第7話
ぬるま湯に浸かったような感覚が吾輩を包んでいる。
身体が重い。目を閉じていても周りは見えている。口は開いてないのに勝手に喋っている。
止まっているのに身体は動き情景はゆっくりと移ろいゆく。
これは夢である。吾輩は夢を見せられているのである。
夢の中で吾輩は一人の人間となっていたのである。
人間となった吾輩は鉄の檻に乗せられて何処かへと運ばれていった。
周りには吾輩と同じように沢山の人がいた。
誰も声を立てぬのはこれが夢だからなのかもしれない。
どうも凄い速さで檻は動いているようで窓を見やれば景色はびゅんびゅんと後ろへ遠ざかっていく。
吾輩はこの情景に見覚えがある。だがそれがどういう物かは出てはこぬ。
確かに覚えがあるのだがそれがなんなのかは説明出来ぬ。
これが既視感というものであろうか。
吾輩は檻に揺られながら小さい板を眺めていた。
檻の中では敷き詰められた人でぎゅうぎゅうであり、手ぐらいしか動かすことは出来ないのである。
板には小さな景色が浮かんでいた。それを指で動かせば別の景色へと変貌する。
どうやら吾輩は夢では魔法が使えるようであった。
その他の幾人も吾輩と同じように小板を触っている他人がいる。
どうやらこの世界もこちらと変わらず魔法使いがそれなりにいるようである。
頭上から天啓が降り注ぎ檻の扉が開かれた。
人々はそこから我先へと外へ出ようとしはじめる。
吾輩もその人波に揉まれて外へと押し出される。
吾輩は今度は自分の足でゆらゆらと歩きだしたのだった。
二本の足で歩くのは奇妙なものである。
よくもまあ後ろ足だけで平行を保てるものである。
相変わらず目と手は小板にむけられていた。
にも関わらずすれ違う人とぶつかる様子はない。気配を読んで動く様は達人のようでもあった。
吾輩はやがて大きな建物へと入っていった。
宿屋より遙かに大きく硬そうな何かで造られている。
吾輩はこの情景を知っている。しかし言葉が出てはきやせぬ。
吾輩を包む温かさと柔らかさが吾輩から思考を奪いただ流されるままとなっているのである。
その建物に入り吾輩は椅子に座った。目の前には机がある。
吾輩はそこへ座って今度は少し大きな板を開いた。
椅子も机も板も木や金物とは違う肌触りがあった。
吾輩はそれに覚えがあるのだが茫洋とした心持ちがその答えを出すのを許しはせぬ。
吾輩は夢心地に作業へと没頭していた。
幾人かは吾輩に話しかけてくる。それにうんざりしながら手を止めて吾輩は返事をする。
どうも吾輩はそこそこの地位に就いているようであった。
しかるにその地位にはどうも不満のようで、責任と所業からは逃れたいようであった。
陽が高くなり昼になろうとも、夢の中の吾輩はそこを離れようとはせぬ。
片手で板を叩き片手で飯を頬張る。
なぜにそのように頑張るのかは理解に苦しむ。夢の中の吾輩は休息を知らぬようであった。
主人も激しい稽古をするときはある。だが休息はしっかりと取る。
人の体力には限界があるからだ。
何故このように酷使するかはまったく理解出来ぬ。
休めるなら休もうと試みたいのではあるが、吾輩の身体はそれを許しはしなかった。
ただ椅子に座って作業を続けるのみである。
陽が落ち夕暮れになろうとも、夜になろうとも吾輩は席を立たなかった。
ようやく席を立ったのは他の人が居なくなってしばらくしてからである。
外に出ればこのような時間だというのに人をまばらに見かけた。
もしかしてこの世界の人間は疲れというものを知らぬやもしれぬ。
しかし吾輩は夜空を見上げて大きくため息をついた。
他の人々はいざ知らず、吾輩は疲労を感じているようである。
吾輩はまた檻へと入っていく。ゆらりゆらりと揺さぶられながら元の場所へと。
そうして狭い寝床へ倒れるようにして眠った。
場面が早回しで切り替わっていく。
次の日もその次の日も、そしてそのまた次の日も、吾輩は同じように行動していった。
同じ光景かと思いきや細部は少々違っていた。
同じような日の繰り返し。それがどんどんと加速し、吾輩は吾輩を見せられる。
吾輩の前に吾輩が立ち、吾輩はそれをなぞるように動いていく。
吾輩の後ろに吾輩が立ち、吾輩の跡をなぞるように吾輩がついていく。
加速していく情景はやがて、吾輩を一本の紐のように変化させていく。
変わらぬ世界の中で吾輩は昨日も明日も変わらぬように動いていく。
まるで大きな機械に組み込まれた部品のようである。
ためしに大きく離れてみれば、広がる世界の中でちっぽけな輪っかが現れた。
世界を縮小してみれば吾輩は血液の中を蠢く一滴に見えるのやもしれぬ。
怒りも憎しみも無い、虚無の世界がそこにあった。
しかしそんな中にも感動があるらしい。
僅かばかりの感情の揺れは小さな光となって紐を点々と輝かせていった。
その光点に興味を持った吾輩は、それに近づいてみることにした。
近づくにつれ世界の時間は落ち着きを取り戻し、再びゆっくりと進みだしたようである。
小さな板に写る猫たちの光景。
吾輩はどうやらそれに安らぎを見いだしているようであった。
板を触っている時は一日の中では僅かばかりの時間である。
しかしその幸福はそれ以外の時の虚無を耐えうる光を発していた。
光は吾輩の胸に宿り温かみを灯す。
それが吾輩に生きる意味を与えてくれるのだ。
生まれ変われたら猫になりたい。猫になって楽に暮らしたい。
そう吾輩は人知れず吐露していたのであった。
おそらくここは人界ではなく獄界なのであろう。
改めて周りを見回せば吾輩と同じように何かを諦め労苦に勤しんでいる者たちばかりである。
この責め苦から解放されたい。しかしどうして良いかは誰も分からぬ。
ただただ現状に甘んじ、今日も納得のいかぬ労役を勤めて僅かばかりの光明によって糊口を凌ぐばかりである。
くり返す日々にその光が点々と光るのであった。
いつものように深夜帰宅する吾輩の足が止まった。
眼前にうつるは一匹の猫であった。疲労が見せる幻覚ではなくそれは確かに存在していた。
いかな奇跡か吾輩がそばによっても猫は逃げる素振りすら見せない。
この高楼砂漠に住まう生物は誰彼問わず思考が鈍ってしまうのであろうか。
精巧な絵ではなく本物がそこにいた
道の向かい側に猫はいる。それは吾輩と猫の隔絶された距離を表わしていた。
手が届かぬと思っていた光が彼岸へと鎮座すましているではないか。
ならば行かねばならぬ触れればならぬ。
すでに吾輩の脳から帰宅の文字は消失していた。
一歩。二歩。足を動かしても猫は逃げぬ。或いは吾輩に気づいてさえいないのだろうか。
光の者にとって、荒む吾輩はさながら幽鬼のようにうつるであろう。
しかし猫はそっぽをむいて気には止めぬ。
これは千載一遇の好機である。蜘蛛の糸である。
後光に導かれすがる思いで前へと進む吾輩を、突然の衝撃が襲ったのであった。
夢の中でも衝撃は感じるものである。
痛みはないがその強さに吾輩は吹き飛ばされ地へと倒れおちた。
何が何やら分からぬ。夢というものは身体を動かせぬものであるが夢の中の吾輩も今や動かせぬ状態にあった。
混乱する吾輩が気を振り絞って顔を動かせば先ほどの猫の姿は何処にも見えない。
おそらくこの騒動に驚いて逃げてしまったのであろう。
それも無理からぬことである。あの衝撃は余波であっても小さき者にとって酷であろう。
音が聞こえれば何奴がいずこへと去る気配がある。
猫では無い。猫はあんな大きな音を立てぬ。
おそらくその大きな物に吾輩はぶつかったのであろう。
その音が響き渡ればまた何処より誰彼が来たりて吾輩の前に姿を見せた。
人の姿の数々であったがそれらは遠巻きに吾輩を見ているだけで何かをする気配が一向にない。
突如現れ地に寝そべる見世物に対し好き勝手に言い合うだけである。
やはりここは獄界である。救いを差し伸べる者などだれもいない。
嗚呼、と吾輩は嘆息した。
人の姿をした悪鬼共など助けにはならぬ。なれば猫の形をしたあれは何者なのであろうか。
きっとそれは御使いである。
あれは光であった。少なくとも吾輩にとっては救いの光であった。
となればこれは光に導かれた結末である。獄界からの解脱である。
そう考えると無性に笑いたくなった。
息も絶え絶えだが吾輩は笑った。死ぬ前に一度やりたいことはやってみたいと思っていた。
だから笑った。腹の底から笑った。
有り難い有り難い。この労苦から解放されるのである。有り難い有り難い。
笑う度に激痛が節々に走る。だが吾輩は笑いを止めぬ。
有り難い有り難い。
猫を見て逝けるである。光を拝んで涅槃に逝けるのである。
有り難し有り難し。
貴方様は吾輩にとって救いでありました。
吾輩の後ろに吾輩がいる。その吾輩の後ろに吾輩がいる。小板から光が漏れて光明となる。
吾輩が生きていた道は点々と光る一つの紐である。
吾輩の元へ吾輩が見つめる灯りが収束していく。
吾輩の後ろに吾輩がいる。しかして吾輩の前に吾輩は無し。
さればこれは終点か。この世の終わりか。
嗚呼。嗚呼。有り難し。
吾輩はどうやら涙を流していたようである。しかし手を払う気力も無し。
ただただ伏してぼやける光を眺めるのである。
集まっていた光なのか夜空の星なのか滲んだ吾輩の視界ではよくわからぬ。
だが虚無だった日々において一の充実が吾輩の心を満たしていた。
最後に猫を拝むことが出来た。有り難し有り難し。
最後に貴方に救われた。有り難し有り難し。
もし獄界を経て輪廻する機会が有れば吾輩も貴方のように人を救うすべを持ちたいものである。
願わくばその一端を吾輩に授けんと願うのみである。
もはや周りの野次馬の声も耳に入らぬ。
世界が回転する。光点が輝き吾輩の周りをぐるぐると回る。
浮遊感が吾輩を包んだ。
もはや視界は白一色であったが浮かぶ感覚は確かに感じた。
そして吾輩の視界は再び闇に包まれたのであった。
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