第8話
吾輩は目が覚めた。するすると長老の尾が離れていく。
空の器に水が満たされるが如く意識がはっきりしていく。
目の間には長老しかおられぬ。周りには誰もいない。辺りを見回してもそれほど時間は経ってないように見受けられた。
きょろきょろと確かめる吾輩に長老のお声がかかる。
「戻ったかね」
先ほどまでのが長老の言われるヴィジョンというものであったのだろう。
「はい、まさしく夢心地でございました」
「そうかね。言っておくが儂はお前さんが何を見てきたのかはわからん」
小首をかしげながら長老は微笑んだ。
「だが、それが何なのかは自身がよくわかっているはずだ」
「はい、確かに」
「吾輩の前世を体験してきました」
「左様か。色々な中で強く願った、又は思ったことがあったかね」
あれが何なのか。覚醒した吾輩にはよくわかる。
あれは吾輩の前世である。こちら側に来る前の自分自身であった。
なれば今のこの姿は因果が巡ってきたということであろうか。
長老の言葉をかみ締めゆっくりと反芻する。
見てきて聞いて感じたこと、無味乾燥な毎日のなかで思ったこと。
吾輩は猫になりたいと思っていた。それは化身となって成就している。
さすればやはりあれであろうか。
「人を救いたいと思いました」
口に出してはみたが大それた想いではなかろうか。
まさしく死の間際の世迷い言譫言であろう。なんだか気恥ずかしくなってくる。
ここに二匹しかいなくて良かった。他に猫がいれば羞恥のあまり遁走していたことであろう。
だが長老は侮ることなく微笑んでいらっしゃった。
「想いは形となりそして武器となる。その気持ちをしかと発揮したまえ」
「それは善行に勤めよということでしょうか」
「良人とは親しくしたいものだが少し違うな。そこにスキルの礎があるのだよ」
スキルとは何なのか。実は長老にもよくわかってないらしい。
しかし強い思いは発現のきっかけになるのだという。
我々は喋りたいと思えば口を開く。何かを獲りたいと思えば手を動かす。どこかへ行きたいと思えば足を動かす。
思考と動作は繋がっているのだという。
「こうありたいと思った事を形と成す、それがスキル。資質と言い換えれば宜しいかな」
「資質でございますか。吾輩にはまだスキルをどうこうする考えがわかりません」
「お前さんはまだ自分の足で立ったばかり歩くにはまだまだ時間がかかる。しかして立てるならば必ずや歩けるようになるだろう」
「いまだ方向さえ定まってない次第です」
「それで良い。背を押せばお前さんは必ずや己の行きたい方向へいけるようになるであろう」
吾輩は長老のお話を真摯になって耳を傾けていた。納得は出来ているのだが理解はまだ追いついていない。
実のところ正直に言うと煙に巻かれた気がしている。
吾輩はここにくればスキルを使えるようになると思っていた。
しかし長老は触りを教えてくれただけである。スキルの発動をどうやるかは教えてはくれぬ。
人を助けたいと思う。それをスキルにどうつなげるかは今だ霧がかかっている。
まだまだ吾輩には理解が足りぬと感じた。
「吾輩は立ったばかりでふらつき歩くことままなりません」
「そのふらつきこそが前へと進む原動力となる」
師はどうも厳しい。指南書などは渡してくれないようである。
しかし仰っていることもわかる。
スキルを使うにいちいち長老の手を煩わせる訳にもいかぬ。
長老には長老の時間というものがあるのだ。
こうやって会ってくださるのも向こうの勝手。
なればこちらの勝手にもつき合わせる訳にはいかぬ。
「では精進してみようと思います」
「頑張りたまえ。お前さんが強く念じたこと、それを貌と成すのだ」
会談は終わり二匹がやってくる。
吾輩は至極礼を述べてその場を去った。
クロが道中吾輩に向かって聞いてくる。
「どうでい。スキルは使えるようになったか?」
「いやまったく。話を聞いただけだよ」
別段隠す内容でも無かったので長老と話したことをそっくりそのまま伝える。
クロはふむふむと頷いてなんでえと口を開いた。
「あれしろこれしろと教えてくれる訳じゃなかったのか」
「そうだね。スキルを使うための心持ちと言ったところかな」
「そいつは悪いことをしたな」
項垂れた顔をしてクロが吾輩に謝罪する。
正直こういう態度に出れる輩とは思わなかったので驚いた。
随分と大人しい面を見せている。
こういう格好で会ってたら吾輩はクロのことを誤解していたであろう。
「何故謝るのか。君が気に病む必要はないだろう」
「俺はスキルを使えるようにしてやるとテメエに言ったんだ」
「ああ言ったね」
「じゃあ使えるようにならないと俺がテメエを騙したことになるじゃねえか」
眉を逆八の字に曲げてクロが気炎を吐いている。
兄貴風というか親分肌というかどうも彼は子分に下手を打たせたくはないらしい。
そのお節介が今は有り難い。
「強く願えば望みは叶うと仰られたからそのようにするしかあるまい」
「俺は魚が欲しいと常々思ってるけど空から振ってきたことは無いぞ」
「それはそうだ。空から振ってくるはずがあるまい」
「スキルというのはそんなんじゃないのかい」
さかんにいきり立っている。このまま返して向こうに噛みつきそうであった。
吾輩のことを自分のことのように怒ってくれるのはまこと結構ではあるが、どうも矛先が長老を突っつき始めそうになりそうだったので話題を変えることにした。
「君の球雷はどういう心持ちでやるんだい」
「そりゃお前、なんだこの野郎って心持ちよ」
「怒りとか憎しみとか、そんな心持ちかね」
「いや別に憎くはねえな。なんだこの野郎って感じよ」
どうやら彼には喜怒哀楽のほかになんだこの野郎という感情を持ち合わせているようである。
これには吾輩も参考に出来ないのでもう少し聞いてみることにする。
「なんだこの野郎とは何かい。相手に向かって放つのかい」
「うん? そうだな。ネズミ共にむかってぶっ放すのさ」
「そうすると何だこの野郎とは鼠野郎ということかね」
「ネズミはネズミだろ。野郎なんざ付ける必要がない」
「そうすると吾輩にみせようと思った時も野郎をつける必要が無かったのかね」
「なんだお前。そういやそんなこともあったな」
クロが大きく笑う。つられて吾輩も笑った。
ともかくクロ殿が言うことには、球雷は相手に感情をぶつける気持ちで放つのだという。
相手にそれを当てたいと気を膨らますと己も膨れ放電が起こるのだと。
あとは感情の矛先を向ければそこへと飛んでいくそうだ。
「長老と君との話を含めれば感情の発起は重要そうであるな」
「お前はのんびりしてそうだから難しそうだな」
「そう見えるかね」
「ああ、なんか他人行儀というか引いた感じがするな。もう少し引いたらメントルみてえにいけ好かなくなるから止めておけ」
話しあう機会が無かったがメントル殿は達観した感性をお持ちのようである。
感情に手足がついたクロ殿とは相性が合わなさそうだ。
では自分はとふと考えてみた。
別に他人に対して遠慮はしていないとは思うのだが、一歩引いた感じと言われればそうかなと思う。
これは吾輩が余所者だからということに起因しているのやもしれぬ。
思えば宿屋で居候していたときも最初は一階に下りるのさえ躊躇していたものだ。
今は我が物顔に振る舞ってはいるがこれは首輪のおかげである。
もう少し我儘になれとクロ殿は仰っているが、生来の気質はどうにもならぬ。
ここまで考えていやいや待て待てと思い返した。
吾輩は一度は死んだ身である。
前世はそうやって何も行動しないまま死んでいったのである。
未練を残した吾輩が最後に思ったのが誰彼を救いたいと思ったのではないか。
その仏性が何の因果かこの世に生を受けたもうた。
古来の人は獣に仏性は無いと言い放ったが吾輩はそれは違うと今なら言える。
「なんでえどうしたお前。なんか難しい顔してんぞ、大丈夫か」
どうやら考えごとが顔に出ていたらしい。
吾輩はいやいや大丈夫と言葉を返した。
「それは難しくもなるだろうさ、今だ吾輩はスキルというものが分からぬ。だが君のおかげできっかけが掴めそうだ」
「そうか! そいつは良かった! 俺も骨を折った甲斐があったというものだな!」
かっかっかとクロはまたしても笑う。同じく吾輩も笑った。
「そういえば君も長老に会ったことがあると言ってたね。その時はどうだったんだい」
「うん? そうか。あんときは何だったかな」
どうやらクロが会ったのは結構な前らしくうんうんと唸って思い出そうとしているようであった。
記憶というものは重ね重ねられて潰れていくものである。
吾輩も前世の記憶をついぞこの前まで思い出すことはなかった。
彼もそのように奥へとしまいこまれているのであろう。
噴水辺りまでやってきたがクロはまだ思い出さない。
少し一休みしようかと吾輩は声をかけたが、いや待て今思い出すと言って聞かない。
「別段すぐに聞きたいわけじゃない。思い出せないなら次会ったときで良いよ」
「馬鹿お前、お前が話したのに俺が話さない訳にはいかねえよ」
「でも話せないのであろう」
「話せないんじゃない、口から出かかって言えないだけだ」
それを思い出せないというのだが彼はどうしても言って聞かない。
どうも頑固意固地な面があるようだ。肉球のように頭を柔らかくしてはどうだろうか。
それは吾輩も同じであろう。
スキルを打ちたいからと言って雑念が入ればきっと使用に支障をきたすに違いない。
クロの球雷も想像するに雑念を放つ訳ではなかろう。
一念岩をも通すという言葉もある。
まずは一度帰ってよくよくと考えることにしよう。
***
あれからまあまあちょっと待てというクロ殿の引き留めを固持して吾輩は独り宿屋に居る。
誰かを助ける。
この一念をどうするかということをうつらうつらと考えていたのだが、改めて思い返すと難しいものである。
まず助けると言ってもその域が広すぎる。
飯を作る。掃除をする。運び物をする。
窓から眺める光景一つとってもそれは何かしら誰かの助けになっているものだ。
しがし吾輩はそれらを見てもスキルが発動出来るとはどうも思えないのだ。
小間使いではやる気が出ないということもある。第一この身では難しい。
救いたいという信念を貫くには街中では困難そうだ。
こども共に捕まれば尚更スキルどころではなかろう。
さあどうしようかこれからと悩んでいるとどうやら主人が帰る時間がきたようであって扉を開けて入って来た。
吾輩が窓辺から下りておかえりと鳴くすると抱えられてただいまと声をかけられた。
何かしらの臭いが鼻をくすぐった。今回もどこぞで冒険をしてこられたのであろう。
具足を脱いでくつろいだ格好になった主人は吾輩をバスケットに入れて出かける。風呂に入るためである。
仕事の後の風呂は格別である。前世を思い出して吾輩もお疲れ様と声をかけたくなる。
吾輩はペットの身である。獣風情と一緒に浸かるのを良しとしない方々はもちろんいる。
だから主人が贔屓にしている浴場は同伴可能で割高だ。
その分稼ぎは減るのだろうが主人は一向に気にはせぬ。
これが飼う者の心意気というものであろう。まったくもって頭が下がる。
その時ふと、吾輩の脳裏に雷光がよぎった。
これではなかろうかと。
吾輩ははっきり言ってこの御方に恩義がある。この居候の身分になってから不足を覚えたことはない。
安楽なぬるま湯生活を送ってきたがそろそろ身を脱するべきであろうか。
他者の助けとなる前にまずはこの御方にご奉公するのが筋であろう。
道中吾輩は主人を見上げて考える。
この世界に来たときも思うままに行動して主人の一助となった。
なれば今度は信念を叩きつければスキルと成るのではなかろうか。
少なくとも宿屋の二階で安穏としているよりもよっぽど目がある。
「どうしたのクーロ。何か良いことあった?」
主人の問いかけに吾輩は勿論と答えたのであった。
言葉は理解されない。しかして主人はそれを聞き吾輩に微笑みかけくれたのであった。
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