394 チョコレートバー

 

 クール達を助け出し、のんびりとおひいさまの観察を始めてから瞬く間に五日が経過した。


 部屋の前で観察する限り、おひいさまはかなり規則正しい生活をしているようだ。


 朝六時ぴったりに起床、体操をして軽く身体を解すと、都市システムの用意する食事を取る。

 壁が透明になり、陽光をたっぷり浴びる。外が雨の日でも彼女の部屋には陽の光が注ぎ込んでくる。午前中は何を学んでいるのかはわからないが、端末を使い勉強のような事をしているようだ。


 昼食を取ったら三十分のお昼寝。再び勉強の時間を経て、三時のおやつ。そこから夕方までは割りと自由が利くようで、身体を動かしたり本を読んだり、壁に外の景色を映し出したりしている。日が暮れたらシステムの用意する食事を取り、時間をかけて入浴して、ストレッチをして身体を解し、満天の星の下、二十二時には眠りにつく。


 勉強、運動も満遍なくこなしているあたり、いつもだらだら過ごしてしまう僕よりも余程健全だろう。

 外に出られない事、完全にプライバシーがない事を除けば理想的な生活かもしれない。まぁ、その二点が問題なんだけど……。


 この都市は意味不明なまでに便利だ。おひいさまの様子を観察する上で不便は何もなかった。

 端末を使えば、その場に食事からベッドなどの家具まで、生活に必要な大体のものが呼び出せた。クール達はそういう機能は部屋の中でしか使えないらしいので、これがクラス3に与えられた権利の一つなのかもしれない。


 最初は寝転がりながらだらだらとおひいさまの様子を眺めていたのだが、二日目からは自分の自堕落な生活がなんだかちょっと恥ずかしくなったので、おひいさまの生活習慣に合わせてみる事にした。

 

 同じ時間に起き(結構寝坊する)真似をして体操をして(筋肉痛になったので三日目から止めた)一緒にご飯とおやつを食べ(僕は自前のチョコバー)、一緒に勉強をし(僕は端末で遊んだ)、一緒に寝る(多分、僕の方が寝付きがいい)のだ。


 基本的には部屋の前から離れるのは入浴の時のみであり、窓もおひいさまから要望がない限り透明にしっぱなしである。


 おひいさまは最初、いつまで経っても部屋の前からいなくならない僕の姿に戸惑っていたようだが、すぐに気にしない事にしたようだ。


 それどころか、食事の際のテーブルの配置が窓の前になり、勉強も運動も扉の前でやるようになった。おひいさまは特に今の生活に文句はなさそうだったが、もしかしたら本人も気づかないところで新鮮さというものに飢えていたのかもしれない。僕のような大した取り柄もない人間でも見世物くらいにはなるという事だろう。


 やっぱり今回の僕、役に立ってるのでは……?



 おひいさまを眺めている僕とは異なり、クール達は独自の作戦で動いているようだった。


 とりあえずはクラヒを救うために情報収集から始める事にしたらしい。ハンターのハントの成否は事前の情報収集で決まるとも言われている。色物にしか見えないが、彼らも一端のハンターだという事だろう。なかなか頼りになりそうだ。


 別にしなくていいとは伝えたのだが、調査の結果報告は毎日一回、夜にあげてくれた。まだクラヒを助け出せる目処は立っていないようだが、おひいさまが見守る前で話を聞くのが最近の日課である。

 

 探索者協会が敵対している世界最強の都市の中にいるとは思えない、穏やかな時間が流れていた。

 オリビアさんやジャンさんもやってくる気配はなかった。もしかしたら他の仕事で忙しいのかもしれない。カイザー達からのコンタクトも相変わらずないが、便りがないのが良い便りとも言う。きっと何もかもうまくいっているのだろう。



 六日目のおやつタイム。おひいさまが準備を始めるのを見て、もう今日もおやつの時間か時間が経つのは早いなあとか考えながらこちらもおやつの用意をしようとしたその時、ふと背後で音がした。




「ん? どうしたの? 珍しいね?」



 おひいさまの部屋しか存在しないフロアに入ってきたのは、ルシャだった。

 毎日の報告はだいたいクールが担当してくれている。ルシャがここにやってくるのは初日以来だ。


 いつも日中は外に出ている様子だったのに、どうしたのだろうか?


 ルシャは、僕の前までやってくると、目を丸くしている僕をじっと見つめ、意を決したように言った。


「本物さん……本物さんはぁ、毎日一体何をしてるんですかぁ?」


「……え?」


 思わず目を瞬かせる。


 何をって言われても…………良く考えてみたら何もしてないな。

 初日は意識しておひいさまの様子を観察していたのだが、毎日やっている事が同じなので、既にちゃんと見ていない。近くにいるだけになっている。


 だが、こんな事正直に言える訳がない。何も言えない僕に、ルシャはもじもじしながら言う。


「そのお……助けられた立場でこう言うのもなんなんですがあ、ルシャ、早くお兄ちゃんの事助けて欲しいかなってえ……助けてくれたら、本物さんの事はぁ、兄さんって呼んであげますよお?」


「……それは間に合ってるなあ」


 君、面白いね。そして、僕が動いてもなにもできないんだが……。

 このまま黙っていても納得いただけなさそうなので、宝具のカバンに手をつっこみながら答える。


「強いて言うなら、機を窺っているんだよ」


「機を……窺っている!?」


 言い訳が思いつかない時の常套文句である。ちなみに好機があれば動くという事ではなく、時間が経てば誰かがなんとかしてくれるだろうなーという意味だ。

 何しろ、僕の味方はいつだって僕のへっぽこを補って余り有る優秀さだからな。


 ルシャが目に涙を浮かべながら続ける。


「で、でも、ノーラ王女は毎日のようにお兄ちゃんを近衛にしようとしているんですよお!? 近衛になったら、ノーラ王女から何をされてしまうか……うう……私のお兄ちゃんなのにい」


 …………いや、妹じゃないでしょ、君。


 クール達もここ数日でだいぶ情報を集めたようだ。他のエリアまで手を広げて聞き込みを行っているらしい。


 ノーラ王女。それは、監獄の職員さんも軽く触れていた名前だ。クール達が情報収集した内容を教えてくれたので僕もその情報についてはある程度把握していた。


 王の二番目の子にして、おひいさまの姉、第一王女、ノーラ・コード。


 コードを襲撃した際のクラヒの姿に一目惚れして、クラヒが監獄に囚われてからはなんとか解放申請を通すべく足繁く通っているという良くわからない立ち位置の王女。


 まず、王族は貴族たちに行動を制限されているはずなのに足繁く監獄に通えるというのが意味不明なのだが、所詮はクール達が噂から集めた情報なのでどこまで真実なのか判断に困るところだ。


 ちなみに、解放申請が通らない理由は不明らしい。

 クラヒを解放するのは危険過ぎるから都市システムが止めているのだとか、第一王子や他の派閥が妨害しているのだとか……なんか大変だね。


 ともかく、今僕達ができる事はなにもない。そもそも、僕には解放申請を出す権利すらないのだ。


「焦ってもどうにもならない事もあるさ。そもそも、僕達では解放申請は出せないしね……おひいさまなら出せるはずだけど、おひいさま外に出られないし」


 そもそも、扉が開けられないだけでなく、幽閉されているおひいさまは外部と遮断されていた。


 都市システムにはスマホのように通話機能やメールを送る機能も存在しているのだが、おひいさまには送れないのだ(ちなみに、カイザーやサヤにも無理だった。理由は不明だが、もしかしたら都市内で顔を合わせたことのある相手にしか送れないのかもしれない)。

 物を送れる機能もあるのだが、それも不通である。おかげでチョコバーを送る事もできない。



 おやつタイムの準備をし終えたおひいさまが、こちらに期待したような眼差しを向けている。その眼の前に置かれた皿にはクリーム色の粘土のようなおやつが置かれていた。


 おひいさまのおやつはいつも粘土のようなバーだ。確認する限りでは例外はなかった。毎日三食の食事も似たようなバー状のものであり、どうやらシステムがおひいさまに用意する食べ物はそういうものばかりらしい。

 ハンターが携帯する非常用の食料にも似たような物がある。そのバーも栄養はあるんだろうし、おひいさまもいつも美味しそうに食べているのだが、外の世界で色々な物を食べてきた僕からすれば少しだけ可哀想だった。


「?? お、おひいさまはぁ、どうしてこちらを見ているんですかあ?」


「あぁ。チョコレートバーに興味津々なんだよ。幽閉されているからあげられないんだけどね」


 いつも大量ストックしているチョコバーを取り出すと、おひいさまの双眸がきらきら輝きその視線が僕の手元に釘付けになる。

 チョコバーを左右に動かすと、おひいさまの視線も左右にふらふら動く。初日のおやつタイムの時、チョコレートバーを初めて見た時から変わらない光景だ。


 おひいさまは外のおやつに興味津々だ。

 確認してみたのだが、どうやらこの都市のシステムが用意できるおやつにチョコバーは存在しないらしい。というか、チョコ自体が存在しなかった。僕の中でコードの評価がちょっと落ちた瞬間である。



 そこで、ルシャがチョコバーを凝視しているおひいさまを見て、不思議そうな表情を作った。




「そういえばあ、私、思ったんですがあ…………おひいさまって、誰に閉じ込められているんでしょお?」


「ん?」


「だってえ、王族ってことは、おひいさまって王様の次に偉いんですよねえ? この都市って、階級が絶対ですよねえ? 王族が貴族に閉じ込められるなんて、ありえなくないですかあ?」


 …………確かに、冷静に考えてみるとそうだね。

 僕は依頼人からの情報があったのでおひいさまを幽閉しているのは貴族階級の者達だと思いこんでいたが、ここは普通の都市ではないのだ。


 オリビアさんの説明が真実ならばこの都市の機能は階級が上のものを優先しているわけで、仮に貴族が鍵をかけたとしてもおひいさまの権限ならば簡単に開けられるはず。


 その法則で考えるとおひいさまを閉じ込めておけるのはおひいさまよりも階級が上の者という事になる。いや、同じ階級の相手が鍵を掛けた場合どうなるのかは知らないけど。



 となると……おひいさまを幽閉したのはコード王という事になる。僕達に持ち込まれた貴族連中に監禁されている王族の保護という依頼の前提が崩れてしまう。

 いや、話が違うなとは薄々は思っていたんだけどね。もしかしたら依頼人と合流出来ていたらそのあたりの説明があったのかもしれないが、もうどうしようもない。



 カイザー達がうまくやってくれる事を祈る他ないな。



 僕は、未だにチョコバーを羨ましそうに見ているおひいさまを見てため息をついた。



「おひいさまは何も知らないんだろうなあ……」


「そうですねぇ……生まれた時から閉じ込められたままですから……」


「なんとかチョコバーくらいは届けてあげたいんだけどね」


「チョコバー…………」



 なんとも言えない表情を作るルシャの前で、都市システムの一部――物質の転送システムを起動する。床に開いた穴にチョコバーを放り込みルシャに届けるように念じると、ルシャの眼の前にチョコバーの入ったケースが乗った台座が現れた。

 目を丸くするルシャ。街の外ならば信じられない光景だろう。



「一応、物を届けるシステムもあるんだよ。おひいさまには使えないんだけど……」



 おひいさまが目を見開きそれを見ている。僕はおひいさまを見て、残念そうに首を横に振った。

 幽閉だから、物の差し入れも遮断しているんだろうな。まぁ、当たり前と言えば当たり前だが…………誰だかわからないが、酷い事をするものだ。


 ルシャが、包装紙を破り捨てチョコバーを一口食べて言う。


「なんだかあ、私が想像していたより、今回の相手は強大なのかもしれませんねえ……」


「そうだねえ……もっと平和にやればいいのにねえ」



 おひいさまが、チョコバーを食べるルシャを見て、ショックを受けたように震えている。

 チョコバーがなくなると、おひいさまがようやく自分のおやつをもそもそと食べ始めた。都市システムが配給してくれる粘土状の何かだ。


「基本的にああいう食べ物ってえ、美味しくないんですよねえ。栄養価はあるんでしょうけどお……監獄でも毎日出ましたねえ。しばらく見たくないですぅ」


「あー、美味しくないんだ……気になっていたんだけどね」


 おやつはともかくとして、よくもまあおひいさまは毎食似たようなものを食べているものだ。

 フォークとナイフで切り分けたり、水に溶かしたり、色々な方法で召し上がっているのを見た。一応、ある程度のバリエーションはあるようだが、僕だったら多分耐えきれないだろう。


 僕の毎食の食事もシステムが用意してくれるものなのだが、ある程度メニューを指定できるので食事面での悩みはない。


 …………無事作戦がうまくいっておひいさまを保護できたら、外の世界を案内してあげよう。きっと大喜びするはずだ。



「チョコバー、おかわりいる?」


「……頂きますう。これ、おいしいですねえ。幾つ持ってるんですかあ?」


「沢山。実はこれ、時空鞄マジッグバッグなんだよね。チョコレートしか入らないんだけど」


「!? そ、それに何の意味があるんですかぁ?」



 正確に言えばチョコレートに関連するものならば一緒に入る。包装紙も入るし、中にナッツが入っても問題ない。子どもの夢の詰まった宝具かもしれない。

 チョコバーを五本取り出し、ルシャに手渡す。おやつを食べ終えたおひいさまが窓にぺったり頬をつけて目を輝かせてチョコバーを見る。


 今日のおやつタイムは三人でだなあ。


 椅子とテーブルを扉にピッタリくっつける形で呼び出し、僕はおやつタイムを再開する事にした。


 そうだ、チョコレートドリンクも入れているのだ。こちらはそこまで量はないが、奮発しよう。








§ § §









「――というわけでえ、本物さんは、まだ動く時じゃないと言っていましたぁ」


「掴みどころがねえ人物ってのは本当みたいだなあ、クール。相手を油断させるのも実力の内ってことなんだろうが、実績と評判を聞いていなかったら無能だと勘違いしていたところだぜ」


 ルシャの報告とクトリーの言葉に、クールは眼鏡をくいくい持ち上げ、頭を必死に回転させていた。


 助け出されて数日、《嘆きの悪霊》は未だクラヒを助ける目処が立っていないものの、着々とコードの情報を集めつつあった。


 クール達のクラスは1、市民と認められる最低限だ。使える都市システムの機能は制限されているが、それでも調べられる事はある。


 この都市には人がいる。クラス1以上を付与された市民に、それ以下の、下級民。クラヒは強く頭も回るが一人しかいないので、《嘆きの悪霊》でも情報の収集は主にクール達が担当していた。

 足で情報を探すのは、得意な方だ。このビルの近く――アリシャ王女の管轄するエリアには下級民ばかりで、ほとんど市民は住んでいないが、他の王族が支配するエリアには人が沢山いた。


 長くこの都市に住んでいる住民に、最近外から流入してきたレッドハンターまがいの新参者達。


 この都市では、衣食住全てをシステムが管理している。ビルも都市システムが建てているし、食料の供給もシステムが行っている。労働力というものは基本的にほとんど必要にならない。

 そのためか、大抵の市民は暇を持て余しており、話は割りと簡単に聞く事ができた。


 このコードは七つのエリアに分けられ、コード王とその血を引く王族――クラス8をトップにおいた派閥がそれぞれ管理している事。

 最近、それぞれの陣営が戦力を求め人のスカウトが活発に行われている事。外部からの人の流入がいきなり増えたのもその一環である事。

 アリシャ王女の幽閉は市民の大部分が認識しており、そのためにアリシャ王女に与えられたごく狭い一帯にはほとんど市民が住んでおらず、代わりに下級民が大勢住み着いていることもわかった。管理がされていないエリアは下級民にとってもってこいという事だ。


 監獄についても情報を集めたが、こちらはほとんど有用な情報は手に入らなかった。


 わかったのは、監獄が有史以来一度も破られた事がないという事だけだ。ただでさえコードの治安維持は都市システムによって保たれているが、それに加えて監獄には多くの兵器が配備されている。

 中でも一番厄介なのは、センサーの類だろう。危険な持ち込み物を察知するセンサーに、精神状態や思考を読み取り危険人物それ自体を事前に排除するセンサーは欺く術がなく、反応した瞬間に問答無用で治安維持のための部隊が差し向けられる事になる。


 加えて言うのならば、クラヒは今、王侯貴族からかなり注目されているらしい。

 周辺一帯を平らげ、強力なハンターを有する探索者協会を二度も退けた難攻不落のコードに挑んできた勇敢にして無謀な男。これまで誰にも破られた事のないコード外壁のバリアを一瞬でも貫通した最強の魔導師。


 このコードでは魔法はほとんど使えない。現コード王が、そう定めたからだ。

 クラヒもこの都市では魔法はほとんど使えないはずなのだが、そんな事王侯貴族から見ればどうでもいいらしかった。


 王侯貴族の中で最もクラヒに執心しているのがノーラ王女。眉目秀麗の青年を何人も侍らせ、王族の中では二番目に大きな勢力を誇っているという人物だ。


 性格は活発で奔放、頭はいいが好き嫌いが激しく、気に食わない人物を都市システムに違反しない方法で監獄にぶちこんできたという。クラヒを狙うものには容赦しないと公言しており、ノーラ王女はクラヒを助け出そうとしているクール達にとっては最大の敵となるだろう。



 監獄を破れないのならば、正規の解放を目指すしかない。

 解放するだけならばノーラ王女の解放申請が受け入れられるのを待ってもいいのだが、そういうわけにはいかない理由があった。



 ノーラ王女がおそらく、クラヒを思い通りにするための方法を用意しているからだ。



 ノーラ王女の解放申請がいつまでたっても受理されていない理由については、様々な推測が立っていたが、正確な情報はなかった。

 だが、ノーラ王女は度重なるクラヒ入手失敗にかなり苛立っている。


 王族たる彼女には、監獄のルールそのものを変える権限がある。今はまだルールの変更にまでは手を出していないが、それも時間の問題だろうと噂されている。


 ズリィがノーラ王女のエリアで情報収集に努めてくれている。状況が変わったらすぐに教えてくれるだろう。そこが、クール達に与えられたタイムリミットだ。




 だが、打つ手がなかった。クールには《千変万化》が窺っているという『機』が何なのか、全く思い当たらなかった。


 クラヒを正規の手段で解放するためにはまず解放申請を行う必要がある。

 それをあげられるのは貴族たるクラス6以上のみ。だが、クラス6以上のメンバーは全員他の王族の派閥に入っている。


 精神を読み取るセンサーすら存在するこの都市で裏切りや内通はかなり難しい。この都市では階級が高くなればなんだってできる。街中に設置されたカメラの映像を見ることも、音声を聞くことも、他の市民のメールを確認する事だって――。


 クール達の行動だって、いつ露呈してもおかしくはないのだ。


 芳しくない状況に顔を顰め、胸を押さえるクールに、クトリーが怪しげな笑い声をあげる。


「くくく……朗報があるぜ。下級民とコンタクトが取れた。警戒されてはいたが、このクトリーならば、子どもを手玉に取るなんて簡単だ。何しろ、最低だからなあ」


 このコードにおける下級民とは、ある種、罪人よりも更に下の連中である。


 罪人は都市規則の下であらゆる権限が奪われていたが、下級民はそもそも権限を持っていない。


 都市のシステムは下級民を人として扱わない。


 罪人は命を奪われない。何故ならば、この都市の規則には死刑は存在しないからだ。


 機装兵は人命に配慮して動く。専守防衛を基本とし、やむなく制圧行動に出る際もできるだけ殺さないように配慮する。


 焼却砲を始めとする強力な殺傷兵器は都市内部では基本的には人に向けて起動する事ができないし、他にも市民の権利を守るための様々な規則が存在している。


 だが、それらの規則は、市民ではない者達に適用されない。


 故に、都市システムに守られない下級民は市民から隠れるように住んでいる。市民の目に、つかないように。捕まり奴隷のように扱われたとしても――誰も守ってくれないから。


 市民を恨んでいる下級民とのコンタクトは情報収集の中でも危険な部類だ。だから、この中では最も修羅場をくぐっているクトリーの仕事になった。

 都市システムの生成した葉巻を一吸いし、煙を吐き出し、クトリーがため息をついて言う。



「オレ達が外部からやってきたと知ったら、口が軽くなったぜ。もっとも、旦那も先にコンタクトを取っていたらしいがな。くく……何考えているのか知らねえが、近衛にならねえかとスカウトされたらしい」


「それはそれは…………大胆ですね」


 余りにも大胆な策だ。市民を忌み嫌っている下級民を近衛にしようとは。

 そもそも、市民権を持たない下級民を近衛に任命する事はできないはず。この都市で市民権を持たない者に権利を与えるのはかなり難しい。クール達に与えられたのはあくまで例外だ。


 それとも、クール達が知らないところで何か計画が進んでいるのだろうか?



「旦那の奴、かなり嫌われていたぜ。どうやら下級民にとって王侯貴族は積年の恨みの対象らしいな。っと、話がズレたな…………奴らから面白い話が聞けた」


 面白い話、ですか?


 眼鏡の位置を直すクールに、クトリーは不敵な笑みを浮かべて続けた。




「もうすぐ、ここの王が死ぬらしい。王族の連中が外部から戦力を集めているのは皆、次の王位を狙ってるからだそうだ。旦那から聞かされた話とは全然違うな?」



 王の死。王位を狙う。普通に生活していたらまず聞かないであろう物騒な言葉に、思わずクールは息を呑んだ。



「王位が空位になった瞬間、都市システムの基本的な部分が大きく制限されるそうだ。明言していたわけじゃないが、オレが話を聞いてきた下級民の奴らも何か計画しているみたいだった。奴ら、武器を用意してやがるし、人数もかなりいるみたいだ。けけけ……面白くなってきたな」


 間もなく訪れる王の死。王位を狙い虎視眈々と戦力を集める王族に、武装した下級民達。


 その情報が真実ならば、《千変万化》の言っていた目的――『王族の保護』の意味もまた違って聞こえてくる。

 この都市に君臨し、王位を狙い戦力を集める王族達を強制的に保護するのは、言うまでもなく監禁されていた彼らを助け出すよりもずっと難しい。機装兵や都市システムの援護を考えれば、彼らの戦力は一国をも大きく凌駕するだろう。



 武帝祭の頃から腕を上げたクラヒだって負けた。現れたコードの兵隊を何十体も戦闘不能にしたが、無尽蔵に襲いかかってくるその数に敗北した。

 クール達が足手まといだったというのもあるだろうが、仮にクール達がいなかったとしても敗北は時間の問題だっただろう。



 今回の《千変万化》には仲間が二人いるらしいが、たった三人でどうにかなるような依頼ではない。



 だが、クールに理解できるような事を《千変万化》が理解していないわけがない。





 もしかしたら――僕達はとんでもない相手に借りを作ってしまったのかもしれませんね……。





 とても自分達では手に負えない任務だ。おそらく、リーダーであるクラヒがいたとしてもどうにもならないレベルの、そんな任務。

 それに比べたらクラヒを救い出す事くらい容易い事のように思える。

 


 《千変万化》は一体どのような恐ろしい策を以てこの難局を乗り越えるのか?



 身体の芯から湧き上がってくる怖気に、クールは思考を打ち切った。




 冷や汗を拭い、眼鏡を持ち上げる。

 これ以上深くは考えてはならない。今は自分達にできる事を――クラヒを救う事だけを考えるのだ。


 






§ § §








 

 アリシャ・コードの一日は輝きに満ちている。

 都市システムにより完璧に管理された部屋はアリシャにとって揺り籠であり、城であり、世界そのものである。そこには悩みも恐怖も柵も存在しない。それら負の感情はアリシャにとって、学習の時間に都市システムが提示してくる資料の中にのみ存在するものだった。


 物心ついた頃から、アリシャはこの狭くて広い部屋の中にいた。この部屋と極稀に部屋にやってくる数少ない客だけがアリシャの全てであり、それに満足していた。


 外への興味は尽きなかったが、外に出たいと思ったことはなかった。

 この部屋には全てが揃っている。自然を見たいと思えば都市システムに命令すればいいし、必要な物は全て用意してくれる。

 都市システムによって用意されるスケジュールも、決して強制されているものがなかった。そうするのがアリシャ自身のためだからこそ、アリシャは従っているのだ。



 アリシャの仕事は、極稀に連れてこられる人を自分の側仕えとして任命する事だけだった。

 というより、アリシャの持っている権限はこの部屋の操作権限と、配下の任命権だけだ。都市システムからの学習でそれ以外の権限も持っているはずという事は知っていたが、それらは全て凍結されていた。

 任命を拒否してもいいが、それは無駄だし、意味のない行いだ。アリシャが任命しなければ、アリシャより上の権限を持つ者――アリシャをこの部屋に置くと決めた王が代わりに任命するだけだ。



 偉大なるコードの王の手を煩わせるわけにはいかない。



 外の音は聞こえないが何をすればいいかはシステムが教えてくれる。

 任命はとても簡単な仕事だ。その上、その仕事の機会もほとんどない。執事と侍従はたまに変わるが、近衛は機装兵が担当しているからだ。最近になって機装兵から人間の近衛に変わったが、それも部屋の中のアリシャにとっては余り意味のある変化ではなかった。


 珍しいのか、扉の外から観察される時間が増えたが、それも気にならなかった。唯一、部屋の中で扉だけがアリシャでは操作できないから、扉の窓が透明になる時間は貴重な時間だ。


 アリシャを取り巻く状況が変わったのはそれまで滅多に存在しなかった扉の窓が透明になる時間が増え、一月ほど経った頃だった。


 扉を破壊しようとした近衛が五人程消えた。そして、侍従長が一人の青年を新たな近衛にするために連れてきた。





 クライ・アンドリヒ。




 初対面の時から、変わった雰囲気の青年だった。


 最初に連れてこられた近衛よりもずっと威圧感がなく、アリシャに何の興味も持っていないオリビアやジャンと違って、その目はアリシャをしっかり見ていた。

 そればかりか、手を振ったら振り返してきた。初めての反応に、アリシャは思わず目を丸くしてしまったくらいだ。


 そして、翌日からその青年はアリシャの部屋の前に居座るようになった。


 アリシャを見に来る近衛は何人もいた。だが、その近衛達と違って、その青年はなかなかいなくならなかった。扉の窓はずっと透明のままだった。

 どうやら、青年は特にアリシャに用事があって来たわけではないらしい。


 初めは戸惑ったが、すぐにアリシャは適応した。


 こんな機会はなかなかないだろう。アリシャにはほとんど権限というものがないし、近衛にやってもらう事もない。この青年だっていついなくなっても不思議ではない。


 この部屋で見せられる事を見せた。アリシャのお気に入りの風景を、この部屋の有する素晴らしい機能を、アリシャが描いた絵を――その全てを、青年はにこにこしながら眺めていた。

 数少ない見せられるものを全て見せきったその時、アリシャは強い満足感を抱いた。初めて近衛がいてよかったと思った。もう少しいてもいいと思った。そして、部屋の前に来てくれたらいいなとも。


 そしてやってきたおやつの時間。テーブルと椅子を扉の前に移動し、初めての二人でのティータイムを楽しもうとしたその時、アリシャは見たのだ。





 青年が取り出した、真っ黒な不思議なおやつを。





 ――それは、これまでアリシャが見たことのないおやつだった。


 そんな物質がこの世に存在しているという事すら、アリシャは知らなかった。味の想像などまったくつかない。


 思わず釘付けになるアリシャの前で、青年はそれを食べ美味しそうに目を細めて見せた。




 これまでアリシャは自分の境遇に不満を抱いた事はない。


 システムの用意してくれる物は完璧だ。いつも提供されているおやつもこれはこれでおいしいし、アリシャの体調を元に栄養価まで考慮に入れて選ばれている事を知っている。

 それでも、青年の食べている未知のおやつと比べて自分に提供されているおやつは少々ユーモアに欠けるように思わざるを得なかった。


 アリシャはここまで青年のおやつに釘付けになっているのに、青年がアリシャのおやつを大して見ていないのがその証拠だ。

 味はこちらの方が上かもしれない。いや、上に決まっているが…………まさか外にあんな物が存在していたなんて。


 打ちのめされた気分でおやつを食べ終える。だが、すぐに少し落ち込んだ気分は回復した。


 冷静に考えれば、落ち込む必要なんてない。あのおやつを知ったことで、アリシャの知識は少しだけ増えているのだ。それを考えればむしろ今回の件はアリシャにとってプラスですらある。

 もしかしたらシステムもいつかあのおやつを出してくれるかもしれないしと、前向きに考える事さえできた。




 ――だが、それは、アリシャをやきもきさせる日々の始まりでしかなかった。




 二日目以降も、青年はいつもいつもアリシャの部屋の前でそのおやつをそれはそれは美味しそうに食べ続けた。どうやらあの青年が持つ鞄には真っ黒のおやつが大量に入っているらしい。

 時には自慢でもするかのように、時にはアリシャの反応でも楽しむかのように、眼の前でそのおやつを振ってみせた。


 いや、わかっている。その行動には嫌がらせの意図がない事は。

 青年はアリシャにそのおやつをあげてもいいと思っているのだ。ただその手段がないだけで…………でも、それは嫌がらせと何も変わらない。




 食事の時間に食べているものもアリシャが食べている物と違ったが、それはまだ我慢できる。


 システムが用意したものだからだ。システムで用意できるのならば、いつかアリシャの口に入ることもあるだろう。


 だが、その真っ黒いおやつは違う。きっと今後青年がいなくなったら、二度とアリシャの眼の前に現れる事はないだろう。そのおやつには、そういう『凄み』があった。



 正直に言おう、とても気になった。アリシャに手に入らないという事は手に入れる必要がないという事だ。それはわかっているが、もしかしたらだが、この都市のシステムがその存在を知らないだけの可能性だってある。


 だが、アリシャの部屋はほぼ完全に外部の世界と遮断されている。 いくら青年が渡そうとしたとしても手に入れる術はないのだ。



 今日も諦めきれずにじっとおやつを見ていると、青年の近くに、もう一人新しい近衛の娘がやってくる。しばらく何か会話していたが、その青年は何でもない事であるかのように、その真っ黒のおやつを渡し始めた。




 ――そのとても貴重なおやつを難しい表情で食べる娘を、アリシャは呆然と見る事しかできなかった。


 アリシャとそのおやつの間には数十センチしかないのに、たった一枚扉があるばかりに手が届かないとは。


 だが、仕方ないのだ。方法がないのだ。外との遮断だってアリシャを守るために存在しているのだ。

 せめて、青年がそのおやつを食べなければいいのだ。自前のものなど食べないでシステムが用意してくれるものを食べればいいのだ。


 扉に身体を、頬を張り付け、一生懸命不平を表現するアリシャの前で、青年は何かを思いついたように鞄に手を入れ、紙の箱を取り出す。


 どうやらあの小さな鞄には真っ黒のおやつ以外にも色々入っているようだ。

 一体今度はなんだろうか? 興味から少し落ち着きを取り戻したアリシャの前で、青年がティーカップを取り寄せ、そこに向かって紙箱を傾ける。


 注ぎ込まれる真っ黒のどろりとした液体に、アリシャは今度こそ、我を失った。








 アリシャに与えられた権限は少ない。扉は開けられないし、部屋の外には声もメールも物も届けられない。部屋の機能だって一定の決められたものしか使えない。

 だが、そんなアリシャが外部の物を欲した時に取れる手段が、たった一つだけあった。


 可能性だけだが、たった一つだけ。



 今まで使った事はなかった。余りにも不相応な権利だからだ。

 

 部屋は遮断されている。だが、たった一つだけ外部との接続が残っている事を、アリシャ・コードは知っていた。



 王だ。アリシャは、唯一、都市の支配者、偉大なるコード王とだけは、連絡を取ることができる。

 それは、アリシャがコード王の遺伝子を継いでいる証だった。


 こんな事を頼むのは少し恥ずかしいが、このままでは青年は明日も明後日も同じようにアリシャの眼の前で真っ黒のおやつを食べるだろう。今日の様子を見る感じでは、もしかしたらこれから先、バリエーションが増える可能性すらある。


 王に誠心誠意頼み込めばなんとかなるかもしれない。もしも却下されてもそれはそれで納得できるのだ。


 アリシャは覚悟を決めると、連絡を取るために仮想端末を呼び出した。

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