*三梨楓花*

 誰かを想う事ができないと、通り過ぎていく数々の人に言われ続けた。


 何もかも言葉通りで、何一つとして否めなかった。私自身、それを熟知していたから。


 おかしな話、大切だと思っていた家族が亡くなった時ですら悲しいと思えなかった。


 葬式の日、涙を流しているのは私ではなく、繋がりのあった親戚の方々。


 涙は痛みを感じた時に流すものだと思っていたから、最初はどこか痛いのかと思った。


 だから軽率な質問をしてしまった。


「どこか痛むところでもありますか?」


 質問をしてから気が付いた。これは、してはいけなかった質問だって事を。


 みるみる私に襲う視線の山。それは、どれも学校でよく見る、目だった。


 私は担任として葬式に顔を出してくれた貝塚先生に、あの目の正体を訊いた。


「その目は、君の事を軽蔑している目さ」


 今まで向けられてきた目の正体は、蔑み。誰もが私を侮蔑していた事を知った。


 私が怖かったのか、誰も私を引き取ってはくれなかった。


 だから私は葬式が終わってからは一人で暮らすようになった。


 一つだけ確信している事がある。

 

 私は、嫌われている。


 けど、悲しくない。一人で生きてきた私に、そんな感情は身についていなかった。


「楓花、いいか。誠実的に考えれば、人間関係なんて不必要だ」


 唯一、私の事を心配してくれた貝塚先生。


 私の新居に訪れた際に思っている事を話したら、親身になって話をしてくれた。


「だけど、抱えるものが減るぞ」


 矛盾している。人間関係を築いていけば、必然と抱えるものが増えていく。それは嫌な事に直面した時や誰かの火の粉を被った時など、ストレスに直結するものばかりだ。


「確かに間違ってない。得体のしれない生き物を隣に置いている以上に危険な事はない」


 先生は一度肯定し、二度目には別の視点での思想を語ってくれた。


「だからこそ、ため込む必要がなくなる」


 やっぱり矛盾している。誰かに遠慮する行為は、ため込む行為に他ならない。


「気を遣う必要はどこにもない。大切な人に気を遣うのは、変な話だと思わないか」


 貝塚先生が話す論が正しいのなら、気を遣う行為を知らない私は、誰かを無意識に大切にしている博愛主義って事になる。


「君は本当に融通が利かないな。まるでシーケンス制御を受けているロボットだ」


 先生は呆れの溜め息を溢し、私が提供したコーヒーを静かに飲み干す。


「正解は一つとは限らない。考え方の数だけ、答えが存在する」


 何を言っているのか理解に苦しむ。どんな物事でも、答えは正しいか正しくないか、の二通りに分けられる。正しさが乗っている教科書の通りに生きれば、正しい人間になれる。


「今から口にするのは、冗談だ。真に受ける事もなければ、聞く耳を持つ必要もない。ただし、無駄だとは思うなよ。なんやかんだ、これは授業の一環でもあるからな」


 なら、口にする必要はないのでは。先生は私の言葉を無視して話を続けた。


「実に美味しいコーヒーだ。これを誰かと一緒に飲めたら、もっと美味しいだろうな」


 貝塚先生はわざとらしく表情を歪ませる。


 本当に時間を無駄にした。貝塚先生に相談した事を後悔する。


「そう嫌な顔をするな。ただの冗談だ。ただ次の言葉は真に受けろ。聞く耳も持て。これは君の苦手な道徳の授業でもあるからな」


 不可解に思いながらも、一度頷く。ろくでもない話なら追い返そうと心に思いながら。


「もし両親が数十年以上君の傍に居たら、きっと悲しさを理解していたかもしれない」


 全身に力が入る。


 葬式で質問した時に返ってきた回答は、悲しいから。


 何が悲しいのか問いかけたら、唖然として。


 学校でも同じだ。不要物を持ち込んだ学生を注意したら、強く反論される。友人やら、恋人やら、ファッションやら、聞くだけ無駄な言い訳を何度も繰り返された。


 訳の分からない感情に言葉。時には、怪我を負う事もある。


 正しい事をしているのに、間違っていると否定されるのは、どうしてだろう。


 そんな思いを脳裏に浮かべて、先生に質問する。


「どうして人は、感情に揺さぶられてしまうのでしょうか?」


「やっと興味を持ったな」


 貝塚先生は途端に笑みを浮かべて、キッチンの方へと歩いて行った。


 数分後、貝塚先生は戻ってくる。手には、マグカップが。中には、私の家のキッチンと材料を勝手に使って、作られたコーヒーが入っていた。


「教師であろうと、勝手に人の家の物を使用する事は、犯罪だと思います」


「まあ、飲んでみろ」


 不快に思ったが、先生の言葉に大人しく従った。これが教師の仕事なら、授業の一環である行動を否定できない。ゆっくりと貝塚先生の作ったコーヒーを口に運んだ。


「どうだ?」


「美味しくないです」


「辛辣な答えだ。それ以外に感想はないのか?」


「コーヒー豆を入れすぎて、味がだいぶ濃くなっています。その上、お湯に浸す時間が長いせいで、豆本来の味が損なわれています。後、砂糖の方が——」


「もういい……」


 先生は俯いて、頭を抱える。


「教えて下さらないのなら、帰ってください」


「待て、話はまだ終わってないぞ」


 追い返そうとするが、先生は動こうとしなかった。


「いいか、感じるから感情だ。教えられるのなら、とうに教えている」


「どういう事ですか?」


「これは教えられるような代物ではない。体ではなく、心に覚えさせる必要がある」


「心の覚えさせる必要がある……」


「春休みが終わったら、私の元に来い。愛を知れる場所を紹介してやろう」


 愛。軽蔑の対象になった言葉で、何度も言い訳に使われた言葉。


 これを知れば、納得がいくかもしれない。


 人がどうして悲しむのか。人はどうして強引にルールを破ろうとするのか。


     *


 静かに目を覚ます。


 真っ白な天井に光が指している。体は、どこか温かい。


 ここは、どこだろう。


 体を起こすと、布団を枕に眠っている斎藤君の姿が映った。


 もしかして、ここは斎藤君の部屋?


「よっぽど焦っていたのだろうな」


 辺りを見渡していると、扉から貝塚先生が姿を現す。


「こうして話すのは何年振りだろうか」


「一か月ぶりだと思います」


「今なら冗談の一つや二つは言えると思ったのだが」


 つまらなそうに貝塚先生は呟き、そのまま私の寝ているベッドに腰かけた。


「愛は知れたか?」


「……はい」


「弱弱しい返事だな。何か思う事でもあるのか?」


「……きっと後悔しているからだと思います」


「後悔か」


 私は愛を知る為に、恋愛アニメ研究部に入った。


 その結果、斎藤君に迷惑をかけてしまった。


 もし私が斎藤君に愛を教えてもらわなかったら、彼を困らせる事もなかったのに。


「由紀に似たな、楓花」


「全く似てないと思いますが」


「私から見たら、猿モノマネしているようにしか見えないぞ」


 楽し気に貝塚先生は笑う。


 私と斎藤君が似ているわけがない。


 斎藤君は明るくて、どんな相手にだって上手く接する事ができる、優れた人だ。


 冷淡で協調性のない私とは大違い。天と地の差、月とすっぽんくらい離れている。


「恋愛アニメ研究部は、楽しいか?」


 ゆっくりと頷く。


「恋愛アニメ研究部は大切な場所です」


 どうして斎藤君が恋愛アニメ研究部の廃部を恐れていたのか、今ではよく分かる。


「だからこそ私は、どうしたらいいのか分かりません」


「だから由紀を避けているのか?」


 貝塚先生の全て見通しているような言葉に、体が硬直する。


「安心しろ。由紀には話してない」


「……本当ですか?」


「ああ、これを私が話すのは間違っているからな」


「……っ」


 貝塚先生が何を言いたいのか、分かる。


 ゴールデンウィークが明けてから、色んな人から様々な嫌がらせを受けた。


 今までの自分の行いを省みれば、当然の報い。


 今まで私はたくさんの人を否定してしまった。大切な人への贈り物を没収したり、大切な人と過ごす時間を私が奪ったり。私は、自分の正しさを押し付けていただけだった。


 だから誰かが私へ報復する気持ちを、今は肯定してしまう。


 私の行動のせいで、引き裂かれたカップルだって少なからず存在している。被害が出た後に後悔しても、許してもらえる訳がない。自分の愚行に、今は後悔ばかり。


 全て私が悪い。だから全部、受け止めようと思っていた。


 恋愛アニメ研究部は、最高の場所。今までにない感覚をたくさん知れる、成長の場所。誰も巻き込みたくない。関係のない恋愛アニメ研究部の仲間に火の粉を飛ばしたくない。私のせいで、あの幸せが詰まっている空間を壊したくない。


 何度も葛藤した。斎藤君や他の部員からの言葉に反応したかったけど、最悪の事態を考えれば返すのは善策じゃないと、自分の腕を押さえて何度も止めた。


 でも、それは違った。


 私を背負う斎藤君の苦しんでいる姿を見て、分かった。私は間違っていた。


 私の取っていた行動は、斎藤君を最も傷つける行動だったんだ。


「私からは以上だ」


 その言葉を最後に、貝塚先生は部屋を出ていく。部屋が静かになった。


 壁に引っかけてある時計を確認すると、二十時。私は長い時間、眠っていたようだ。


 額を触ると、とても熱い。体がだるくて、首を動かすだけでも息切れを起こす。


 斎藤君は私の事を、とても気にかけてくれた。誰よりも優しくしてくれた。


 それなのに、私は自分勝手に彼を拒絶した。


 自分の行動を振り返れば振り返る程、斎藤君に合わせる顔がない。


「目を開けると、そこにいたのは辛気臭い顔を浮かべる風紀委員長だった」


 声のする方に顔を上げると、彼の顔が映った。


「おはよう、って言っても、もう夜だけどな」


「寝起きなのに、元気ね」


「バーカ。高校生ってのはな、深夜にテンションが上がるモノだろ」


「テスト前日はテンションが低くなるって貴方、言っていたじゃない」


「……おいおい、寝起きの奴に現実を突きつけるなよ。テンションが下がるだろ」


「もう下がっているじゃない」


「また寝ようと思いました。ハロー、マイドリームワールド」


 斎藤君は再び布団を枕にして目を閉じる。


 彼は一切、目を曇らせてなかった。私に様々な事を教えてくれた斎藤君そのものだった。拒絶されると思っていたから、その意外な斎藤君の姿には驚きを覚えてしまう。


「その、私を運んでくれて、ありがとう」


「気にするな。鵜乃乃よりもおっぱい大きいくせに、軽かったし」


 デリカシーの欠片もない言葉を躊躇なく口にする斎藤君。しまいには、右手の親指を上げながら、笑い始めた。彼は変わらず下品だった。


 そんな彼に、今は安心を覚えてしまう。


 今、彼と話して理解した。


 私は斎藤由紀という人の事を、大切に思っている。


 だから、話すべきだと思った。これ以上、私のエゴに巻き込まないためにも。


「あのね、斎藤君。私はゴールデンウィークが終わって、すぐに嫌がらせを受けたの」


 彼の表情が険しくなっていく。


 その変化に思わず口を閉じてしまいそうになる。


 緊張しながらも、私は話を続ける。


「本当はね、嫌だったの」


 だんだんと言葉が震えていく。


 けれども続ける。片言になりながらも、声を振り絞る。

「でも、言えなかった。もし言ったら、斎藤君に嫌われると、思ったから」


 これが私に起こった事の顛末。


 言い終えた時には、手が布団を強く握りしめていた。


 やっと言えた。


 ……いいや、まだ言えてない。これから、どうしたいか、まだ言えてない。


 中途半端で曖昧なままだった。


 だから、ちゃんと伝えないと……


 これ以上、巻き込まない為に、恋愛アニメ研究部を辞めると、伝えないと……


「だ、から……」


 強く瞼を閉じながら、下を向く。


 続かない。続けようとするけど、言葉が続かない。


 知らなかった幸せを、知った。この場所が大切だって、知った。


 離れたくないって、心が拒絶する。終わりにしたくないって、涙が訴える。


 感情というのが、ここまで融通が利かないなんて知らなかった。


 私は、私は——


「よく言った!」


 終わりのない葛藤を抱いている中、大きな声が私の耳朶を打った。


 顔を上げると、不敵の笑みを浮かべる彼が目の前に迫っていた。


「だから僕も、よく言ってやる!」


 斎藤君の人差し指の先が私の額に触れる。


「何気ぃ遣ってんだよ、バーカ!」


 耳に突き刺さる声。


「三梨、お前は何を見てきた? 鵜乃乃や梓間が気を遣ったところを見た事があるか? ないだろ? 僕を含め、自分に正直に生きているからな!」


 彼の目は私から一切、視線を逸らさなかった。


 おかげで、よく見えた。私を軽蔑しなかった貝塚先生と同じ目が、はっきりと見えた。


「僕に迷惑をかけたくないなんて考えるな。僕は三梨にたくさん迷惑をかけてきたが、申し訳ないとか、大丈夫かな、とか思ってないからな」


 斎藤君は躊躇いもなく、言ってくれた。


 酷く大きな声だった。音楽だったら、不協和音だったに違いない。


 でも、心地よかった。心の何かが吹っ切れたように、だんだんと楽になっていく。


「……何よ、それ……少しくらいは気を遣いなさいよ……」


 涙を流しながら、冗談交じりの言葉を微笑と共に伝える。


 今なら貝塚先生の言葉の意味が分かる。気を遣うのは間違っている。


「斎藤君。私、まだ恋愛アニメ研究部にいたい」


 だから素直に自分の想いを告げる。


「でも、今は苦しいの」


 数多に受けた、嫌がらせ。


 今までの私の行いから、何も否定できなかった。ただただ受け入れるしかなかった。


 私には権利がない、そう思っていたから。


 だけど、もし許されるのなら、私は言葉にしたい。


「助けて」


 都合の良すぎる言葉。昔の私が聞いたら、間違いなく注意していた。


 本当にこれが正しかったのか、自分の中で迷走する。


 そんな不安を斎藤君は一瞬で、かき消してくれた。


「ああ、分かった。恋愛マスターの僕に任せろ」


 心強い言葉に、心強い笑顔。


 出会った時は他の生徒と変わらず、間違っている人だと思っていた。


 そんな彼が、今では私にとって最も大切な人になっている。


 斎藤君は貝塚先生と同じで、私を蔑んだ目で見なかった。


 斎藤君は何も知らない私を気にかけてくれた。


 私に寄り添ってくれた。ずっと心配してくれた。


 だから、私はいつまでも斉藤由貴という人間についていきたい、と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る