなかった彼女が休む事を、みんなはどう思うのだろうか。


 正直、どうでもいい。誰かが何を思おうと僕は気にしない。三梨が元気になってくれる、それだけで構わない。


「補修なんてサボっちまえ」


「ダメよ、私の為に時間を使ってくれる先生に失礼じゃない」


 真面目な三梨らしい答えだ。


「なら、終わるまで部室で待っていてやろう」


 こんな他愛のない雑談ですら、楽しく思えた。安心しているから、だろうか。


 会話はここで途切れた。三梨が寝落ちしたのか、僕が寝落ちしたのか、記憶が曖昧になる。強かった雨音が聞こえなくなったせいで、時間の流れに鈍感になったのだろう。


 辛い事もあったけど、彼女をそれ以上に知れた。


 弱さをさらけ出して、互いに素直になって、最後は笑った。


 何にも代えられない経験。そして、笑顔で思い出せる笑い話。そして、これは喜劇だ。最後に心の底から笑ってくれる人がいれば、残酷な物語でも喜劇へと変化するのだから。

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