第2話雨濡れの篝火
「はぁ……」
ある春の放課後、燕ノ澪(えんのみお)は、黒い傘を手にため息を吐いていた。紅葉色の瞳が灰色の空を映し、微かな風が長く伸びた濡羽色の髪を揺らす。
物憂げにため息を吐く様子は、深窓の令嬢のような雰囲気だった。
「遅いな……」
今は部活が終わり、友人が来るのを下駄箱で待っているところだ。
部活の最中は降っていなかった雨が、しとしととアスファルトに降り注ぐ。空の灰色は、まるで澪の心の写しであるかのようだ。
柱に背を預けて立っていると、誰もいない下駄箱にコツコツという足音が聞こえてきた。
「げっ、降ってんじゃん」
足音の主は大きな声でそう言うと、澪の近くまで歩いて寄ってきた。
「ごめん、待たせたな」
そう言って片手を上げるのは、蒼穹のような蒼い瞳に茶色のショートボブの少女、橘花穂乃果(たちばなほのか)だ。
穂乃果は澪と同じ剣道部に所属している生徒で、中学の頃からの友達だ。
「いいよ、それよりあった?」
部活が終わった後、穂乃果は教室に忘れ物をしたとかで一度戻り、澪はそれを待っていたのだ。
「おう。忘れ物はあったんだが……」
穂乃果はバツが悪そうな表情を浮かべて目を逸らし、次いでパチン、と両手を打ち合わせて頭を下げた。
「アタシ傘持ってきてないんだ。入れてくれ!」
このとーり、と平伏する真似をして穂乃果は言う。
そんなことしなくても、入れてあげるのに。
「いいよ。さっきのリアクションで予想できたし」
そう言って笑うと、穂乃果も礼を言って笑ってくれた。
瞬間、ドキッと心臓が跳ねた。澪はそれを悟られないように、早く行こうと穂乃果を急かして歩き出した。
「今日も気合いは入ってたな、先輩方」
肩が触れ合うほどの距離で歩きながら、穂乃果が言う。
「アタシたちがどれだけ弱いかってのを、また思い知らされた」
澪と穂乃果は中学生の3年間を剣道部に所属して過ごし、一度は本気で全国大会を志したほどだ。
そのため剣道についてはそれなりに自信があったのだが──自慢の刀は、入学直後に呆気なく折られてしまった。
稽古の厳しさは入学から1年経った今でも変わらない。
「でもまぁ、叩かれた分伸び代があるってことだ。アタシは諦めねぇよ。今度こそ、全国に行くんだ」
決意を新たに、穂乃果が拳を握りしめた。
澪は何も言わず頷き、その横顔を眺めていた。
「今度こそ、か……」
自室のベッドの上、勢いを増す雨音を聴きながら、澪は一人呟いた。
脳裏に浮かぶのは、2年前、中学3年生の夏の大会だ。
夏の暑い日だった。澪の敗北で団体戦は準決勝で敗れ、全国への道が絶たれたあの日。会場の裏手で1人泣く澪に、穂乃果は言った。
『まだ、終わってねぇ。舞台が変わるだけだ。……アタシはまだ続ける。……澪はどうする?』
と。
澪は選んだ。彼女と共にある道を。
親友として、仲間として、そして──一人の少女として、彼女に惚れたから。
「穂乃果……」
文句なしにカッコよかった。負けを認め、それを糧として次を見据えるその眼が。小さいクセに、やたら大きく見えたその体躯が。卒業後、剣を手放す仲間たちを労い、手放された思いを背負う、その姿が。その在り方が。
どうしようもなくカッコよくて、どうしようもなく美しくて。どうしようもないまでに、愛おしくて。
澪はベッドにだらりと横になったまま、あの時を思い出して頬を染めていた。
でも、この感情は伝えられない。この思いは、秘めておかなければならないものだ。澪も穂乃果も、今まさに成長の過渡期にいる。
自分で言うのもなんだが、間違いなく実力は上がってきている。この調子なら、夏の全国高等学校剣道大会では団体メンバー入りすることもできるかもしれない。
そんな大事な時期に、穂乃果を困らせるわけにはいかない。
澪は顔の上に腕を置き、そのまま脳裏の光景を焼き付けるようにして眠りについた。
「ハァぁぁ──ッ!」
「小手ェぇ!」
放課後の武道場。今日も今日とて、部活に励む剣士たちの咆哮が響いていた。
その中に混じり、澪も竹刀を振っていた。
正面には、3年生の先輩がいる。先輩は打太刀として、澪の技を受けるために構えていた。
打太刀とは剣道の稽古、型による演舞において技を受ける側であり、逆に仕掛ける側を仕太刀と呼ぶ。
「覇ァァ──ッ!」
甲高く吼え、一足一刀に足を滑らせ、流れるように小手面を打つ。
「手面ェェェンッ!」
そのまま打太刀の奥まで抜け、半周回って残心を取る。
先輩は剣先を僅かに揺らし、もう一度打ってこいと視線で示した。
澪は頷くと吼え、小手面を打ち抜けていく。
振り返って残心をすれば、先輩が手招きしていた。
「燕ノ、小手から面が少し強引だ。力押しでは受け流された時の隙が大きい。前のめりになりすぎないように注意するんだ」
「分かりました。気をつけます」
一礼し、打太刀と仕太刀を交換した後に部長の合図で次へと回る。
剣道は稽古の際、2列に並んで向かい合い、技ごとに横に1人分移動して相手を変えて稽古していく。次は女子の先輩だった。
「澪ちゃーん、さっきのだけど──」
「燕ノさん、今の打ち方だと──」
「燕ノ、今のは──」
最後の地稽古が終わった後、澪は武道場脇の水道でため息を吐いた。
何度も何度も注意されてしまった。その都度注意すると言ったが、いくら何でもこれは酷い。
頭を振って顔を洗い、手拭いで顔を拭いて振り返ると、そこには見慣れた茶髪を短く纏めた穂乃果が立っていた。
「今日は随分言われてたみたいだが、調子悪いのか?」
穂乃果はそう言うと、グイッと澪に近づき、少し背伸びして顔を近づけた。澪と穂乃果は五センチほど身長差がある。
「ちょっとね」
「ふーん……?」
穂乃果は小さな手を澪の額に当てた。それからうーむと唸り、やや間を置いて一歩身を退く。
「熱はなさそうだな。……っと、顔洗ったばっかじゃ当然か」
「そ、そりゃそうでしょ。それに、元々熱はないよ」
心臓が跳ね、つい目を逸らしてしまう。
穂乃果は視線の先に回り込むように摺り足で動き、訝しむような表情を見せた。
だがそれも数秒のことで、澪が黙っていると穂乃果はすぐに微笑んだ。
「なら良いか。早いとこ掃除して、そんで着替えようぜ。今日は風がないせいか、暑くて仕方ない」
そう言うと穂乃果は大胆にも道着の胸元を広げ、パタパタと風を取り込もうとする。身長差の関係でやや高い位置から見下ろす形になる澪の視界に、薄桃色の下着が見えた。
着替えの時に何度も見ていると言うのに、ついドキッとしてしまう。
「……お? どした?」
何も知らない穂乃果は不思議そうに首を傾げていた。
「何でもない。それより、無防備じゃない。男子もいるよ、ここ」
「なーに気にすんなよ。こんな薄い胸誰も興味ねぇさ」
本当に女子高生かと疑いたくなるような言動だが、今に始まったことではない。だが先ほどから、男子の視線がチラチラ穂乃果に向いている気がする。
「早く着替えるために、早く掃除しちゃおう」
穂乃果の背後に回り込み、そのまま小さな背を押して武道場の中へ戻る。穂乃果の無防備な姿を男子に見られているのは、あまり気分がいいモノではなかった。
「地稽古―ッ!」
「「はいッ!」」
部長の号令に部員たちが応え、2列で向かい合って蹲踞した。対面にいるのは、3年生の女子の先輩だ。関東予選の出場経験を持つ強豪選手だが、後輩への気配りができるいい先輩だ。
「始めッ!」
部長の令の直後、大気を揺るがすような声が武道場に炸裂し、剣士たちが動き出した。
立ち上がった直後に仕掛ける者、それを読んでカウンターを張る者、一足一刀で睨み合う者。剣士の数だけ戦い方があって、剣士の数だけ摺り足の擦過音や打突音が響き渡る。
その中で澪は、一足一刀の間合いで構え、先輩の隙を窺っていた。
やや睨み合った後、先輩が動いた。甲高い咆哮に続き、一歩前へ出て剣先を揺らす。その動きに釣られるように澪が飛び込み、U字を描いた竹刀が先輩の小手に吸い込まれ──小手を外し、先輩の竹刀の鍔を打った。
「小手ェェェ──……ッ⁉︎」
手元が狂った驚きのまま体当たりすると、鍔迫り合いの中で先輩が声をかけてきた。剣道は試合中の私語を禁じられているが、地稽古は試合の様相を呈していつつも稽古にすぎない。
「小手打ちの直前、視線が泳いでたよ。打つときは相手から目を逸らさずにね」
「はい、気をつけます……」
頷き返しつつ、早速澪の視線は泳ぎかけていた。その理由は、視界の隅に映る小さな剣士──穂乃果だ。
穂乃果は自分より遥かに大きな先輩を前に退かず、怖じけず、勇猛果敢に攻めてかかっている。小手打ちから引き胴、ステップを刻んでの両手突き。身長差をものともしない素早い動きで、先輩を翻弄している。
澪の視線は釘付けだった。それを隠すために、澪は引き面で視線を誤魔化し、先輩と距離を取ろうとした──が、しかし。
「待って、燕ノちゃん!」
「──えっ」
引き面の残心のまま素早く退く澪を、先輩が腕を伸ばして止めにかかる。次の瞬間、澪は背後からの衝撃に押し倒され、そのまま武道場の床に倒れ込んでしまった。
少しクラクラする頭を持ち上げようとすると、誰かが駆け寄ってくるのが分かった。小柄な体躯と、垂れには橘花の文字。
「おい、澪! 大丈夫か⁉︎」
穂乃果は竹刀を床に置き、倒れた澪を抱き上げた。面金がぶつかる程の距離で問いかけられ、澪はなんとか大丈夫だと返事をした。
一応ということで澪は武道場の端に連れていかれ、防具を外して休むように言われた。どうやら大きく退きすぎたあまり、背後の生徒とぶつかってしまったらしい。
(ダメだ、私……。このままじゃ穂乃果の足を引っ張っちゃう……)
「お前があんなミスするなんてな。どうしたんだ、昨日もだが、調子が悪いのか?」
自分に合わせて面を外してくれた穂乃果が、顔を覗き込みながら問いかけてくる。
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろ。そんな暗い顔して……何か悩みでもあるのか?」
聞かせてくれよ、と大好きな顔が近づいた。言える、ハズがない。
「……なんでもないって言ってるでしょ……!」
澪は首を振り、それから穂乃果と話さなかった。部活が終わり、いつもなら2人で帰る道を、澪は1人歩いて帰った。
気がつけば、雨が降っていた。
傘を持っていない澪は、気づけばびっしょりと濡れている。下着が透け、髪が肌に張り付いて、どこか艶かしい雰囲気を放っていた。そんな女子高生は男たちの視線を惹き──。
「ちょっと待てって」
雨の中、肩を掴まれ声をかけられた。だが、声は男ではない。
「びしょ濡れじゃねぇか」
振り返った先にいたのは、アクアマリンの傘を差した穂乃果だった。
「ウチに寄ってけよ。風邪ひいちまうぞ」
「……いいよ。このまま帰る」
「……ああもう! いいから来いって! 放っとけないだろ⁉︎」
穂乃果は澪の冷たい腕を掴み、強引に引っ張っていく。穂乃果の家は、すぐ近くだった。
「ほら、着替え。アタシのじゃサイズ合わないから姉貴のだけど。……って、髪を乾かせ髪を」
茫然自失ながらシャワーを浴びた澪を椅子に座らせ、ドライヤーで丁寧に髪を乾かしてくれた。それから暖かい飲み物を用意してくれ、制服を洗濯してくれた。何から何まで、されるがままだ。
「で、どうしたんだよ。雨の中傘も差さずに」
「……なんでも」
「なんでもないはナシな。きっちり聞かせろ。友達だろ?」
「……友達だから、よ」
澪は小さく答える。
頑なに話そうとしない澪を見て、穂乃果は悲しげな表情を浮かべた。
「どうしても、話してくれないのか」
その視線は、その表情は、ズルい。必死に目を逸らそうとして、けれど彼女に惹かれる心は、それを許してそうになくて。結局、その目を正面から見据えてしまった。
「……聞いたら、絶対軽蔑される」
「アタシが澪を? そんなわけないだろ」
「その自信を吹き飛ばすくらいの事なの」
「……でも、苦しそうなお前を放っておけない」
穂乃果は退いてくれそうにない。ならいっそ、話してしまえば楽になるのだろうか。
だが、穂乃果を困らせるわけにはいかない。夏の大会、夢のためにも──。
「なぁ……アタシにはどうにもできないことなのか」
その一言と共に、穂乃果が澪の頬を両手で包み、額を合わせるように向かい合った。澪の残り僅かだった理性や躊躇いは、濁流のように流された。
「私は──」
言葉がでない。濁流に呑まれた理性の、最後の一欠片が言葉を止めにかかった。
「穂乃果が──」
言えない。緊張と不安で心臓が早鐘を打つ。この先の一言で、全てが変わる。どう転んでも、今の関係には戻れないだろう。その恐怖が、澪の心を冷やしていく。
「……話してみろよ」
優しげに微笑んで穂乃果が言う。頬に触れる手に平から温かさが伝わり、冷えた心を温めていく。それで、最後の一欠片もなくなった。
「私は穂乃果の事が、好きなの……。友達として、仲間として、でもそれ以上に……恋愛対象として、穂乃果が好きなの……!」
気がつけば涙が頬を伝い、言葉はひどく震えていた。それでも最後まで言い切って、澪は目を伏せた。
恥ずかしさもあるが、それ以上に穂乃果の顔を見ていられなかった。きっと軽蔑している。きっと引いている。頬に触れるこの手が、いつ平手になってもおかしくない。
そんな思いからしばらく何も言えずにいると、澪の顔が抱き寄せられた。
「えっ……?」
「そっか……。ありがとう。その気持ちは、嬉しい」
穂乃果は抱き寄せた澪の頭を優しく撫でながら言う。
「嫌じゃ、ないの……?」
「バカ言え。嫌なわけないだろ。……少し、複雑だけどな」
でも、と穂乃果は続けた。
「アタシは性別で人を選んだり、決めつけたりしない。それがどんな関係性だろうとな。……複雑だけど嬉しいんだ。だから、アタシに教えてくれよ」
その言葉に、澪は顔を上げて問いかけた。
「教える……?」
「そう。この複雑な嬉しさを、シンプルな嬉しさにする──お前と恋人でいることを、特別愛おしく思えるような方法を」
ニッと、どこか挑発的にすら思えるように笑って穂乃果は言った。
挑発的な笑みに釣られ、澪は泣き笑いを浮かべる。
「いいよ。教えてあげる」
そう言って澪は、穂乃果と唇を重ねた。
澪の剣 結剣 @yuukenn-dice
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます