6.ハニエル


あんなに土砂降りの雨は、シンバが家に着いたと同時に小雨になり、今朝は雲ひとつない程のいい天気。


昨日の雨のせいで、少し風邪をひいたか、シンバは鼻を啜りながら、いつものように出勤した。


昨夜、夜勤だったジャンはいない。


特に呼び出しもなかったので、ネット犯罪課での、大きな事件はなかったのだろう。


欠伸をしながら、デスクに鞄を置いて、パソコンに電源をつけるのはロシュ。


昨日、ロルと会い、ロルの部屋に行った事を話すべきか、シンバはロシュを見る。


その視線に気付き、


「なに?」


と、ロシュはシンバに尋ねた。


「いや、あの、眠そうだね」


「あぁ、昨日、突然、大雨だったろ、雨宿りに映画館に入って、久々のレイトショーだよ」


映画の半券をジーンズのポケットから取り出して、そう言った。


「1人で、あんな時間まで外にいたの?」


「1人じゃない、彼女とだよ」


「え!? だってロルは——」


「あぁ、ロルじゃない。別の」


「彼女は1人だろ! ロルが可哀想じゃないか!」


椅子から立ち上がり、そう叫ぶシンバに、


「何? 何かあったの? そんなにムキになるとこ?」


と、不思議そうなロシュ。


「き、昨日、外で雨降ってるのに、ロルが待ってたよ」


「そういう所が嫌なの。なんでわかんないかな、あの女」


「オレはそういうロシュが嫌だ!」


「でもシンバが慰めてやったんだろ?」


「え?」


「良かったじゃないか、気に入ってんだろ? 幾らでも僕を悪者にしていいからね、で、まさかその口元の青痣はロルに殴られたとか?」


「な、なんでオレが慰めたって!?」


「なんでって、ロルの名前を知ってるって事は、ロルから聞いたんだろ? 僕は彼女の名前、シンバに話してないし、他から聞く事なんてないと思ったから。違った?」


「あぁ・・・・・・」


頷きながら、刑事っていう奴は、いちいち些細な言葉を聞き逃さず、見逃さず、勘が働くと思うシンバ。


言葉を選んで、行動に気をつけ、ロシュとは話さなければと考えていたら、突然、ドアが勢い良く開き、ルディーが入って来た。


「おい、フォート!」


シンバを見ながら、そう呼んだ。


フォートと呼ばれるのは、滅多になくて、一瞬、誰の事かわからず、シンバはキョトンとして、直ぐに、


「あ、はい」


と、返事をした。


「ちょっと来い」


それだけ言うと、ルディーは出て行った。


「何かしたの?」


驚いた顔をしながら、ロシュが聞くから、


「多分、昨日、帰り際に女の子を連れ去ろうとした男を捕まえて、それをルディーさんに任せたまま、帰っちゃったから、その事で話があるのかも。ちなみにこの口元の青痣は、その男に殴られたんだよ」


シンバはそう説明した後、席を立ち、ローカに出ると、腕組しながら立つルディーがいた。


「えっと、スイマセン、昨日は——」


「昨日? あぁ、昨日の事じゃない」


「え?」


「この電話番号、調べたら、お前の携帯みたいだな、フォート」


ルディーの手に持たれたメモに目をやり、シンバは、


「なんで!?」


と、声を上げた。


そのメモは、ロルの机の上に置いたメモだ。


「なんでこれを俺が持っているかってか? 今朝、通報があったんだ」


「今朝? 彼女・・・・・・ロルから?」


「いや——」


ルディーは、少し咳払いをし、


「ロル・アストは知り合いなのか?」


そう尋ねた。


「知り合いと言うか、ロシュの彼女で、昨日はロシュを待ってた彼女をマンションまで送りました。えっと、ロシュは彼女と別れたいらしく、待ってた彼女を置いて帰ったから、その、オレが彼女をマンションまで送って、その後、彼女の部屋でピザを食べながら談話しました。0時過ぎには彼女は眠ってしまったので、オレはそのメモを残し、帰りました。別に、そのメモを残したのは、変な意味じゃないですよ、ドアの鍵を閉める為に、鍵はポストに入れとくって、それで、一応、携帯の番号とアドレスを書いただけで、本当に深い意味はないです!」


「別に構わんよ、深い意味があろうが、なかろうが、携帯の番号を女に教える事なんざ、不思議にも思わん。そんな事を責めてる訳でも聞いてる訳でもない」


「じゃあ、なんですか? オレ、ストーカーで通報受けたんじゃないんですか?」


「女にメモ残したくらいでストーカーはないだろう、そんな女なのか、ロル・アストは」


「だって——」


「それにストーカーなんて、この俺が動く仕事か?」


殺人課のルディー・アンガスなら、余程の事じゃない限り、管轄外だと動かないとしたら、これは殺人事件となる——。


「まさか・・・・・・ロルが・・・・・・?」


「あぁ」


「でも・・・・・・サイレント事件ではないですよね、だって、今朝は誰も騒いでない」


そう、サイレント事件が起きた場合、他の課ではどうか知らないが、ネット殺人課では、ジャンが大騒ぎするせいか、全員集合で事件解決へ、皆、意味もなく動き出す。


「昨夜、彼女とは何時まで一緒に?」


「0時過ぎ——」


「確かか?」


「彼女のマンションから出た時、大雨で、家に着いたら小雨になりました。昨日の天気予報を調べてもらえば、正確な時間がわかると思います」


言いながら、シンバは体が冷えていくのを感じている。


体の奥底から冷たいものが広がっていく。


「そうか、ま、一応、聞いただけだ、一応な」


ルディーがそう言って、自分の課に戻ろうとするので、


「あの! 彼女は!? 死んだんですか!?」


呼び止めて、問う。


ルディーは振り向き、


「想像通りじゃ駄目か?」


そう問い返す。


「想像できないから、聞いてるんじゃないですか!!!!」


そう叫ぶシンバに、ルディーは一歩、近付き、


「興奮するな」


そう囁いた。


こんなにも呼吸を乱し、込み上げてくる熱くなる感情とは裏腹に、どんどん体が冷える。


シンバは奥底から来る冷たい物が、どんどん溢れ、やがて、ガタガタと震えだす。


歯がガチガチ鳴り出し、シンバは今にも狂いそう。


「・・・・・・一緒に来るか?」


そう聞いたルディーを、シンバは震えをピタッと止めて、目だけ動かして見た。


「言ったろ? 俺につかないかって。来るなら、来い。上には俺から報告しといてやる」


「彼女はサイレント事件の被害者になったんですか?」


「いや、サイレント事件の括りに入れるかどうか、まだわからん」


「それって、サイレント事件とは違う方法で殺害されてるんですか?」


「・・・・・・毒殺だ」


「毒・・・・・・?」


「自殺ではない。昨日の飲み食いしたであろうものは、鑑識にまわしてあるが、お前も飲み食いしたんだろう? だとしたら、毒はそれじゃない。だが、毒を飲むと言う事は、心許した相手からの物じゃないと飲まないだろう? 体には注射の跡もないしな。昨夜0時過ぎまで一緒にいたと言うなら、尚更だな、そんな時間以降に会う相手は親族か、恋人か、友人か——」


「恋人・・・・・・ロシュには聞かないんですか? アリバイ——」


「一番最初に容疑者として上がったさ。だが、聞くも何も、昨日はずっと一緒だったと、うちの課の女がな。まぁ、ほら、旦那がいる身だから不倫関係になる為、余り騒ぎ立てたくないと言う話だ。だから一番最後に話を聞くという事になった」


「・・・・・・行きます、一緒に——」


そう言ったシンバに、そうかと、ルディーは背を向けて歩いて行く。


シンバはその背について行く。


サイレント事件と同じ括りに入れるか、どうか、わからないと言ったルディーに、シンバはサイレント事件と関連はあるのだろうと思った。


つまり同一の犯人である、何かを残している。


ルディーは車に乗り、シンバも助手席に座る。


「どこへ行くんですか?」


「現場。まだ死体をそのままにしてある」


「え!? 型だけ残して死体は片付けるもんじゃないんですか!?」


「普通はそうなんだが、お前を連れて来る迄、そのままにしておけと命じてある」


「命じてあるって、オレが一緒に行かなかったら、どうするつもりだったんですか!?」


「来るさ、お前はサイレント事件含め、今回の事件をどうしても解決しなきゃならない」


「・・・・・・」


シンバはゴクリと唾を飲み込んだ。


助手席に座りながら、隣で運転するルディーの顔を見れない。


何故なら、ルディーは知っている。


シンバの正体を——!


そう察したからだ。


沈黙が怖い。


流れる景色も見れず、シンバは膝の上に置いた手をグッと握り締め、嫌な汗をかいている。


「・・・・・・髪は染めてんのか?」


そう聞いたルディーに、何も答えれないシンバ。


「目はカラーコンタクトか?」


「・・・・・・」


「そう堅くなるな、別にお前を責めてる訳じゃない、ルーセン・C・ファークレイ」


「・・・・・・何の話なのか、サッパリ——」


とぼけ通せる自信もない癖に、シンバはそう言うしかなかった。


ルディーは笑いながら、


「お前は覚えてないのか? 俺を」


そう聞くから、本当に何の話かわからなくなる。


「20年前、俺は22歳で、刑事になりたての初仕事がキリスト事件だ。あの頃から移動もなく殺人課にいるなぁ、俺」


と、ルディーは想い出をクックックッと笑いながら話し出す。


「実際に解決したのは俺じゃないが、忘れないよ、あの事件は」


「・・・・・・」


「とは言っても、お前はまだ小さな子供で、こんな強面の刑事が取調べをする訳じゃなく、直ぐに施設送りになって、まだ刑事になりたての俺はお前を車で施設まで送るのが最初の仕事だったからな」


それを聞いて、シンバは、あの時の刑事かと思い出す。


「お前はあの時もそうして、俺の横でちょこんと座り、真っ直ぐ一点だけを見つめていた。緊張してるのか?って聞いても無言だから、俺はすっごく緊張してるんだって言ったら、お前、俺を見て——」


そういえば、あの時も、車内は煙草のニオイが充満してたなぁと、


「覚えてます・・・・・・『』おじさん、天使って見た事ある?』」


シンバは、隠しても仕方ないと、そう言った。


「そう、俺に初めて喋った台詞はそれだよ、それ。ショックだったなぁ、まだ22歳なのにおじさん呼ばわりには。で、俺は『見た事はないけど、信じてるよ』そう答えたな、確か!」


「嘘だよ、『見た事がないから、そんなもの信じない』だよ」


そう言って、シンバは少し笑って見せ、更に言葉を続け、


「『どうして? ボクが見せてあげたでしょ、ハニエル』」


あの時の台詞を言う——。


ルディーは何も言わず、ハンドルを握り締め、無表情。


だからシンバは続ける。


「『あれは女の子だよ、天使じゃない』『天使だよ』『天使じゃない』『どうして天使を見た事がないのに、天使じゃないってわかるの?』」


「全く、可愛げのないガキだな。大人を言いくるめやがって」


舌打ちをしながら、そう言ったルディーに、シンバは、


「言いくるめた訳じゃないよ、本当に天使だって教えたかっただけ——」


そう言った。


やがて、古びた教会の前を通り、シンバは身を起こして、その教会を見て、見送る。


それはシンバが幼い頃、通っていた教会。


この町に住んでいても、この通りやエリアは、ずっと避けていた。


「ねぇ、どこへ行くの!?」


そう聞いたシンバの台詞を無視して、


「お前、自分の首に多額の賞金がかかってるの知ってるか?」


ルディーはそう聞いた。


「え!?」


「お前を殺したい連中は山程いるんだよ、ルーセン・C・ファークレイ」


「・・・・・・」


「そんな顔をするな、教えておいてやりたかっただけだ。ルシファーを崇める連中がいるのと同時に、ルシファーを憎む連中がいるって事をな」


「そんなの言われなくても理解してる」


「だろうな、だから、お前は人の目から逃げるように、別人になった訳だし。どうだ? 命を狙われるって気分は? 殺人者が隣にいるかもしれないぞ?」


「・・・・・・きっと世の中の人は、こう言うよ、『殺されて当たり前だ』って」


「お前を崇拝してる奴等もか?」


「そんな連中こそ、ルシファーが死んだら、一番に喜んで、どんな死に方だったか、ネットで書き巡らせるんだよ。知らない奴が、知らない癖に、知った風に——」


言いながら、シンバはフッと笑みを零し、


「世の中には殺されて当然の人間がいるんですよ」


そう呟いた。


「・・・・・・お前はどうしてハニエルと言う少女を殺害したんだ?」


「何を今更——」


「納得できないんだよ、俺は20年近く殺人課の刑事をして来て、いろんな死体を見てきたが、お前が殺した最初の死体だけが、どうしても納得いかない死体なんだよ。あれは異様だなんてものじゃない、あんなの有り得ない。言うなれば、異世界から出た死体だ」


「・・・・・・」


「あの殺しは・・・・・・綺麗過ぎる——」


「・・・・・・」


「二人目と三人目の死体は、醜いものだった。大体はそうだ。内臓や血が出てる出てない関係なく、身形が汚く乱れていたり、目をカッと見開いていたり、物凄い形相のままってのもある。だけど、あの殺しは綺麗過ぎた——」


そう言ったルディーに、シンバは、まるで子供のようにクスクス笑い、


「言ったでしょ、彼女はハニエルだから。彼女は美しい天使なんだよ。ボクは人間と天使の違いを区別したんだ。本来の霊質に戻り美しく肉体を去る天使と、醜く死んで朽ち果てていく人間の違い。ちなみにボクは人間だから死んだら、汚いタンパク質の塊となるだけ」


そう言いながら、無邪気な表情をルディーに向けた。


運転中なので、そんなシンバをチラ見しながら、ルディーは、


「それがお前の本性か、ルーセン・C・ファークレイ」


と、そう言うと、シンバは笑いながら、


「ボクはシンバだよ、正義の味方シンバ・フォート」


言いながら、窓に流れる景色を見て、車が海岸沿いを走っているのに気付く。


「正義なんてもの、信じてるのか? ルーセン・C・ファークレイ」


「ボクはシンバだって言ってるだろ!? どこへ向かってるんだよ! 現場なんて嘘だ、ボクをどこへ連れて行く気なんだ!? キリスト事件はもう解決してるだろ!」


取り乱すように、叫ぶシンバに、


「落ち着けよ、本当に現場なんだよ。わかるだろ?」


ルディーはそう言って、アクセルを踏み、スピードを上げる。


「まさか・・・・・・ハニエルと同じ場所で・・・・・・ロルも——?」


「あぁ、ロル・アスト。彼女の死体は異様だ。あんな死体を見るのは、二度目だよ」


嘘だろと、シンバは目を見開き、ルディーを見る。


至って真面目な顔で冗談など言うような雰囲気でもないルディーに、シンバは口を塞ぐように、手の平を口元に持って行き、かなりの動揺。


車を停めれそうな場所に、駐車し、


「ちょっと歩くぞ、現場の近くは道が細すぎて、車で通れないからな」


そう言って、車を下りようとするが、シンバが車から降りる気配がないので、溜息を吐きながら、


「お前に見て欲しいんだよ、だから死体をそのままにしてあるんだ、来てくれなきゃ、お前を連れて来た意味ないだろう」


そう言った。シンバは無表情で、重く固い体を動かし、車から下りる。


「堤防脇の道から行こう」


そう言ったルディーの声は、耳に入ってないが、とりあえず、ルディーの後を追う。


テープで通れないようにした場所に、警察の制服を来た者が立っていて、ルディーは刑事である証明のカードを見せ、テープを潜って中へ入り、シンバも続く。


堤防の階段を下りて、沢山のテトラポットが目に入る。


サンサンと光が注ぐ海はキラキラ光っていて、美しく、昨日の雨のせいか、砂浜は波が来ない場所も硬く湿っている。


何人かの殺人課の刑事達と擦れ違い、シンバは現場に辿り着く——。


昨夜の雨のせいもあり、まわりは遠くの方まで足跡などなく、犯人である足跡も丁寧に消されている。


遺体は美しく、外傷はないと思われる。


白い羽で翼を描いてあり、針金を砂に刺して、風で飛ばないようにして綺麗に描いてある。


遺体の体は少し捻ってあり、顔は少し俯き加減の真正面を向いて、右側の手は上へ向いていて、その手には何か長いものが持たれているかのように、砂に一本の線が引かれている。


その手は体の下にあり、逆の左側の手は折りたたまれて腹部の辺りに置いてある。


足は体の下側となる右は、膝の所で折られ、左は真っ直ぐ下へとおりている。


シンバはそれを見ながら、


「まるでラファエロの絵画だ」


そう呟いた。


「ラファエロ?」


聞き返すルディーに、


「大天使ミカエルと竜という絵画のミカエルの格好そのままですよ」


シンバはそう答えた。


「格好? 格好だけで、その絵だと断定するのか?」


「あの一本線、右手に交わるように砂に描かれている線のようなもの、あれは多分、剣だと思います、この体勢を無理に作ったとしたら、何かの意味があるとして、直ぐに浮かぶのはラフェエロの絵画です」


「なる程。言われれば。俺も異世界と感じたのは、絵画と重なったからかもしれんな。だが、そこにメッセージ性はあるのか?」


「ダヴィンチとミケランジェロ、2人の複雑な天才の後を追うように現れたラファエロ。だが、彼は2人のような複雑さはない。只、才能を全て吸収する天性を持っていただけ。つまり、これはルーセンへのメッセージですよ、ルーセンのような複雑さはないが、ルーセンの全てを吸収していると言うメッセージ。ルーセン宛だと言う理由は、ラファエロの絵画にあるミカエルを真似たポーズをとらせてはいるが、これはミカエルではない、ハニエルだ。サイレント事件にも出てくる白い鳩の羽。白い鳩は愛情、平和、調和を意味する。それはハニエル召喚の呪文、愛情、平和、調和と同じ——」


「そうなると、やはりルーセンを慕い、ルーセン・・・・・・ルシファー崇拝者か」


「違うと思います、その逆。ルーセンを憎んでるんでしょう。大天使ミカエルと竜という絵画は、ミカエルの足の下に竜がいて、その竜の喉をミカエルが踏みつけているんです。竜は凄い形相で舌を出して苦しんでいる。竜は悪魔であり、サタンである。つまりルシファーです。それだけじゃない、ラファエロの絵画を真似る事で、自分はルーセンの全てを吸収しているというメッセージを送り、自分は何の考えもなく、只、ルーセンを真似ているだけと、ルーセンのルシファーという地位を堕とさない。コイツ、マジでムカツク!」 


「・・・・・・どちらにしろ、ルーセンに酷く感情を抱いている者と言う事だな」


ルディーはそう言うと、遺体の周りを見て、


「犯人は足跡を残さず、ずーっと手で消しながら、後ろ向きに帰ったんだろうか?」


そう尋ねた。シンバはルディーをチラッと見て、直ぐに遺体に目をやり、


「行きも帰りも波間を歩いたんですよ、そうすれば足跡は波が消してくれる。手で消したのは、波間が来ない遺体の周辺と、帰る時、堤防の階段を登る所まででしょう」


そう説明し、更に、


「ボクがそうしたから」


そう言った。


寄せては返す波の音と唸る風。


白い翼の天使が、ここに召喚しているのを見ながら、シンバは、昨夜を思い出している。


ロアは生きていた。


笑顔を見せて、言葉を発していた。


今はもう笑顔も、言葉もない。


死とは、いとも簡単に、全てを停止させる。


手の動きも足の動きも、瞳の輝きも、瞬きも、心音も、もう何も動かない。


肉体はいつか朽ち果てて、骨になり、骨も、ボロボロに崩れて、砂になる——。


ロアを動かしていたものは、どこへ行ってしまったのだろう。


シンバはロアが人間である事を、よく知っている。


何故なら、彼女がどんなにソックリでも、どんな姿で、どんな風に、ここにいようとも、彼女は大天使ハニエルにはなれない。


シンバ、いや、ルーセンの中で、大天使ハニエルは、たった一人。


あの死で涙を流す事はなかったが、ロアが死んだ事は涙が溢れ出た。


そして、犯人を残酷な程、無残に切り裂き、殺してやりたいと願った。


その願いが、神様に届き、叶うのならば、どんなに救われるだろうか——。


ふと、目蓋の向こう、ハニエルの笑顔が浮かび、


『そんな奴等、死んじゃえばいいのにね』


優しい表情で、怖い台詞を吐く彼女が見えた——。


それはルーセンが虐められた時に、虐めた相手に対しての台詞。


——ハニエル、それはね、言ってはいけない言葉だった。


——誰かが死ねばいいなんて、絶対に思っちゃいけない。


——でもね、あの時のボクは、その怖い台詞が、どんなに救いだったか。


——キミは紛れもない天使だったよ。


——大天使の名に相応しく、綺麗で、月のように輝く瞳で、キミはハニエルだった。


——だからキミは天使の世界へ帰ったんだ。


——ねぇ、ハニエル?


——キミは元気でやってる?


——ボクはね、人間だから、この世界で、苦しいんだよ・・・・・・。

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