澪の剣

結剣

第1話風前の灯

「うぐ……ッ、う、うぅ……」

 陽の傾きつつある夏の日。大きな大会会場の裏手で、燕ノ澪(えんのみお)は1人うずくまって泣いていた。

 紅葉色の瞳からは涙が流れ、柔らかな風が、長く伸びた黒髪を揺らして消えていく。

 今日は中学校最後の総大、夏の大会の日だった。

 澪は剣道部に所属していて、中堅を勤めていた。

 個人戦は準々決勝で敗れ、ベストエイト。団体戦では2回戦で敗れた。

「私が、二本で負けたせいだ……!」

 準決勝は勝者数2対2、獲得本数3対2で負けた。澪が一本でも取れていれば。澪が勝っていれば。せめて引き分けていれば。

 何か一つ違っていれば、全国大会への駒を進めることもできただろうに。

 後悔は止まることなく、涙と共に湧いてくる。いつまでもいつまでも。気がつけば、日が長いはずの夏の空が茜色だった。


「いつまで泣いてんだよ、お前」

 声をかけられた。

 見上げて、ハッと目を見開いた。

 そこに立つのは、大将戦で一本勝ちをした澪の戦友、橘花穂乃果(たちばなほのか)だった。

「ったく、帰ってこねぇと思ったら。表彰式、もう始まんぞ」

 穂乃果は茶色の髪をガシガシとかき、呆れたように蒼い瞳を向けてくる。

 負けたのに。終わってしまったのに。そのたち振る舞いはどこまでもサッパリしていて、思わず腹が立った。

「──放っといてよ! もう……! なんで穂乃果は平気なの⁉︎ もう私たちの戦いは終わって──」

「終わってねぇよ」

 被せるように穂乃果は言う。バッサリと、断ち切るように。

「まだ、終わってねぇ。舞台が変わるだけだ。……アタシはまだ続ける。……澪はどうする」

 蒼い瞳が問いかけてくる。本当にここで終わっちまうのか? と。

 その姿が、自分より頭一つは小さい体躯が、とても大きく、美しく見えた。



「──まだ、終わってない。終わってないよ、穂乃果」

 ある夏の日から3年経ち、また夏が訪れた。全国高等学校剣道大会、東京予選。その2回戦。澪と穂乃果の所属している高校は、窮地に立たされていた。

 相手校は有名私立校高校であり、澪の大将戦を前にして勝者数は2対1、獲得本数は4対2。

 つまり、この大将戦で何をしても勝てはしない。だが、未来が途絶えたわけではない。灯火はまだ、風前で微かに揺らめいている。

「私がアイツに一本も取られずに、二本で勝てばいいだけでしょ?」

 澪の勝利条件は、相手に一本も取られずに二本取ること。そうすれば、勝者数2対2、取得本数4対4で代表戦に持ち込める。

 だが一本でも取られてしまえば、その後二本で勝っても、取得本数5対4で澪たちは敗北だ。

 そんな状況で、穂乃果は滂沱と涙を流していた。

「アタシが一本も取れなかったせいだ」

 と。中堅戦で二本負けした、自らを責めて。

 奇しくも状況は、3年前の焼き直しだった。違うところがあるとしたら、澪と穂乃果のポジションが入れ替わっている程度。


「アタシが……チクショウ……ッ!」

 穂乃果は袴を握りしめ、悔し涙を流し続ける。

 そんな顔をしないでほしい。せっかくの可愛らしい顔が台無しだ。

 だから澪は、あの時言われた言葉を返した。

「終わってない。……終わらせない。私が勝つから。代表戦、穂乃果に繋ぐから」

 澪は剣道部の部長で、大将だ。だが実力で言えば穂乃果に軍配が上がる。部長だからこそ大将を背負うが、それでも託すなら穂乃果しかいない。

「だから、まだ涙を流さないで。……勝つから」

 そう言って、澪は白線の前に直立する。

 向かい合う場所には、白のたすきを背負う、櫻木という大将がいる。

 一瞬の睨み合いの後、2人揃って前へ出る。

 3歩で抜刀、蹲踞して構える。


「始めぇッ!」

 主審が叫び、決戦の火蓋が切って落とされた。

「覇ァァァァぁ────ッ!」

「セェアァァ──ッ!」

 澪と櫻木の2人が吼え、澪から仕掛けて動き出した。

 櫻木は全国大会常連の選手で、実力としては遥かに格上だ。そんな相手と戦って、1秒も無駄にしていい時間なんてない。

「シッ!」

 澪が一足一刀の間合いに入り、中心を取るために剣先を揺らして相手を誘う。

 だが流石に全国常連、櫻木は釣られず、むしろ釣り返してやるとばかりにニヤリと笑い、剣先を強く押してくる。

「チィ……」

 小手先の技術で勝ち目はない。澪が櫻木に勝つには、策を練って嵌めるしか──!

「ハッ! メェぇぇン!」

 澪は相手の竹刀を払い除け、一足一刀からの飛び込み面を叩き込む。櫻木は首をずらしてそれをかわし、二人の剣士は至近距離で鍔迫り合う。

 がきん、と面金が音を立ててぶつかり合い、至近距離で2人の剣士は睨み合った。

 右へ左へ、押して引いて、澪は鍔迫り合いの中で櫻木のパターンを探って攻める。

「シッ! 小手ェぇッ!」

 澪が強引な引き小手を放ち、間合いを切ろうと後退する。

 櫻木は素早い足捌きで距離を詰め、一瞬の下降の直後、跳ぶような面を放った。

「メェェぇん──ッシャァァッ!」

 今度は澪がそれを受け、再び鍔迫り合いにもつれ込む。

 右へ左へ、押して引いて、右へ右へ。癖を探れ、癖を突け、そのまま殺せ──。


 澪は竹刀を払って間合いを離れ、そのまま一足一刀の一歩外から様子を伺う。今度は追ってこなかった。

(鍔迫り合いを狙ってるわけじゃない……?)

 再び澪は距離を詰め、瞬く間に小手面小手、鍔迫り合いから竹刀を払って間合いを切る。

 やはり、櫻木は追ってこない。

 竹刀の切っ先を澪の喉垂れに向けるだけで、その足は前後左右に揺れるだけだ。

「一つ、見えた」

 付け入る隙。そのための賭け。どこで賭けよう、どの部位に賭けよう。僅かな逡巡の後、澪は四度目の接近を試みた。


「セェあぁァァッ!」

「殺ァァあぁ──ッ!」

 向かい合って2人が吼え、澪は遠間から一足飛びに距離を詰める。

 中段から竹刀を振り上げ、面目がけて一直線。それに対応して、遊弋していた櫻木の竹刀がピタリと止まり、澪の右籠手を切り落とさんとコンパクトな動きを決める。

「メェェぇンッ!」

「小手ェぇッ!」

 澪の飛び込み面と櫻木の出小手。2人の剣士が中間地点で衝突し、櫻木が体を反転させながら引き、澪はそのまま振り返らずに突き抜ける。

掲げられる側は紅白それぞれ1本ずつ。

 主審の旗は上がらない。

 だが、それは想定内。本命は──。

「メェェん──ったァァッ!」

 予想通り、振り返って残心をする素振りを見せた澪に対し、櫻木は矢のような飛び込み面を放ってきた。

 予想通り、計画通り。コイツは残心を追う時、高確率で飛び込み面を放ってくる。

 面の中で口元を歪め、澪は残心を止めた竹刀を右斜めにして振り上げた。

 振り上げた竹刀の腹を飛び込み面が打ち、その勢いを反転させるようにして手首を回し、竹刀をくるりと返して振った。

「胴オォォ──ッ!」


 バコンッ! と雷鳴のような音が響いた。

 飛び込み面の残心を撒き餌にした、渾身の面返し胴。仕切り直しに飛び込み面を狙ってくるだろうと踏んでの一本狙い。外せば盛大に隙を晒すその一手に、澪は賭けた。

 籠手越しの手の平がシビれ、熱い。

 振り返って残心をすれば、天を突くような、赤旗が3本。

「胴あり!」

 まずは一本。観客が湧き、自陣営では穂乃果たちがよくやったと言わんばかりに頷きかけてくる。

 ああ、そうだ。そうして凛々しい顔をしていてほしい。

 澪は面の中で微笑みかけ、呼吸を整えつつ開始線へと足を向けた。

 正面では、櫻木が目を瞑って深く息を吸っている。

 ──気配が、変わる。


「二本目ェッ!」

「覇ァぁ──ッ⁉︎」

 主審の言葉が終わった直後、気合を入れ直そうと叫びを上げたその時。それを逃すまいと櫻木が地を蹴っていた。

「手面ぇぇ───ンッ!」

「ぐっ、つぅ……ッ!」

 瞬間移動したかと思わせるほどの小手面が放たれ、澪は対応しきれず裏避けを選ぶ。裏避け、あるいは三所隠しは、左手一本で竹刀を持ち、切っ先を地面に向けて掲げるものだ。

 右小手は捻られているため打てず、面は左腕に守られ、右胴は体の横に構えられた竹刀が防ぐ。三ヶ所を守る、一見鉄壁に思われるこの構えだが、実は二ヶ所の隙が存在する。

 一ヶ所は、竹刀に守られていない左胴。ここを逆胴で狙うことができる。もう一ヶ所は──。


「ッ……!」

 相対する面の中で、櫻木が嗤った。直後、自身の失策を悟る。

 裏避けを選んだ澪に対し、櫻木の竹刀が挙動を変える。

 小手から面に向けられていた切っ先が徐々に下がり、澪の喉元へ刃が突きつけられる。

「この……ッ!」

 神経を引き剥がすような速度で裏避けを解除しようとするも、既に遅い。

「突きぃ──ィィッ!」

 ドン、と大きな音がして、気がつけば澪は場外で仰向けに倒れていた。

「止め!」

 主審が止めにかかり、澪は首を押さえながら上体を起こした。

「──繋がっ、てる……」

 貫かれた。そう錯覚するほどの威圧と速度だった。

 澪は竹刀が喉垂れを突く直前、首を捻って竹刀をかわし、そのまま突っ込んできた櫻木に吹き飛ばされたのだ。

「はぁ、はぁ……」

 思わず呼吸が乱れる。突かれる直前の、あの殺意、敵意。一切の躊躇のない、凄絶な一突。何かが一瞬ずれてたら、澪の首は半分裂かれていたかもしれない。

 澪は何とか立ち上がり、開始線まで素早く戻った。

「反則一回!」

 主審が赤旗を向けていい、澪は頭を下げる。

 剣道における反則は、反則二回で一本になる。つまり、この後1ミリでも場外に出れば、竹刀を取り落とせば、時間を空費すれば。その時点で反則二回、櫻木に一本入る。


「ハハッ……」

 突然の最後通牒に思わず乾いた笑みが零れ出た。

 絶体絶命、風前の灯──それがどうした。

「やってやる……」

 そんなもの、最初からそうだ。一本取られたら負け、というルールに、反則一回で負け、というルールが書き加えられただけ。勝利条件は何一つとして変わっていない。

「始めぇッ!」

 主審の声に、今度は2人とも吼えることをせず前へ出た。

 一足一刀。面小手胴突の四ヶ所を間合いに捉えた、剣士にとっての死地の間合い。

 その中で、澪はただニヤリと嗤った。

 勝利条件が変わっていないなら、やはりやることも変わらない。一本も取られず、もう一本とる。そのために、賢しく頭を巡らせろ──!

「覇ァァぁ──ッ!」

 喉が千切れんばかりに吼え、探知機代わりの空踏みを繰り出し、釣られないと悟るやいなや鍔迫り合いへと持ち込んだ。


 再び至近距離から2人が睨み合い、互いの瞳が交差する。

 櫻木の瞳は燃え上がるような熱意を帯びていたが、その一方で冷静に状況を俯瞰しているようにも見えた。

 恐らくだが、先ほどのような残心を釣り餌にしての返し技、出鼻技は通じない。となれば残る選択肢は、一足一刀からの飛び込み技か、鍔迫り合いからの引き技のみ。

 2択を迫られ、澪は後者を選んだ。全国常連の櫻木相手に安易な飛び込み技を仕掛ければ、出小手あたりで容易くいなされてしまうだろう。

 だが引き技なら、チャンスはある。密着状態からの瞬時の3択。こちらも同じ3択を迫られるが、この際割り切るしかない。

 実力差のある選手同士の対決の場合、基本的には仕掛ける側が常に不利だ。だから澪は、せめてその不利だけでも対等にしようと前へ出た。

 一瞬たりとも気の抜けない鍔迫り合いの最中、刀と拳を突き合わせて2人の剣士が気高く吼える。次で決めてやると、その殺意を咆哮に乗せ。

「覇ァァァァ──ッ!」

「羅ァァァぁ──ッ!」

 先に動いたのは櫻木だった。全身の力を使い、澪をどんどん押してくる。瞬間悟った。もう数センチで、自身の足が白線を割ることに。

 瞬間、澪は笑った。諦めではない。


「メェェぇぇェェン──ったァァッ!」

 一瞬の振りかぶりの後、霞むような速度で竹刀を振り下ろし、澪が背後へ跳ねた。

 澪の足が、白線を割って会場の外へと出る。

 場外で残心を取り、澪は深く深く、肺の中の空気を全て吐き出すように長く息を吐いた。

 それから顔を上げれば──そこには、紅蓮を思わせる旗が3本、突き上げられていた。

「面あり!」

 主審の言葉が響くやいなや、会場中が大きく沸いた。拍手喝采とはまさにこのこと、観客席からはいっそ煩いまでの拍手が送られた。


 剣道において場外は反則一回となるが、そこには例外がある。

 有効打突を打ち、一本取った後の残心に限り、外に出ても問題にならないのだ。

 故に、自身の足が白線に迫ったタイミングで澪は笑った。

 反則一回でも一本取れる状況で、相手が場外ギリギリにいれば、誰だって押し出しを狙うというものだ。

 だから賭けて、油断させ、最後の最後で渾身の引き面を叩き込んだ。

「勝負あり!」

 主審が赤旗をあげ、声高に宣言する。

 澪は拍手に包まれながら白線に戻り、深く深く、一礼した。

 改めて試合を終えて自陣営に戻れば、そこには一度外した防具を着け直した穂乃果が立っていた。

 面の中に涙はなく、瞳には強い光が宿っている。

「勝ったよ、穂乃果」

「……ああ、見てたぜ。すげぇよ、澪」

「ありがとう。……ねぇ、穂乃果。私はまだ、終わりたくない。だから……」

 澪は自身の胴の上に手を置き、心臓の位置で拳を握った。

「託したわ」

 拳を浮かせ、穂乃果に向けて突き出した。

 穂乃果は頷き、互いの右拳を重ね合わせる。

「任せろ。勝って必ず、全国に行く」

 篝火は託された。穂乃果は歩き出し、澪と入れ替わりで開始線へ足を向ける。

 ──私の役割はこれで終わり。彼女に託したのだから、大丈夫。

 澪は面の中で微笑み、試合場に立つ小さな、けれど強い背中を見送った。

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