第2話

 吾輩の主人は吾輩と顔を合せる事がない。職業は冒険者だそうだ。

 宿から出ると終日出てったきりほとんど帰ってくる事がない。

 街のものは大変な努力家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。

 しかし実際は他のものがいうような勤勉家ではない。

 吾輩は時々忍び足に宿の一階に構えてある酒場を覗いて見るが、彼女はよく泥酔している事がある。

 酔いつぶれてテーブルの上に涎をたらしている。

 彼女は剣士で健康的に鍛えてはいるが、酒を飲むとその白肌が真っ赤になってグデングデンとおよそらしくない徴候をあらわしている。

 そして大飯を食う。

 大飯を食った後でカロメイトポーション(魔術協会が冒険者のために作成した万能栄養補給剤 )を飲む。

 飲んだ後で貸本をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。

 これが彼女が酒場で繰り返す日課である。

 吾輩は猫ながら時々考える事がある。冒険者というものは実に楽なものだ。

 この世界の人間に生まれ変われたのなら冒険者となるに限る。

 こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。

 前世のことはもはやうろ覚えではあるがこんなに寝ることが出来たことはなかった。

 それでも主人にいわせると冒険者ほどつらいものはないそうで彼女は友達が来る度に何とかかんとかクダを巻いている。

 吾輩がこの宿へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。

 どこへ行っても跳ねつけられて相手にしてくれる者がなかった。

 食を扱う場所に野良猫がうろつけばもっともな話であるが吾輩は主人の飼い猫である。

 いわば宿の客人であるからもっと丁重に扱って欲しい。

 吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を迎えて主人の傍にいる事をつとめた。

 朝主人が支度をするときは必ずその傍らに控える。

 彼女が読書をするときは必ずその膝の上に乗る。

 これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。

 その後いろいろ経験の上、朝は床の上、夜は卓の上、天気のよい昼は窓際で寝る事とした。

 しかし一番心持の好いのは夜に入って主人の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。

 吾輩はいつでも彼女の隙間に己をいれるべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く彼女が癇癪を起こすと大変な事になる。

 彼女は――ことに寝相がよくない。

 敵が来た敵が来たといって夜中でも何でも大きな声で喚きだすのである。

 すると彼女の身体は防衛行動をとり即座に手足が動き出す。

 せんだってなどは強靭な脚力でベッドから蹴り飛ばされた。


 思い返してちょっと腹がたったから仕返しに吾輩の主人が失敗した話をしたい。

 主人はなんといっても武技に秀でているが、それにあきたらず何にでもよく手を出したがる。

 詩を詠んでギルドの掲示板に張りつけたり、軍学をかじってギルド員と論じてみたり、間違いだらけの作文をかいたり、時によると踊りをやってみたり、歌をならったり、またあるときはリュートなどをギーギー鳴らしたりするが、気の毒な事にはどれもこれも物になっておらん。

 その癖やり出すと脳筋の癖にいやに熱心だ。

 酒場の中で歌謡を叫んで、口さがない連中にバンシーミンストレルと渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、連日のレパートリーを繰返している日々もあった。

 みんながあいつは大器だ勇者だと感心するくらいである。

 この主人がどういう考えになったものか吾輩の住み込んでから一月ばかり後のある夕暮れに、大きな包みを抱えてあわただしく帰って来た。

 何を持って来たのかと思うと魔導書と杖と三角帽子とローブで、今日から魔術を志す決心と見えた。

 果して翌日から当分の間というものは毎日毎日宿部屋で昼寝もしないで何やら唱えてばかりいる。

 しかしその唱えた結果を見ると何をしたいものやら吾輩には見当がつかない。

 当人もあまり上手くないと思ったものか、ある日その友人で魔術とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。


「どーも上手くいかないよ。自分でやってみるとほんと難しい」


 これは主人の述懐である。なるほど偽りのない処だ。

 友は眼鏡越しに主人の顔を見ながら、


「そう初めから出来るわけがないさ、すぐに出来たら魔法学校で教鞭をとってる輩なんざ失業しちまうよ。かの大魔法使いウル・ミラスが言ったことがある。魔術とは万能ではない。手でもなければ足でもない。目でもなければ耳でもない。しかして魔はこの世にありて万物の源と成る。天にして地、水にして火、風にして土である。故にわすれるべからず。魔に染まるもの、これすなわち魔物なり」

「結局なにが言いたいのよ」

「簡単に魔法が使える奴はその力に溺れて嫌な奴になるだろうってことさ。研鑽の日々は無駄にはならない、調度いい的がいるからためしに狙ってみたら」


 そういって友は吾輩を指差した。

 主人は吾輩を標的とすることに難色を示したが、やがて魔導書の頁をめくりながらなにやらブツブツと唱えていた。

 友の眼鏡の裏にはからかうような笑みが見えた。


 その翌日吾輩は例のごとく窓際に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になくローブを着こんで吾輩の前で何かしきりにやっている。

 ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼女は余念もなくウル・ミラスを極めこんでいる。

 吾輩はこの有様を見て困惑するのを禁じ得なかった。

 彼女は彼女の友に説かれた結果としてまず手初めに吾輩を狙いすましたのである。

 吾輩はすでに十分寝た。欠伸がしたくてたまらない。

 しかしせっかく主人が熱心に杖をとっているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛抱しておった。

 彼女は今吾輩の姿を瞳に捉えてずっとなにがしを唱えている。


「黒猫ちゃん黒猫ちゃん、揺れて震えて眠りに堕ちなさい。黒猫ちゃん黒猫ちゃん、揺れて震えて眠りに堕ちなさい。黒猫ちゃん黒猫ちゃん、揺れて震えて眠りに堕ちなさい」


 彼女の目は真剣そのものである。故に吾輩は言いたい。

 寝ている相手に睡眠の魔法をかけるのは如何なものかと。

 吾輩は猫として決して良い出来ではない。

 背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。

 しかしいくら不器量の吾輩でも、主人の不器用な魔法が、充分な睡眠をとった吾輩の身体に打ち勝てるとはどうしても思われない。

 第一術式が違う。

 吾輩は毎夜主人の膝に乗って頁をめくるのを横目に眺めているのだがそれと今とでは所作が違う。

 盗み見ての独学ではあるが、魔法とは対象を捉えて呪文を唱えマナを変換してこれを行使するものである。

 吾輩は魔法は使えないがこれだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。

 しかるに今主人の動作を見ると、吾輩を見ても心ここにあらず、詠唱すれど意味を理解されず、心離れているゆえに動静は空々しい。

 ただ幼子が親の動きを真似している有り様であるという評が相応しかろう。

 吾輩は心中ひそかにいくらウル・ミラスでもこれではしようがないと思った。

 しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくならどうにかしてやりたいと思ったが、このままでは日が暮れても致し方ない空気である。

 さてこうなってみると、もうおとなしくしていても仕方がない。

 主人のウル・ミラスを中断すべく吾輩は一歩前に踏み出した。

 ニャアと一声泣くと主人の眼に生気が戻った。

 がっくりとうなだれて杖を落とし椅子に深々ともたれかかかる。

 彼女の幾万の祝詞より吾輩の隻語のほうに軍配が上がったようだ。


「はあ……」


 ため息しか出ないらしい。吾輩はようやく欠伸が出来た。

 のそのそと寄ってみれば主人の眼は死んでいた。

 生きたり死んだり忙しい御方である。吾輩みたく睡眠をとってはどうか。

 そうやって糸の切れた人形のようになっていたがしばらくして主人はようやく起きあがった。


「あー止め止め。今日はもうおしまい!」


 うっとうしくローブを投げ捨てて彼女は一階へと降りていった。

 おそらく大酒を飲むのだろう。大言壮語を吐いたウル・ミラスも終いである。

 明日明後日はどんな兄弟姉妹のウル・ミラスが彼女を突き動かすのか。

 いずれにせよ主人が失敗したことだけは事実である。



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