ビニール傘 梔子
そのビニール傘を開くとまだ匂いがした。
クチナシの甘い匂いが。
傘を忘れた人が困らないようにと、店先にビニール傘十本を置いた最初の次の年の事だった。
ビニール傘の中に半分ほど入れられていたのだ。
十本すべてに、クチナシの花びらが。
悪戯?
嫌がらせ?
にしては、花びら?
煙草の吸殻とかゴミの類だったら、嫌がらせだと判断できるが。
花びら。
きれいな白い花びらだった。
とても甘い匂いがする花びらだった。
このまま花びらが枯れるまで入れておいたら、何の面白みもないビニール傘も映えるよなあ、と思った。
思ったが、みんながみんなクチナシの匂いが好きなわけではないだろうし、誰が入れたのかもわからない以上、そのビニール傘は家に持ち帰り、新しいビニール傘を買って店先に置いた。
本当は捨てた方がいいのだろうけど。
どうしてか、捨てる気にはなれなかった。
誰がビニール傘の中にクチナシの花びらを入れたのか。
その話題を家でした時に、そういえば娘もクチナシの花の匂いがするねと言ったのだ。
娘は友達の家にクチナシの花が咲いているからと素っ気なく言っては、二階の自室に上がってしまった。
母一人、娘一人、二人だけの家族だ。
娘がいなくなった居間はとても静かで、とても寂しかった。
反抗期を喜ぶべきだとわかっていても、やはり、寂しいものは寂しい。
豪快に泣きながら、夕飯を食べた。
その年だけだった。
クチナシの花が入れられたのは。
あれから十五年が経った。
娘が結婚すると告白した時に、実はと口を開いたのだ。
実は自分が店先に置いていたビニール傘にクチナシの花を入れたのだと。
店を手伝いたい気持ち。
店を困らせたい気持ち。
いつもありがとうって気持ち。
素直になれない気持ち。
話したくない気持ち。
話したい気持ち。
言わなくてもわかってよって気持ち。
黙っててよって気持ち。
好きだって気持ち。
嫌いだって気持ち。
ぜんぶの気持ちがぐちゃぐちゃになった結果、友達から貰ったクチナシの花びらをビニール傘に入れたのだ。
「今まで黙っていてごめんなさい。ビニール傘、捨てないでくれてありがとう。でも私が言える立場じゃないけど、ああいう正体不明なものはすぐに捨てた方がいいよ。あと、感謝しています好きですって温色だけに染まるって事はめったになくて喧嘩をする事が多いだけど、今はそのめったにない時ね。お母さんありがとう。これからもよろしくお願いします」
「うん。これからもお願いします」
じゃあ、またね。
そう言って、娘は新しい家へと、これから毎日帰る家へと行ってしまった。
寂しくなるなあ。
クチナシの花びらは枯れた時に捨てたが、今も取ってあるクチナシの花びらが入っていたビニール傘を玄関で開くと、まだ匂いがしたのでびっくりしたものの、消えるものではないもんなあと、しんみりしつつ、娘が入れたとわかったので、これからは使おうかなと思ったのであった。
(2023.6.8)
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