7.真実と偽りの間


シンバは溢れる涙を手の甲で拭くと、グッと力を入れ、もう涙が溢れ出ないよう、奥歯を噛み締める。


ロルに、次に会う時は、どんな話をしようか、ついさっきまで、考えていた。


レーチュルとも、次に会う時は友人としてと言うのも果たされないまま、まるで、それはシンバの希望を奪うように、殺害されて行く——。


誰にだって次はあって、誰にだって明日はある筈で、それを誰であろうと、奪う権利などない。


神だって、いつだって見ているだけで、与える事も奪う事もしないのに。


今更、遅すぎる後悔がシンバを襲う。


「犯人像が見えて来たな、ルーセンを憎んでいて、ルーセンの殺人と模倣した殺人をして、ルーセンを挑発するメッセージを送り、ルーセンの知り合いを殺害した——」


ルディーが腕を組みながら、そう言うと、


「それだけじゃない、犯人は彼女がハニエルに似ていると知ってるんだ」


シンバは、そう答えて、眠ったようなロルを見つめる。


「ハニエルに? それはルーセンの最初の被害者の少女に似てるって意味か?」


「ルディーさん、ボクに、サイレント事件の被害者達の写真を見せてもらえませんか?」


「あぁ、いいだろう」


ルディーは頷くと、少し小走りに、一番近くにいた殺人課の刑事の所へ行き、自分の車のキーを渡すと、車の中にあるファイルを持ってくるように命令した。


ルディーは直ぐにシンバの傍に来て、


「他に何か手掛かりはあるか?」


そう尋ねた。シンバは遺体をぐるりと違う方向からも見てまわり、


「・・・・・・左手を引っ繰り返して、手の平を見てもいいですか?」


シンバは遺体に触れてもいいか、ルディーに尋ねる。


「手?」


「ラファエロが描いた絵画の大天使ミカエルと竜のミカエルは、赤十字の盾を持っているんです。だけど遺体は盾を持ってない。その代わりに、手の平に十字傷を作って、盾を表しているかもしれません。それにサイレント事件は手の平に十の文字を刻むんでしょう? 見てみたいんです、その傷を——」


「・・・・・・」


直ぐにオッケーの台詞が出ると思っていたら、黙ってしまうルディーに、シンバは不思議に思う。


「殺人課の刑事じゃないから、遺体に触れるのは駄目ですか? なら、ルディーさんが、左手を引っ繰り返してくれませんか?」


「・・・・・・ひとつ、聞いておきたい」


「はい?」


「ルーセン・C・ファークレイは最初の被害者の少女の手の平に十字傷をナイフで描いたと供述しているらしいが、それは本当か?」


「はい」


「ナイフはどうして出てこなかった?」


「凶器は捨てました、只、それが出てこなかっただけ——」


「・・・・・・手の平の傷を作った凶器は本当にナイフだったのか?」


「はい」


頷くシンバに、そうかと、ルディーは頷き、遺体に近付くと、左手を引っ繰り返した。


「な!? なんで!? これ・・・・・・ナイフじゃない——」


「あぁ」


「焼印!?」


「あぁ」


「どういう事!?」


「・・・・・・お前、本当にハニエルを殺害したのか?」


「え?」


「あの少女の手の平も、焼印だったんだぞ」


シンバの目が見開く。


「嘘だ!」


「嘘じゃない」


「嘘だ、だって、だって、手の平に傷があるって言ったじゃないか!」


「あぁ、手の平に十の傷があったよ、だがナイフで切った跡だなんて誰も言ってない。言ったのは、お前だ——」


シンバは呼吸を乱し、横腹を押さえる。


「よく聞けよ、この犯人は、昔のキリスト事件の最初の被害者の少女と同じ傷跡が左手にある。つまり、これが偶然でなければ、この事件の犯人は、被害者の少女の傷跡を知っていると言う事になるんだ。それはキリスト事件の犯人であるルーセンか、その事件を担当した刑事か——」


「オレじゃない!」


そう叫びながら、凄い冷や汗でびっしょりの顔で、シンバは横腹を押さえている。


「あぁ、お前は少女の傷跡を知らないしな」


そう言われ、シンバはキッとルディーを睨んだ。


「何故そんな顔をするんだ? わからないな、少女を殺したのがルーセンでないと言う証拠になるんじゃないのか? それとも、どうあっても少女を殺したのは自分であると? 誰かを庇っての事か? 今更、蒸し返して悪いが、ハッキリさせようじゃないか。もしかしたら、お前が庇っている犯人が、サイレント事件の犯人である事も考えられる。だろ?」


「・・・・・・オレは誰も庇ってない」


「お前、さっき言ったよな? 被害者の少女とこの女性が似ていると。だとしたら、この事件の犯人は、余計にキリスト事件の犯人ルーセンであるか、その事件を担当した刑事かに絞られるんじゃないのか?」


「オレじゃないって言ってるだろ! オレに彼女を殺す理由はない!」


「理由? 只、そうしたいってだけでいいんじゃないか?」


そう言われ、シンバはカチンと来るが、何も言い返せない。


「だが、少女と女性が似ていると言う事は理由になる。そう思わないか? 人は人を愛すると異常者になる。異常者が人を愛すると殺人者になる。で、お前は昨夜、彼女に自分の連絡先をメモして残しておく程、彼女を気に入ったんじゃないのか?」


「オレじゃない! オレじゃないって言ってるだろ! 聞けよ、オレじゃないんだよ!」


「お前だとは言っていない」


「言ってるようなもんだろ! オレがもし殺したなら、今迄の事件はどう説明するんだ!」


「あぁ、そうだな、サイレント事件の犯人と、この事件の犯人が同一なら、お前がずっと施設にいた時からの事件だからな、説明がつかない。だからお前が犯人である筈ないよな? でも誰かを庇う事はできるよな?」


「・・・・・・しつこいな、誰を庇うって言うんだ」


そう言ったシンバに近付き、ルディーは、さっきから横腹を押さえている手を振り解いた。


そしてシンバのシャツを捲り上げ、横腹を露わにさせた。


「なんだこれ? 相当古い傷だな? 虐待の傷跡か?」


そう言われ、シンバは捲りあがったシャツをグイッと下におろし、


「そうだよ、母親にナイフで肉を裂かれた跡だよ。時々、痛むんだ」


ルディーを睨みながら、言った。


「ナイフで・・・・・・肉をね——」


ルディーはそう呟きながら、冷や汗だらけのシンバを見る。


それは綺麗な十字となる傷跡で、確かに刃物で深く傷をつけた跡と思われる。


「痛むのか?」


「痛いよ」


「急にか?」


「そうだよ、突然、痛みが走るんだよ。でも別にもう治っている傷だよ、精神的なものらしいから大した事ない」


「それにしては凄い汗じゃないか」


「・・・・・・」


もうルディーに対して、敵対心だらけのシンバは、ルディーを睨みつけて、横腹の痛みに少し前屈み状態。


そこへサイレント事件のファイルを持って来た刑事が近付いてきて、


「あの、お取り込み中、申し訳ないんですが、そろそろ被害者の写真を撮らないと」


と、ファイルを差し出しながら、そう言った。


ルディーはファイルを受け取り、頷きながら、


「あぁ、そうだな」


と、そのファイルをシンバに差し出し、


「サイレント事件の被害者達の写真だ」


そう言った。シンバは手を伸ばし、そのファイルを受け取る。


「帰るか」


ルディーは背を向けて、そう言うので、


「歩いて帰ります、通りに出ればタクシーも拾えますから」


シンバはルディーと一緒に帰るのを拒否した。


ルディーは肩をすくめ、


「好きにしろ」


と、サッサと行ってしまう。


シンバは横腹を押さえながら、遺体のロルを見下ろし、ジッと見つめた後、


「さようなら、ロル」


そう囁いて、横腹の痛みのせいで、前屈みになりながら、その場を立ち去る。


歩きながら、わからない涙が溢れ出た。


ロルの死が悲しいのか、ルディーに問い詰められた悔しさか。


——マシュー、どうしよう。


——オレがルーセンだってバレた。


——ボクはやっぱりシンバにはなれないよ。


——マシュー、話を聞いて。


——誰もオレの話を聞いてくれない。


——違う、誰もボクの話を信じちゃくれないんだ。


——ルディーだって、ボクを疑っている。


——当たり前か。


——人殺しを信用なんて、誰もできる訳ない。


——オレだって、マシューやロルを殺した犯人が本当の事を言っても、絶対に信じない。


——オレは・・・・・・なんて事をしたんだろう・・・・・・。


——ルーセンは、なんて事をしたんだろう!


——どうして人を殺せたんだろう!


——どんな理由があっても、人を殺しちゃいけなかった!


——ボクは、この世に出てきちゃいけなかった!


——ボクの居場所なんて、この世界でつくっちゃいけなかった!


——ボクは悪魔なのに!


世間の言う通りだと思った。


人を殺せる人間なんて、悪魔に決まっていると——。


「うぇっ・・・・・・うっ・・・・・・うっ・・・・・・」


まるで小さな子供のように声を漏らし、泣くシンバ。


頬を伝う涙がボロボロと落ちる。


『シンバ、ひとつ嘘をつくと、全部を嘘にしなければならない。だが、ひとつ嘘がバレた時に、全部の嘘が崩れ、真実が出てきてしまうよ。だから、嘘をつくなら、全ての嘘を真実にしなければならない』


レーチュルがそう言っていた事を思い出し、だけど、今更、何が真実かもわからないシンバは子供のように、只、只、泣きじゃくりながら歩く。


トボトボと家路に向かう帰り道を行く子供のように——。


誰も待っていないが、シンバは歩くしかなく、涙をボロボロ落としながら行く。


刑を終えた時を思い出していた。


施設と少年院を行ったり来たりだったが、その世界は狭くて、大きな世界へ出れると言う喜びは大きかった。


それはもう嬉しくて、15年、自分は頑張ったと褒めてあげたい気分で、外に出れる事にワクワクしていた。


出た途端、今度は怖くなって、他の町には行けないと思った。


この町で精一杯だった。


なにもかもが目新しく、只のファーストフードにさえ、鼻血が出そうな程、感動を覚えた。


コンビニエンスストアでバイトしながら、刑事になる為の勉強をした。


刑事になるには、警察学校へ3年間通い、法の勉強や格闘術を身につける必要があった。


卒業後には、直ぐにネット犯罪課に配属された。


一生懸命、働こうって決めた。


1人でも多くの犯罪者を捕まえて、ハニエルのいる天国に行けるようになろうと誓った。


その全てが間違いだったと、シンバは思う——。


そもそも、刑を終えた事が間違いだったと——。


シンバは、教会の前、足を止めていた。


聖歌が聞こえたような気がしたからだ。


古い教会は、昔のような神々しさはなく、寂びれて、神聖さも感じられず、こじんまりとして見えた。


それはシンバが大人になったからかもしれない。


扉を押すと、ギギギッと嫌な音を立てながら開いた。


礼拝堂へ足を踏み入れると、こんな場所だったかなぁと思う程、只の建物に見えた。


確か、ここだったような気がすると、いつも座っていた長椅子の場所に腰を下ろし、正面に飾られてあるキリストの磔を見つめる。


色様々なステンドガラスの輝きがくすんで見える——。


ガタンと音がして、振り向くと、驚いた顔でこちらを見ている神父が立っている。


落とした鉈を拾い、愛想笑いしながら、


「スイマセン」


そう言って、近付いて来た。


「人が来るのは珍しくて。何より、私のよく知っている少年に後姿が似てたものだから」


神父はそう言って、シンバをジッと見つめた。


「・・・・・・その少年って?」


シンバは自分の事であろうとわかっていながら、聞いてみた。


「ええ、必ず、そこの席に座って聖書を読んでいるか、そうしてアナタのようにキリストを、それはそれは熱心に眺める子で——」


「・・・・・・その少年の名は?」


神父は首を振り、


「名は知りません」


そう言った。


それは嘘だと思ったが、もしかしたら名を忘れているのかもしれないとも思った。


だからシンバは、それ以上、何も聞けなくなってしまう。


「昔、ここも人が多く集まった教会だったんですけどね、今となっては誰も来なくて、無人教会になってしまい、時々、私がこうして掃除をしに来るんですよ」


「聖歌が聞こえたような気がしたんですが」


「あぁ、それは多分、私の鼻歌でしょう、中庭で草を刈ってました」


「鉈で草を?」


「生憎、鎌がなくて、倉庫の方に鉈があったので代用したんです、草がもう伸びてて、誰も手入れをしないと駄目ですね」


言いながら笑う神父に、相変わらずの優しい笑顔をする人だなぁとシンバは神父の顔をまじまじ見つめてしまう。


「どうして人が来なくなったんですか?」


「ちょっと事件があったので——」


「事件?」


聞きながら、それはキリスト事件だと直ぐにわかった。


「いえ、別に、お聞きになる程の事じゃない。では、ごゆっくりして行って下さい」


神父はペコリとお辞儀をし、鉈を持って、立ち去ろうとするが、


「神父さん、ボクの話を聞いてくれませんか?」


シンバにそう言われ、神父は足を止め、シンバを見る。


キリストをジッと見つめるシンバの横顔を見ながら、神父は、


「ええ、いいですよ」


優しい笑顔で、承知した。


神父は鉈を置いて、シンバの隣に腰を下ろす。


だが、シンバは一向に喋る様子はなく、只、只、キリストを見つめ続けている。


神父も同じようにキリストを見つめる。


すると、


「あの人はキリストの為に磔になって、あんな風に今も尚、晒されて、神じゃないのに祈られて、辛くないんでしょうか?」


シンバはキリストを見つめながら、そう聞いた。


「・・・・・・アナタにソックリな少年が、同じ質問をして来た時がありました」


神父は昔を思い浮かべながら、そう言った。


もう神父はシンバがその少年である事に気付いているのかもしれない。


暫く、沈黙が続いた後、シンバは重い空気の中、口を開く。


「人間は真実だけを述べて生きる事はできない。だけど偽りだけを述べて生きる事もできない。その中間で、人間は天使と悪魔の間を行ったり来たりする。それが人間なら、ボクは間違いなく人間で、だけど真実を述べれば信じてもらえず、偽りを述べれば、それもまた信じてもらえず——、キリストはそれをどうやって奇跡にしたんでしょうか? ボクにはわからない。真実を述べて信じてもらえて、偽りを述べて信じてもらえて、しかも犠牲を・・・・・・出しているのに——」


上目遣いで、磔のキリストを見ながら、そう言ったシンバに、神父は、


「キリストは1人です、キリスト自身が犠牲になったんです、だからキリストの言葉は誰もが信じるのです。そこにはキリストの犠牲の他、誰の犠牲もない。神はそれを見ています。神だけは見ている。だが、それを信じられないアナタの言葉は誰も信じないでしょう」


そう教えを説いた。


シンバはフッと笑い、


「そうか、だからボクは神から見放され、地に堕ちたんだ」


そう呟いた。


ギギギッと嫌な音が響き、扉の開く音がして、振り向くと、


「シンバ、こんな所にいたのか、探したよ」


と、ロシュが現れた。


「ロシュ・・・・・・どうして?」


「仕事が入ったんだよ、シンバがいなくなったから携帯で呼び出したんだけど、出なくて」


そう言われ、ジーンズのポケットから携帯を取り出して見ると、着信が入っている。


「探してたら、ルディーさんと一緒に出て行ったって殺人課の刑事に聞いてさ」


言いながらロシュが近付いて来て、神父はロシュにペコリと頭を下げながら、席を外すように、外へ出て行った。


「恐らく事件の現場に向かったんだろうって聞いて、その後、僕もちょっと尋問みたいなものにあってさ、シンバも疑われてるみたいな事を聞いて、現場の場所に、急いで車を走らせて来たんだよ。でもどこにもいないから、結局、携帯のGPS機能使った」


言いながら、シンバの斜め後ろの席に座り、


「そんな泣きそうな顔して、何やってんの。辛いなら、どうして僕に電話して来ないの?」


優しい言葉をかけてくれるロシュ。


「同僚に話すより、神様に祈る方が良かったの? でも神様なんて何もしてくれないよ」


そう言ったロシュに、シンバは頷き、


「知ってる」


そう答え、また磔のキリストを見つめる。


「ロシュ、現場、見てきた?」


「・・・・・・あぁ」


「ロル、死んでたね」


「・・・・・・あぁ」


「ロシュはロルと別れたがっていたから、調度良かった?」


「何言ってんだよ、そんな訳ないだろ! ロルをあんな風にした犯人を許せないよ!」


「・・・・・・オレも」


シンバはそう言うと、キリストから目を伏せるように俯き、


「被害者側の気持ちって想像できても、実際に実感しないと、何もわからないもんだね」


大きな涙を膝の上に置いた拳にポツリポツリと落としながら、そう言った。


シンバの背が震えているようで、ロシュは黙り込む。


「ロシュ、オレはさ、ルーセン・C・ファークレイなんだ」


「・・・・・・は?」


「オレはルシファーなんだよ」


「何言ってんの?」


「いいよ、信じなくても。誰もボクの言葉なんて信じない」


『オレ』ではなく、『ボク』と言ったシンバに、ロシュは息を呑んだ。


そこにいるのはシンバだが、シンバではないのだと、ロシュは直ぐに悟った。


「いつか話すって言ったよね。だからロシュには話すよ。聞いてくれる?」


そう聞かれても、簡単に頷けないのか、ロシュは黙っている。


「ロルが殺されたのも、ボクのせいだよ。ボクがハニエルを殺したから、ハニエルに似ていたロルは殺されたんだ。ロルはね、ラファエロの大天使ミカエルと竜という絵画のミカエルの格好そのままの姿だった。犯人は宗教絵画を残した歴史的人物の中でラファエロを選び、ラファエロの描いた、大天使ミカエルと竜を選んだ。そこにはルシファーに宛てたメッセージがあるんだ。ダヴィンチやミケランジェロのような天才ではないが、それを吸収するラファエロのチカラ。犯人はルシファーのような考えは思いつかないが、模倣する事はできるチカラがあり、そして、大天使ミカエルのように、ルシファーを倒すという意味が込められている」


「なら、その絵画は選ばないんじゃないのか? ラファエロの絵画には、もう1つ、似た絵がある。堕天使を駆逐する聖ミカエルと言う絵が。竜という表現でルシファーを結びつけるのはわかるが、堕天使としての表現の方が正しいと思うが?」


「いや、その絵は使えないんだ」


「どうして?」


「その絵のミカエルは、赤十字の盾を持ってないからだよ」


「盾?」


「どうしても手の平の十字傷は必要だろ?」


そう言われ、ロシュは、


「サイレント事件と同一人物なのか?」


そう聞いた。


「なんとも言えないけど、多分ね、そうだと思うよ、鳩の羽がそうだと語ってると思う。ここにサイレント事件のファイルがある。まだ見てないけど、多分、被害者達はナイフで手の平を切られてあるんだと思う」


「・・・・・・」


「ボクもそうだと思ったんだよ、手の平の十字傷って聞いて、直ぐにナイフで切られた跡を思い出したんだ。ボクの横腹のように——」


「横腹?」


「ボクの体には、幼い頃、虐待された時につけられた傷が幾つか残ってて、その中でも横腹はクッキリとナイフが入った跡があるんだ。時々、痛むんだよ。昔ね、その傷を見たハニエルはボクを慰める為か、こう言ったんだ、『ねぇ、ルーセン、私ね、ルーセンに聞いてもらいたい事があるの』と」


言いながら、シンバはあの日を思い出す。


「ボクはね、体の傷を見られたらお終いだと思った。きっとハニエルも、みんなと同じように、気持ち悪いって思うに違いないって。でもハニエルは『私にもね、シンバと同じ傷があるの』そう言ったんだよ。直ぐに嘘だとわかったよ。だって、彼女の体に傷なんて、ある訳がない。勿論、手の平にもね——」


「・・・・・・」


「ボクは知らなかったんだ、彼女の言っている事が真実だって事を」


「手の平に傷はなかったんだろう?」


「彼女は特異体質だったんだよ」


「特異体質?」


眉間に皺を寄せ、聞き返すロシュに、シンバはコクンと頷き、顔を上げ、キリストを見た。


「彼女は聖痕を持つ者だったんだ」


「聖痕?」


再び、ロシュは聞き返す。


「キリストが磔となった時についた傷が、信者達の体に現れる傷跡。科学的には説明できないチカラによって、キリストの傷と類似の傷が体に現れるというもの」


「それが被害者の手の平に?」


「そう。彼女はボクの横腹の傷を聖痕だと勘違いしたんだ。キリストが、ロンギヌスの槍によって刺された跡と類似の傷跡だと思ったんだよ」


「聖痕だなんて、バカバカしい。そんなの自傷行為だろう? 自分でナイフで切ったんだよ、シンバのだって虐待の時にナイフで切られたんだろう?」


そう言ったロシュに、シンバは首を振り、


「彼女の聖跡はホンモノだったんだ。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙6章17節において、聖パウロは聖痕を『イエスの焼印』と呼んでいる。つまり、本当の聖跡とは焼印を意味し、体に焼き跡のような傷が浮かぶんだ」


そう説明した。ロシュは開いた口が塞がらず、次の言葉が見つからない。


「だから凶器のナイフなんて見つからないんだよ、彼女はあの時、手の平に聖痕が出たんだ、只、それだけだった。そんな事、知らないボクは、警察の尋問誘導かと思って、最初は知らないって答えたんだけど、そう言えば、ハニエルはボクと同じ傷があるって言っていたなって思い出したんだ。ボクと同じって事はナイフで切ったような傷だと思い、ボクはナイフで切ってやったと言ったんだ。つじつまは合わないよ、だって、彼女が傷があるって言ったのは前の話で、ボクがつけた傷となると、新しい傷となる。でもボクは彼女を傷付けてない。でも言えなかった。それは『ルーセンと私だけの秘密だよ』そう言って、彼女が傷がある事をボクにだけ教えてくれた事だったから。だからボクはボクがつけた新しい傷という事にしたんだ。なのに、それ以上、何も問われない事に、ボクは不思議にも思っていた。恐らく、警察は彼女の手の平の聖痕を見て、ナイフで切った跡ではない事は事実だが、その凶器も出てこないのに、ルシファーが供述している事を立証する事はできなかった。つまり、立証できない以上、ルシファーの証言だけで真実にするしかなかったんだ——」


まるで、そうでしょう?と聞くように、キリストを見ているシンバ。そして、


「今回の犯人は、ハニエルが、聖痕が体に現れる特異体質だった事をよく知っている者と言う事になるんだ。ミカエルが赤十字の盾を持っていた左手と同じ、ロルの左手に、焼印がされていたから」


そう言った。言いながら、サイレント事件のファイルを手で撫でながら、


「でも今までのサイレント事件の被害者はナイフで傷をつくってる筈。そうしなければ、ルシファーに宛てたメッセージにならない」


そう言った。


「・・・・・・ルシファーは死体をどこに隠しておけたの?」


「あの日、死ぬのはハニエルじゃなくて、ボクだったんだ。ボクの母親は売春婦で、いろんな人と寝ていた。その客からだろう、毒薬をもらったんだ。あの日は朝から妙だった。いつも冷たい祖父母も優しく、父もにこやかで、母はボクにオヤツを用意してくれていた。母から初めてもらったソレはまるで宝物のようで、食べれなくて、ボクは一番大好きな子にあげようと思った。只、それだけの事だったのに、彼女は動かなくなってしまった。それを知った母は、彼女の上等な服を見て、『なんて子だい! こんな子と知り合いだったのなら何故早く言わないんだい! 金儲けできたのに!』ってね。彼女の死体を見て、最初に言った台詞がソレだよ。その後、『殺したのはお前だろう、自分で始末しな。本当ならお前が死ぬ筈だったんだよ、悪運の強い子だね』って、ボクのせいにした。どうやらボクが教会に出入りする事で、祖父母や両親はボクへの虐待が公になる事が疎ましかったようで、ボクを殺害しようと計画していたらしい。本当の事は知らない、ボクが施設に入っている時に聞いた話だから。でも家族がボクを殺したいと思っていた事など、どうでも良かった。そんな事、常に思ってたよ、きっとボクなんて死んだ方がいいって思ってるんだろうなって。祖父が大きなトランクを用意してくれて、ハニエルはそのトランクの中に入って、ボクは彼女を捨てる為に、大きなトランクと一緒に家を出された。どうしていいか、わからなくて、ゴミ捨て場にトランクを置いて、教会へ向かった。教会からの帰り道、トランクはまだ置いてあって、ボクはそのトランクを転がしながら、海へ向かった。明け方まで、ずっと——」


シンバは瞳を閉じて、あの日を思い出す。


キラキラ光る朝日が、海を輝かせ、少年はトランクを開けた。


その海は、昔、溺死した者が大勢いたとかで、余り誰も近寄らない。


だから、少年は少女と2人きりの時間を過ごした。


少女の顔は穏やかだった。


あんまり綺麗だったので、ハニエルという名の通りだと、少年は思った。


少女を砂の上に寝かせ、少年は砂浜に翼の絵を描いた。


少女の手を広げるように置いて、足を少し折り曲げて、まるで空を飛ぶ天使だった。


折角とても綺麗なのに、自分の足跡が砂につくのが嫌だった少年は足跡を手で消しながら、トランクで引き摺った後も消しながら、波間に行き、そして、少女を見て満足した。


少女は死んだのではなく、天使になり、天使の世界へ帰っていたのだと思ったから——。


シンバは瞳を開け、再び、話し出す。


「大きなトランクはゴミ捨て場に捨てたけど、ずっとそこに置いたままだった。ボクはハニエルがいなくなった日々を過ごし、寂しいと言う気持ちを知る。きっとハニエルも寂しいに違いないと、ボクはある女の子をハニエルの所へ連れて行ってあげようと考える。その女の子はハニエルと時々一緒にいた子だったから。だけど、ハニエルとその子の違いを出さなければと思った。人間と天使の違いを——」


再び、シンバは瞳を閉じ、昔を思い浮かべる。


倉庫から鉈を持ち出し、少年は女の子に声をかけ、神父様が呼んでいるからと嘘を言って、茂みに引きずり込むと、鉈で、女の子を殴りつけ、殺害した。


綺麗なままの死体だと、人間らしくないと、少年は女の子を醜い肉の塊になるよう、鉈で何度も痛めつける。


祖父母を思い出し、父を思い出し、母を思い出し、人間とは醜く、汚いものであると、少年は女の子を見るも無残な姿にする。


悪い事だとは全く思わなかった——。


シンバは瞳を開けて、


「ゴミ捨て場にずっと置いたままのトランクに死体は隠して、警察もいなくなる時間を見計らって、女の子を海に置いて来た。女の子だけでは寂しいだろうと、赤ちゃんも手にかけて・・・・・・ボクは捕まった——」


そう言うと、振り向いて、ロシュを見た。


ロシュは無表情で、シンバを見ている。


そんなロシュに、


「謎は解けた?」


そう聞いた。そして、フッと笑みを零すと、


「何の謎もなかったでしょ? そんなもんだよ。あれはキリスト事件なんて呼ばれてるけど、只のつまんない事件なんだよ。世間が勝手に大騒ぎして、勝手に謎にしただけ。でも1つだけ当たってる事がある。ボクは悪魔だったって事。人殺しなんてする人間、人間じゃないよ。今更、それに気付いても、もう遅いんだけどね——」


そう言って、前を向いて、キリストを見る。


「やっと真実を話せたよ。全部、話せた。もう偽りはない——」


囁くように、そう言って、少しだけ穏やかな表情を見せる。


そんなシンバの背後で、ロシュが、


「ロルの事件、お前は、ひとつだけ犯人のメッセージを見逃している」


低い声のトーンでそう言うので、シンバは振り向いて、ロシュを見る。


ロシュはメガネをクイッと中指であげ、シンバを見据えると、


「残念だよ、ルシファーが、こんなにも只の人間だったとは——」


そう言った。そして、


「だから一番大事なものを見逃すんだよ。真実も偽りも何も見えちゃいない。お前はその間にいながら、何一つ、わかっちゃいないんだ」


そう言うと、


「大天使ミカエルと竜——、その決着が描かれている絵画から、お前は目を反らすのか?」


怖い表情で、そう問うロシュに、シンバはゴクリと唾を飲み込む。そして、更にシンバを驚かすものが、目に入る。


ロシュは左手の手の平をシンバに広げて見せた。


そこには十字傷の焼印が——。


そして、


「もう1つのメッセージ。僕のホーリーネームはミカエルなんだよ」


そう言うと、ロシュは、信じられないくらいのとびきりの笑顔を見せ、


「やっと逢えたね、ルシファー」


そう言った。

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