1-5
三梨の分からない事は、どれも初歩的な事ばかりだ。三梨が本当にこれまで誰かの事を好きになった経験がないのが分かる。
一つ一つ、僕の言葉で伝える。
伝わっているのかは、三梨の反応を見れば分かる。彼女は気難しそうに首を傾げるばかりで、理解しているようには見えなかった。
それでも真剣に耳を傾けてくれた。違う世界の知識に食いついてくれた。
だから続けた。それ以上の理由を考える事なく、僕は三梨の教師になった。
「弱っている奴には、手を握って上げなさい」
「それは、どんな意味があるのかしら?」
「きっと耐えられなくなって、泣き始めるから」
優しくされたら、人はその人を好きになる。それは、あくまで一例だが。
彼女は問う。涙とは何か、と。
涙は、感情を大きく揺さぶられた時に勝手に流れてしまうのだと。
痛いと思うのも、一つの感情だ。苦しいからこそ、そこで涙が流れていく。
三梨は綺麗な字で綴っていく。真っ白なメモ帳に、ボールペンの黒が浸透していく。
メモを捲っては、捲って。手のひらサイズのメモ帳のページが何枚も黒に染まっていく。
こうして誰かに何かを教えるのは初めてかもしれない。思えば、いつも教わってばかりだった。去年の恋愛アニメ研究部での日々を、頭の中で思い返す。
ちょうど去年のこの時期だったか。孤独を謳う僕は、誰かの視線を気にしてばかり。どんな事もネガティブに考えていた。怖がってばかりで、自己嫌悪に陥っていた。
そんな時だったな、彼女が声をかけてくれたのは——
「斎藤君?」
三梨の声で、我に返る。
「悪い、ボーっとしてた」
僕の言葉と共に、部活終了のチャイムが部室に鳴り響く。
窓を眺めると、オレンジ色だった太陽が、茜色の夕日に変わっていた。
「今日は、もう終わりにしましょう」
三梨はメモ帳を鞄にしまっては、帰りの支度を始める。
「少しは分かったか?」
「斎藤君には悪いけど、手ごたえはなかったわ」
それもそうか。今まで知らなかった事を一日で理解するなんて無理難題すぎるし。
「でも、ありがとう。私の為に時間を使ってくれた事、感謝しているわ」
「……っ。お礼は言えるんだな」
「貴方は私の事を何だと思っているのかしら?」
「血も涙もない、怖い、怖い、風紀委員長だと思っていました」
「失礼な人ね」
彼女は変わらない。お礼の言葉も、冷たい言葉も、一定のトーン。せめてお礼くらいは、笑顔で口にしてほしいものだ。今更、笑顔で言われても、逆に違和感を覚えちゃうけど。
そのまま三梨と部室から出ていく。
「よし、一緒に帰るか」
「えっ?」
三梨は足を止め、怪訝そうに僕を見る。何か変な事でも言ったのだろうか。
「どったん? 帰らへんの? うち、はよ帰りとうなんやけど」
「……貴方って本当に変な人よね」
「何か気になる事でも? あっ、失礼。方言が出てしまいました」
「それは、どこの方言かしら……? そうじゃないわ」
三梨は目を細めて、明後日の方向へと顔を逸らした。
「どうして貴方は私と一緒にいても、嫌な顔一つしないのかしら?」
三梨は自身の黒い髪に触れながら僕に問いかける。それは、今までにない声音。怯えているようにも聞こえ、自信がないようにも聞こえた。
「鵜乃乃さんも同じ。私を相手にしても変わらず、あの調子」
「鵜乃乃は、どんな奴が相手でも差別しないからな」
「なら、貴方は? 貴方はどうして私に対して嫌悪を見せないのかしら?」
微かに声を震わせる三梨。急にメンヘラみたいな事、言い始めたな。
「興味ないからだ」
別に嘘を吐く必要がなかったので、本音で答えた。
ピンときてないのか三梨の表情は曇ったまま。
理解しているのか不安だったので、今度は分かりやすい言葉で伝える。
「知らない奴が三梨を悪く言っていようが関係ない。知らない誰かの評価程、あてにならない事ってないだろ。僕は、僕の思った事を信じているだけだ」
三梨はゆっくりと顔を上げて、僕を見る。無表情の中に、少し柔らかさが見せた。
「……貴方って、やっぱりひねくれているのね」
「それは僕が一番、理解しているさ」
おかげで学校には二人しか友人がいない。一つ下の後輩である梓間忍と同級生の鵜乃乃雛菜。悲しい事実に、我ながら自嘲したくなる。
でも寂しいとは思わない。今の日々は、楽しくて、楽しくて、堪らないのだから。
「貴方にとっての私の印象は最低だったと思うのだけど」
「ああ、最低だった。教師の犬としか思ってなかったし」
「そう……」
「過去形だ。今なら、少しだけ分かり合えると思っている」
三梨の眉が怪訝そうに揺れる。
「…‥どうして、かしら?」
「恋を真面目に研究する奴に悪い奴はいない。つまり、お前はもう、こっち側の人間だ!」
いい笑顔をトッピングして、不可解な面持ちの三梨を指差す。
反応に困っているのか、彼女は首を傾げるばかり。言葉の真意を理解してないのだろう。
でも、これが本音だし。
「やっぱり貴方はおかしな人だわ」
三梨にだけは言われたくない言葉だな。
「って事で、恋愛アニメ研究部に入る事、決定な」
「えっ、まだ入るとは言ってないけど」
「言い忘れていたが、ここでアニメを観た者は強制入部というルールがあーる!」
「そんな話、聞いてないわ」
「だって今、作ったもん! フハハハハ!」
盛大に高笑いする。もうここまできたら、勝ち確だ。
「……貴方には申し訳ないけど、お断りするわ」
暫くの沈黙の後、断られる。忙しい彼女に部活の時間を割く余裕はないのだろう。
まあ、逃がさないけどね。言っただろ、勝ち確だと。
「入部したら、もっと知らない事を知る事ができるぞ」
「……っ」
僕の言葉に、三梨は反応を示す。
あんなに真剣な顔で僕の解説を聞いていたのだから、食いつくとは予想していた。
「……分かったわ。忙しくない時に、顔を出す程度でいいかしら?」
観念したのか、やっと三梨は入部を口にしてくれた。
なんか、すっごく悪役にでもなった気分だ。僕は別に悪い子じゃないからね。
「よし! 今日は入部記念という事で、今からファミレスに行こう!」
「ごめんなさい。今日は予定が入っているの」
「えー、もっとお話しよーよー」
「どうしても外せない用事なの。先に失礼するわ」
そう言って、三梨は速足で去っていく。
今の流れは絶対に一緒に帰る流れじゃん! アニメだったら、親睦を深めるシーンだぞ。
せっかく駄々をこねたのに断るなんて。鵜乃乃だったら、一緒に帰ってくれたのに。
なんか虚しくなってきた。下校時間も近いし、僕も帰ろうかな。
「私は常々思う、どうしてすぐにお金はなくなるのだろうかと」
「僕も常々思います、どうして貝塚先生が姿を現したのかと」
その不快感を覚える声には、思わずため息が零れる。
振り返ると、廊下の壁に縋っている貝塚先生。頬がアルコールのせいで、赤みを帯びていた。緩みきって顎が外れたのか、笑顔が酷くたるんでいた。そして派手に乱れた服装。
「三梨に見られたら、即説教食らいますよ」
「何も問題はない。楓花がいなくなったタイミングを見計らって、ここに来たのだからな」
「策士ですか」
貝塚先生はポケットから缶ビールを取りだしては、豪快に飲み干した。
「教師は生徒の手本になる必要がある」
「それ、一気飲みした直後にいう言葉じゃないですよ」
「酷い生徒だ。せっかく差し入れを持って来てやったのに」
「お酒じゃないですか。何を考えているんですか?」
「教師は生徒の手本になる必要がある。そこで私は考えた。生徒みんな、私のようになれば面白くねって」
「この教師、もうダメだ!」
「待て、話は最後まで聞け。これは、本当に大切な話だ」
貝塚先生は寄った顔をしながらも真面目な表情を浮かべる。その急な変化には、驚かずにはいられない。思わず耳を傾けてしまった。
「私は、もう一つ思ったのだ。みんな私のようになれば、争いなくなるくね?」
「聞いて損しました。帰ります」
下校時間も過ぎているので、速足で帰ろう。
「待つんだ。まだ話は終わってないぞ」
貝塚先生は僕のリュックを掴んで、引き留める。すっごく強い力だ。このまま強引に進んでも逃げられそうにないので、大人しく話を聞く事にした。
「聞いて驚くなよ」
「溜めはいいので、早くしてください」
どうせ下らない話だろう。億劫な気分で、貝塚先生の言葉を待った。
「雛菜が今日、春休みの課題を私に出してきたんだ」
ほら、下らない。今更、春休みの課題の話——今なんて?
「もう一度、言っておく。雛菜が今日、春休みの課題を私に出してきたんだ」
「マジか!」
吃驚せずにはいられなかった。
だって、あの鵜乃乃だぞ。
今まで提出物を出してこなかった彼女が、春休みの課題を終わらせたんだぞ。
何か悪い物でも食べてしまったのだろうか。なんか、すっごく心配になってきた。
「私はこれを歴史の教科書に乗せるべきだろ思っている」
「同じく、僕も乗せるべきだと思います」
二〇二〇年、鵜乃乃雛菜の改新。内容は、春休みの課題を提出した。
理由を訊くべきだろうか。いや、鵜乃乃が何かを考えて行動するとは思えない。
「それで私は先ほど歴史の教科書を一見していた」
なるほど。だから、職員室の机に歴史の教科書が置かれていたのか。
「やっぱり戦争ばかり乗っていたな」
なるほど。だから、変な戯言を吐いたのか。
「後、お酒飲みたくなった」
なるほど。だから、缶ビールを飲んでいたのか…………流石にそうはならなかった。
「話は以上だ。もう帰っていいぞ」
貝塚先生は満足したのか、手を離してくれた。
「一つ、訊いてもいいですか?」
「何だ? 勉強の話なら、違う先生にしてくれ」
「違います、三梨の事です。どうして三梨に部室に行けと言ったんですか?」
鵜乃乃が三梨に言ったのなら、まだ分かる。僕と同じように『恋日』の魅力が伝わらなかった事、すっごく悔しがっていたし。
だけど、どうして貝塚先生が? 何か理由がある筈だ。
貝塚先生は首をメトロノームのように揺らしながら、僕の問いに答える。
「勿論、廃部を防ぐためだ」
「えっ……」
「お前だけが、あの場所を大切に思っているわけじゃないぞ」
崩れるように貝塚先生は床に座った。
気だるげに語る言葉は、僕の胸を熱くした。
「貝塚……あんた……」
「先生をつけろ。一応、お前の担任でもあるんだぞ」
「失礼、ついやっちゃいました」
戯言を口にしているが、内心では感動していた。
貝塚先生が廃部を阻止しようと行動してくれた事が素直に嬉しかった。今までロクな事をしてこなかった貝塚先生が、今ではまともな人間に見えた。
「恋愛アニメ研究部の顧問から外れたら、運動部の顧問をしないといけなくなるしな」
前言撤回。私利私欲で動いている獣でした。
「そうだ、紗栄子(さえこ)さんは元気か?」
「突拍子もないですね。元気だと思いますよ」
「そうか、良かった。また酒でも一緒に飲みに行きたいものだ」
生徒の母と酒を飲みに行こうとするとか、この教師カオスすぎるだろ。
「無理だと思いますよ。仕事で帰り遅いですから」
「深夜に君の家に凸ればいいという事か」
「生徒の家に凸ってくるな」
この教師は基本的に変な事しか考えない。鵜乃乃と同じで頭のネジがバクっている。
「三梨の勧誘はした。後は、お前に任せたぞ」
満足したのか、貝塚先生は床にて眠りについた。廊下で寝る教師って、どうなん?
起こすのも面倒なので、そのまま帰る事に。お休み、先生。
とりあえず廃部問題は解決した。これで安心してゴールデンウィークを迎えられる。
安堵の気持ちを胸に、学校から出た。
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