第3話

 それから幾日が立ったであろうか。

 吾輩の主人も近頃に至っては到底魔法において望みのない事を悟ったものと見えてぱったりと杖を折った。

 なにやら日記に記しているようだが、文字の読めない吾輩にはなにが書いてあるかわからない。

 魔導書のことはどうしたと尋ねる輩がいるだろうが別段不思議でもない。

 あれは彼女がぶつくさと音読していたのを膝の上から拝聴していただけである。

 不在の間に吾輩も詩や作文でもとペンを持とうとしてみたがこの猫の身では甚だ不足であった。

 あまたのことが人を基準に作られているのだとわからされる始末である。

 全くもって忌々しい。

 天よなぜ吾輩を猫として生ませたもうたのか。

 前世では出来たことが出来ないというのは全くもって面白くない気分である。

 とはいっても猫であるからこうやって彼女の食客となりえたのであって、物には見方というものもあろう。

 そう悲観することはないのかもしれぬ。

 主人はここ幾日最悪だ最悪だと天を仰いでいる。

 心なしか仕事に出ける日が少なくなり部屋にいる日が多くなった気がする。

 篭っていると気が昂るのか木剣の素振りをする時もある。

 吾輩は剣についてはからきしだが彼女が剣を構える姿は非常に様になっていると感じる。

 勇敢な戦士たちを楽園と導くために現れる戦乙女が現れたらこんな感じだと見受けられる。

 主人は芸技にうつつを抜かさずこのようなことに打ちこむべきなのだ。


「黒猫ちゃん黒猫ちゃん、揺れて震えて眠りに堕ちなさい。黒猫ちゃん黒猫ちゃん、揺れて震えて眠りに堕ちなさい。黒猫ちゃん黒猫ちゃん、揺れて震えて眠りに堕ちなさい」


 戦乙女はこの世に顕現しても尚未練を背負って振る舞っていると見える。

 主人が剣を構えて睡眠の呪文を詠唱した翌日に例の眼鏡が久し振りで訪問した。

 彼は卓につくと真っ先に


「あれからどうかね」


 と口を切った。主人は難しそうな顔をして


「ああ、止めたよ。私には無理かなーて感じちゃってさ」


 と未練たらたらに落胆の色を露にした。眼鏡は笑いながら


「ああ、やっぱりな」


 と頭を掻く。


「何がさ」


 主人はずいと身を乗り出して理由を問うた。


「ま、発破はかけてみたがね。君に才が無いことはわかっていたさ。そう落胆することはないよ」

「それはどういう……いや、駄目だったのは事実だけどさ」


 主人は不満を隠さず顔を白黒させているがかたや眼鏡は堂々たるものであった。

 無駄だから止めろとは直接いえぬ友情が彼にはあったのやもしれぬ。

 それをウル・ミラスの格言をもって彼女に諭すようにしたのではないか。


「だいたい何故魔法を使おうと思ったのかね」

「魔法を使えたほうが便利だと思ってさ」

「それでは僕が君みたいに剣を扱えるようになったら、とほざいたら? 君はそれをどう思うのか」

「むむむ」

「人の才はわからないよ。魔法の才は後年突如発現することだってある。しかし君の武威には皆助けられているんだ。そんな焦ることはないと思うがね」


 かんらかんらと眼鏡は笑う。主人は仏頂面のままだ。

 得手不得手というのは確かにそれぞれだ。

 吾輩に武器をとれといわれたら何を馬鹿なことと返すだろう。

 オークとの戦いにおいて主人の働きは見事であった。

 吾輩がこうやって宿部屋に寛いでいられるのも彼女の功績あってのことだ。


「じゃあ私に魔法の才があったら?」

「それは随分素敵な話だと思うが、もしそうだったら自分が尋ねてくる前に君が嬉々としてそれを話したと思うね」


 眼鏡がおもむろに席をたってうろうろする。

 部屋をうろついかと思えば彼は巧妙に一冊の本を手に取った。

 表紙に武器を構えた人の画が記されている。

 眼鏡と本を見て主人はばつが悪そうだった。


「アンジェリカ、飛翔。なるほどこんなことだろうかと思った」


 けらけらと笑いながら眼鏡はアンジェリカ某を朗読する。

 それは剣と魔法を巧みに操る英雄叙事詩であった。

 二つの才を持つ傑物が多くの難事を成し遂げる話である。

 時々ちらちらと主人を眺めながら見せ場の頁で声高らかに聞かせてやるとついに彼女から抗議が来た。


「もうやめて!」

「いや失敬失敬。夢見がちなのは悪くないよ」


 悪くないと発言しているが眼鏡の態度は生徒の悪戯を見つけた教師のようであった。

 正論で武装しているだけに性質が悪い。

 皮肉のひとつひとつが傷をえぐるのだが、主人が置いてある剣の柄に手をかけようとしたのをみてようやく本を元に戻した。

 少々からかい過ぎたと謝罪するが眼鏡の顔にはまだ笑みがへばりついている。

 かたや主人の顔は怒り心頭の赤ら顔だ。

 昼間から酒を飲んでいると思われても仕方がない顔だ。

 酒気ではなく気焔をはく彼女をなだめる彼はまるで柳のようである。

 柳が身をふるわせて火の粉を受け流しようやく彼女は落ちついた。

 まだまだ納得は出来かねていないようだったがこの場はひとまずおさめたようだ。


「ウル・ミラスはこうも言ってるよ」

「ウル・ミラスはもういいよ」

「ふむ残念、君との話は嫌いではないのだがね」


 そこで会話は終わり杖とローブは眼鏡が引き取って去っていった。

 たしかに主人が被るより彼が着こなすほうが似合いそうではある。

 魔導書はそれから数日部屋にあったが主人がいずこへと持ち去って以来見かけていない。

 それからそれから更に幾日たった後、また何やら抱えて主人が戻ってきた。

 今度は何に手を出すかとけたたましく扉を開けてやってきた彼女の手を見ればそこには輪っかがあった。

 なにやら爪か牙のようなものが数点じゃらじゃらとぶら下がっている。

 主人はそれを吾輩の首に巻きつけると、赤子をあやすように高く高く持ち上げた。


「そういえば君に名前をつけてなかったね。君の名前はクーロ、クーロだよ」


 不覚であった。

 この世界に降臨してから名前で呼ばれたことはない。

 前世の名前なぞとうに忘れてしまったくらい長居しているような気がしてくる。

 彼女が仕度する際につかう丸鏡を見てみれば、なるほど吾輩の御首にはしっかと首輪がついている。

 首を戻してニャアとないてみれば主人はご機嫌である。

 鈍く光る銅製の首輪には何者かの牙がぶらぶらと下がっている。

 猫ではないからおそらく犬かオークの類であろう

 吾輩が首輪つきになっても世間は変わらない。

 主人は冒険へ行く。帰れば部屋で素振りをする。酒場で飯を食えば、冒険者は厭(いや)だ厭だとくだを巻く。本は相変わらず読む。カロメイトポーションは功能がないといってやめてしまった。

 吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康でびっこにもならずにその日その日を暮している。そろそろ宿以外をうろついてみたくはある。

 転生したこの身なれど今だ道解らず、欲をいっても際限がないから暫くは無名の猫でいるつもりだ。

 吾輩はクーロ。転生者である。

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