吾輩は転生者である
朝パン昼ごはん
第1話
吾輩は転生者である。スキルはまだ無い。
どこで生まれ変わったかとんと見当がつかぬ。
アスファルトの上で呻き転がっていたことだけは覚えている。
その当時は何という考えも浮かぶことがおよばず、別段どうしたいとも思わなかった。
ただ冷たい道路に寝そべって、野次馬共の囃し声を聞き流していただけである。
この時はやく救急車を呼んでくれと願ったのを今でも覚えている。
痛い身体をなんとか傾けて奴らを見れば、それを持って通報されるべきはずのスマホが高々と掲げられてまるで他人事だ。
その後現世でも人にだいぶ逢ったが、こんな人でなしには一度も出くわしたことはない。
時々やばいやばいやばいんじゃないのと口々に言うが、一向に助ける気配なぞ見せやしない。
かといって叫ぶ気力も無い。動くことも当然出来もしない。
到底助からないと思っていると、何やら光が差して目の前が明るくなった。
世界も何やら回転する。ぐるぐるぐると目が回る。
やがて消失感が身体を襲い再び意識が強固になった。
ふと気がついてみると周りには誰もいない。
たくさんおった野次馬共が一人も見えぬ。
肝心の衣服さえ姿を消してしまった。
そのうえ今までのところとは違って土と草の匂いがする。
はてな何でも様子がおかしいと、のそのそと起きあがってみると非常に痛い。
吾輩はいつのまにかアスファルトの上から、原っぱの中へと打ち捨てられていたのである。
ようやくの思いで身体を動かすとむこうに大きな池がある。
吾輩は池の前にすわってどうしたら良かろうと考えてみた。
しかしそれどころか更に暗澹たる気持ちになってしまった。
池に写る吾輩は人ではなかった。
あまりがっしりとした体格ではなく撫で肩であったと記憶しているが、池面にうつる吾輩はそれ以上であった。
柔らかな物腰に四足の体。ピンとたった耳と髭に、内なる不安を隠しきれぬようにパタパタと動く尾。
なんということであろうか、吾輩は人間から一介の黒猫に落ちぶれてしまったのである。
しかし別にこれという分別も出ない。
境遇が双肩にのしかかってきて泣きたくなる。
ニャー、ニャーと試みに泣いてみたがやはり猫だ。
そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。
腹が非常に減ってきた。泣きたくても声が出ない。
仕方がない、何でもいいからここより良い所に行こうと決心して、そろりそろりと池を離れることにした。
やはりというか死んで甦ったせいなのかどうも非常に苦しい。
そこを我慢して無理やりに這っていくと、ようやくのことで人間臭い所へ出た。
ここへ入ったら、どうにかなると思って崩れた石垣の隙間から、とある砦内にもぐり込んだ。
さて砦に忍び込んだもののこれから先どうして善いかわからない。
そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、怒号は聞こえるという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった。
仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へと歩いていく。
今から考えるとその時は既に戦場の内に這入っておったのだ。
ここで吾輩は野次馬以外の人間を再び見る機会に遭遇したのである。
第一に逢ったのが緑面の人間であった。
あとで知ったがそれはオークという獰悪な種族であったそうだ。
このオークというのは時々他種族の集落を襲って乱暴の限りを尽くすという話である。
あちこちゴツゴツした皮膚でまるで岩肌のようであった。
のみならず頭の上に角まで生やしてまるで鬼のようだ。
そうしてその両の腕から武器を振り回してまわりを破壊していく。
どうも巻き添えをくらいそうで弱った。
この暴虐の間合いの外でしばらくは遠巻きに眺めておったが、そのオークの向こう側で白刃を煌めかせている女人を見咎めた。
武器と武器が打ち合わされビリビリと空気が震える。
女人は白面であった。すくなくとも緑面よりは親近感が湧く。
女人の先にも白面の者が男女数人戦っている。
吾輩はここでようやくオークの集団と女人の数人が戦っていることに気づいたのである。
オークの腕は丸太のようであった。
そんな体で武器を振り回すものだから遠く離れた吾輩の身にも圧が来る。
振り下ろされた武器に圧殺された土くれが吹き飛ばされてここまで迫る。
いやこれは駄目だと思ったから両目を瞑って運を天に任せていた。
ひもじいのと寒いのはいつのまにか恐怖へと変わっていた。
恐怖に急き立てられた吾輩はここから遁走することを試みた。
しかし猫に生まれ変わって間もない浅ましさ。
吾輩は隙を見て両雄から離れるつもりであったが、オークの背に体当たりする結果と成り果てたのである。
オークが振り返り闖入者をねめつけた。半身がすでにこちらを向いている。
一層乱暴な目つきで吾輩を見るやいきなり武器を振りかぶった。
振り下ろされる。
そう、覚悟した吾輩の窮地を救ったのは女人の一撃であった。
緑面から紅水が吹き出される。
吾輩は女人の後ろに別のオークが迫るのが目に入った。
恩には恩で報いねばならぬ。
飛沫が垂れるのも気にならず、今度は四肢に力をこめて両目をまっすぐに捉えて飛び出した。
オークの腹にはいささかの痛痒も与えることは出来なかったが、女人を振り返させることには役立った。
オークが吾輩を摘まみ投げ捨てようとする二の腕を、女人の斬撃が弧を描いて切り落とした。
他のオークが再び眼前に面を出す。
吾輩はそれを見つけてはぶち当たり、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。
その時にオークという者はつくづく嫌になった。
最後のオークが地に伏せたのを確認すると、女人が吾輩をひょいと拾い上げて抱えあげた。
女人の仲間がなんだソイツはといいながらとり囲んできた。
女人は吾輩を抱きながらみんなの方へ向けてこの勇敢な子猫に助けてもらったんだよという。
仲間は半信半疑で吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがて戦利品がひとつ増えたなと肩を並べて笑った。
女人もそうだねといって等しく笑った。
吾輩は道具袋に放り入れられそのまま街へと一緒に向かう流れとなった。
袋から顔を出して目にする景色は吾輩の記憶のどこにもない。
かくして吾輩はこの女人を自分の主人と決めて、異世界に暮らすこととなったのである。
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