伝説の都市ユグドラ

310 恐るべき男

「うーん…………ま、ますたぁ、駄目です…………ここは煽っていい状況なんかじゃ…………はッ! …………夢?」


 ティノ・シェイドはハンターだ。お姉さまからの訓練と経験で、どれほど疲労困憊していても何かあればすぐに対応できるように鍛え上げられている。

 ぐっしょりと汗で湿ったベッドから身を起こす。それと同時に、昨日の記憶がどっと押し寄せてきて、ティノは思わず頭を押さえ、大きく息を吐きだした。


 それは、目の前で推移を見ていてもさっぱり理解できない、まさしく神の如き所業だった。


 途中までの行動も全く意味不明だったが、最後のみみっくんの中での出来事はそれに輪をかけて意味がわからない。

 途中まではしっかり状況を理解していたはずなのに、最後の最後、ティノが必死に逃げている間、たった数分の間に、全てが終わってしまった。



 ティノが最後に見たのは、みみっくんの体内に存在する謎の街を怒濤の如く流れる黒い水と、緊張感のない表情で手を振ってくるマスターの姿だ。


 あの攻撃は――もはや攻撃などという単語で呼んでいいのかどうか不明だが――絶対に、人間の手でどうにかできるような規模ではなかった。一軍を率いたとしてもどうにもならない、圧倒的で神秘的な力だ。

 それをたった一人でどうにかしてしまうなんて、さすがに信じられない。いつもマスターの行動を神神言いながら応援しているティノでも正直、少し……いや、かなり引いた。


 ティノはてっきりマスターが呪いをみみっくんの中に封じ込めるのだと思っていたのだが…………思い返してみれば、ますたぁ、私の提案にイエスともノーとも言っていませんでしたね……。


 手腕が違い過ぎるのは最初からわかっていた事だが、あの域には――才能があると言われたティノが後何年……いや、何十年研鑽を積んだところで、とても達せるとは思えなかった。そもそも相手は他の《嘆きの亡霊》のメンバーがどうにもできなかった相手なのだ。

 逆にどうしてあちこち呪いを連れ回り、あそこまで引っ張ったのかわからない。まさか、全員に試練を振るためでもあるまいし……。


 これまで散々酷い目に遭っていたが、昨日の呪い騒動はその中でも間違いなくトップクラスだ。肉体的にも大変だったが、精神的なストレスが大きい。これまでマスターの後輩として幾度となく試練を受けてきてだいぶ修羅場にも慣れたと思っていたが、まだこの世にはあんなに恐ろしいものがあるなんて、世界が広すぎる。


 みみっくんから助け出された後の事は、余りよく覚えていなかった。肉体的にも精神的にも限界で、完全に放心状態だったのだ。

 あの時のティノは生けるゾンビみたいな状態で、ただ恐ろしいまでの偉業を成したマスターからそそくさと逃げ帰る事しかできなかった。人は理解できないものを恐れるというが、あれは多分ティノの本能が下した選択だったのだろう。


 凄く眠かった。このままベッドで眠ってしまいたいが、そうはいかない。

 まだ身体は重いが、少なくとも立って歩けるくらいは回復しているのだ。昨日は無様な逃亡を見せてしまったのだから、すぐに名誉挽回せねば見捨てられてしまうかもしれない。


 そもそも、きっとマスターはティノの事を心配しているはずだ。心配していると思う。心配していたらいいなぁ。


 いつも通り、朝に起きられたのはこれまでの厳しい訓練の結果だろう。

 まだ少しだけ折れかけている心を叱咤し、シャワーを浴びて手早く着替える。逃げたい時に逃げない方法をティノはよく知っていた。勢いに任せて前に出るのだ。




 外を歩く。市民から商人、ハンターから騎士まで、帝都は呪いの話題でいっぱいだった。

 あの呪いは一般人でもわかるくらい強烈な気配を持っていたし、マスターを追いかけ帝都中を練り歩いたのだ、話題にならない方がおかしい。


 噂話に耳を傾けながらクランハウスに入る。あれほど強力な呪いが暴れたのに、クランハウスがほぼ元の形を保っているのが少し不思議な気分だ。


 生物の思念をその源とする呪いは大抵の場合、生物以外に影響を及ぼさないと聞いたことがあったが、真実なのだろう。

 そして、生物であるはずのティノがあの呪いに巻き込まれてちゃんとしっかり生きているというのはつまり……………つまり、マスターは神!



 覚悟を決めて、クランマスター室への階段を上がる。



 クランマスター室では昨日あれほどの事をしでかしたマスターが、大きな杖を抱えながらみみっくんに立ち向かっていた。



「さー、みみっくん。リピートアフタミー、こ、ん、に、ち、は!!」


「…………」


 ますたぁ、お願いですから、そう変な事をやらないでください。

 ティノとしてはお茶目なところもマスターのいいところだといいたいが、こうも落差があると感情がついていかない。


 マスターがティノに気づき、杖を抱えたまま笑みを浮かべる。


「あぁ、ティノ。おはよう、大丈夫だった?」


「は、はい。それはもちろん…………ますたぁも無事で良かったです。ところで、ますたぁは何を……?」


 宝箱に話しかけているように見えましたが…………ティノが少し疲れていたのかもしれない。

 マスターが持っている杖は、私室にお邪魔した時に飾ってあった物だった。どんな能力を持っているのかはわからないが、まだ呪い騒動の翌日なのだ、きっとティノでは想像もできない凄いアイテムなのだろう。


 上目遣いで恐る恐る尋ねるティノに、マスターはにこやかに言った。


「みみっくんと会話できないかなーと思ってね。随分優秀な宝箱みたいだし……」


「そ……そうですか……」


 まったく理解できない。確かにみみっくんには口はありますが……。

 そもそも、呪い騒動を(あちこちに試練を振りまきながら)片付けたマスターは今帝都で最も求められている人物のはずだ。重要参考人として貴族や探索者協会から呼び出されてもおかしくないはず……真っ先にクランハウスに来ておいてなんなんだが、どうしてこんなところでのんびりしているのだろうか?


 何故か胸がどきどきした。これはきっと、恋ではない。


 トレジャーハンターとして熟達すれば何事にも動じなくなると聞いていたのだが、一体いつになったらティノはその境地に行けるのだろうか?


 トレジャーハンターの境地というよりは諦めの境地にいるティノに、マスターが言う。


「いやー、しかし参ったよ。あの後あちこちから連絡が来てさ…………エヴァを取られちゃったよ」


「!?」


 なるほど、道理でのんびりと宝箱と会話しているわけだ。

 副クランマスターのエヴァはともするとティノと同じくらい試練を受けている人物である。さすがに命の危険にさらされる事は余りないようだが、ろくに情報共有もなく神算鬼謀の身代わりにされているのだから、どちらが楽かはわからない。


 そして、その言葉にぴんときて、ティノは戦々恐々としながら確認した。


「エヴァさんを身代わり――代わりに対応しているという事は…………もしかして、ますたぁ……お忙しいのですか!?」


「あー、うんうん、そうそう。忙しいんだよね……呼び出しに応じてもどうせ僕にできる事は何もないし…………うーん、意志は有ると思うんだけど、やっぱり音がないと『丸い世界ラウンド・ワールド』は効果がないんだな」


 ぶつぶつつぶやきながらうんともすんとも言わないみみっくんを見ているマスター。だが、ティノはそれどころではなかった。


 脳裏にぐるぐると嫌な考えばかりが浮かぶ。マスターが忙しいと言っている時でやばくなかった事はないのだ。

 まさかあの呪い大騒動以上の災厄が迫っているのだろうか?


 あの呪いの精霊人以上の怪物などとても想像できないが――もしかして、あの騒動はまだ終わっていない、とか?



「ま、ますたぁ…………あの、昨日の呪いは――」


「あぁ……そこにあるでしょ? 宝石はエリザが持ってったけど――」


 マスターが机の上を指す。そこには、十字架のペンダントを下げたクマのぬいぐるみの前に黒い杖と剣が置かれていた。

 その腕にはティノがみみっくんの中で手に入れてプレゼントした指輪が無理やり嵌められている。


「呪い五点セット!?」


「杖と剣は返さないとね…………何か言われたら」


 帝都中を騒がせた呪物で完全に遊んでいる。一番やばそうだった呪いの精霊石はないようだが、半端じゃない。

 余裕の表れなのだろうが、傍から見ていると心臓に悪すぎる。ただでさえどきどきしているのに、そんなにティノをどきどきさせてどうするつもりなのだろうか?


 と、そこで、マスターがふと何か思いついたようにティノを見た。


「あー、そうだ。ティノに話があったんだけど――」


「……は、はい。何でしょう…………?」


 限界だと思っていた心臓の鼓動が更に加速する。このままではお姉さまの『絶影』を取得してしまいそうだ。

 心臓の鼓動を意図的に加速し爆発的な速度を得るあの技は鍛え方が足りないと心臓が破裂してしまう恐ろしい技でもある。


 身体が熱い。熱いのに、寒い。緊張のしすぎだ。今にも倒れそうになっているティノに、マスターが続きを言おうと口を開きかける。

 その瞬間、クランマスター室の扉が勢いよく開いた。


「クライちゃん、大変なの! 今すぐ来て!」


 部屋に飛び込んで来たのはお姉さまだった。思わず身を震わせるが、ティノに視線すらよこさず、一目散にマスターに駆け寄る。

 お姉さまはいつだって気が短いが、ここまで慌てているのは珍しい。マスターも目を白黒させている。


「な、何かあったの?」


「いいから、早く!」


 お姉さまに手を引かれ、マスターが焦ったように周囲を確認する。ティノに視線が向けられるが、幼馴染のマスターでも止められないお姉さまがティノに止められるわけがない。


「わかった、行くよ! ティノもおいで」


「え? あ、は、はい…………」


 持っていた杖を押し付けられるように渡される。持ってこいという事だろうか?

 今回お姉さまが呼んでいるのはマスターだけのような気がするが、おいでと言われてしまえば否応もない。


 お姉さまに手を引かれ、マスターが困ったような顔で続く。ティノはなかなかずっしりしている杖を抱きかかえ、早足でそれについていった。




§ § §





 突然クランマスター室にやってきたリィズに手を引かれ、まだ呪い事件の話題が溢れている帝都を歩いていく。

 幸いな事に、呪い事件の発端が僕であるという事までは知れ渡っていないようだ。レベル8ハンターが騒動を起こしたなどと知られれば問題になるからだろう。

 だが、騒動の後始末はエヴァに任せたので、程なくして収拾するはずだ。こういう対外的な対応はエヴァにお願いするに限る。


 皆が引きずられるように歩く僕達を見ていた。後ろからは僕の一人で行きたくないという我儘に巻き込まれたティノが『丸い世界』を抱えてわたわたついてきている。


 …………なんで杖持ってきてるの? 重いでしょ、それ。


 リィズに引っ張られたどり着いたのは、最近何かと来る機会が多い、《剣聖》の道場だった。


 何かあったのか、半壊した門には立入禁止のテープが張られ、市民達が集まっている。

 何人もの騎士達が深刻そうな表情で話し合っていた。それらをかき分けるようにして、リィズが僕を中に導く。


 そして――広々とした道場の中に広がっていた光景を見て、僕は絶句した。


 広々とした屋外の練兵場には、無数の剣士の格好をした石像が立ち並んでいた。極めて精巧で、今にも動き出しそうな、剣士の石像だ。

 異様な光景に、ティノが小さな悲鳴をあげる。大きく深呼吸をして、恐る恐るその中の一体に近づく。


 険しい表情に、かっと見開かれた目。その手がかかった剣は石ではなく本物だ。悪趣味なくらい良くできている。

 ティノが僕の袖を掴み、蒼白の表情で言う。


「こ、これって、まさか…………」


「………………な、なかなかよくできた石像だなぁ……」



 …………この間追いかけられてやってきた時は石像なんかなかった気がするんだけど、気の所為かな?



 こんこんと石像を叩きながら、一体一体確認する。どれも本当に精巧で、同じものは二つとしてない。


 というか、完全に人間だった。余り信じたくはないが、僕にでもわかる。

 人間が、石になっている。ふしぎー。


「ま、まぁ、きっと、よくある話だよ」


「!? え!? えぇ!? こ、これって、よくある話なんですか!?」


 ティノが目を見開き、きらきら綺麗な瞳で僕を見る。


 ほら……神話とかで、よくあるよね……。


 なんというかこう、原因についても想像がつくよ。この間、原因を引き連れてやってきたばかりだからね。


「クライちゃん、こっちこっち!」


 リィズが手招きしてくる。僕はもう吐きそうな気分だったが、とりあえずそちらに向かう。

 石像の数は十体や二十体じゃない。ほとんど被害が出ていないと聞いていたのに、詐欺だ。


 そこにあったのは、石製の檻だった。中には格子を握りしめ、大きく口を開け咆哮するルークの石像が置かれている。近くには、険しい表情で剣を握りしめた《剣聖》の石像もセットで置かれていた。大体予想はついていたが、実際に目で見ると一瞬、息が詰まる。


 至近距離から見開かれたルーク・サイコルの目を見つめる。だが、その目の焦点がこちらに合う事はない。



 そ、そういえば、あの呪い――二度と剣を持てない身体にしてやるとか言っていたね。




「クライちゃん、ルークちゃん、まだ生きてるかなあ?」


「…………と、とりあえず、口に埃が溜まらないようにマスクでもつけてあげようか」

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