3.黄泉路の章


娘が事故に合い、植物状態になったのは3年前。


大きな病院に見放されたのは去年。


そして地元の個人病院の小さな入院施設でも、退院を言い渡されている。


来月には、この小さな何もない病院も出て行かなければならない。


娘は眠っている。


体の怪我も完治し、脳波に異常もなく、心音も正常だと言うけれど、目は覚まさない。


栄養となる点滴をしているが、他に、何か複雑な機器類をつけなければならない訳じゃない。


尿も時間になれば、看護婦が尿道に管を入れ、とってくれていたが、私もできる事なので、看護婦に教えてもらい、今では娘の尿を上手に出す事ができる。


だったら、病院にいる必要もなく、家で寝かせておけばいいと言われる事は、私にとって、娘は見放されたんだと思ってしまう。


娘は生きている。


だけど、眠ったまま、目を覚まさない。


私は眠るのが怖い。


眠ると、娘が必ず夢に出てきて、


『ママ、助けて』


そう叫んで、私に手を伸ばす。


助けてあげたい。


だけど、私には、わからないのよ、どうしたら目を覚ましてくれるのか!


神にどんなに願っても、娘は未だ、目を開けない。


17歳だった娘はベッドの上で20歳になっている——。


「暑いわね、窓、開けましょうね」


窓のすぐ外には木があり、緑が美しく、木漏れ日がキラキラと部屋に入る。


蝉の声も聞こえ、また夏が来たんだと確信する。


うちわで、眠っている娘を扇ぐと、娘の伸びた髪の毛が風でそよそよと揺れる。


「すいませーん、Excuse me.」


外来診察の受付玄関前から、大きな声が聞こえた。


今は昼過ぎで、診察時間は過ぎているせいか、看護婦達もいない。


先生も、お昼で、家の方にいるのだろう、インターフォンを鳴らすか、急患の電話をするか以外は出てこない筈。


だが、


「Excuse me.」


その声は、何度も聞こえる。


私は、外に出て行くと、腕を怪我した男の子が立っていた。


『Excuse me.』そう言っていたのは、外国の男の子だからだ。


「ここは小さな診療所で、看護師さんも少ないし、先生もお一人でやってるの。だから先生は次の診察時間の夕方4時から8時までの間じゃないと来ませんよ?」


そう言った後、日本語わかるのかしら?と声をかけた事に後悔をした。


「診察はしなくていいんだけど、消毒液とか包帯とか、もらえたらなぁって思って」


あら、意外にお上手な日本語。


「アナタ、その腕、どうしたの? 凄い血じゃない?」


タオルを巻いているが、タオルが血で真っ赤だ。


掠り傷程度の話ではない。


「でも、もう血は止まってるんだけど」


「どこで怪我したの?」


「犬に噛まれちゃって」


「まぁ! 保健所に電話した方がいいかしら。ここら辺で襲われたの?」


「いえ、埼玉で」


「埼玉!?」


ここは静岡県。驚いた声を上げるのも無理はない。


「It seemed to be all right, あー、えっと、大丈夫そうだと思ったんだ、でも、だんだん痛くなってきて」


「当たり前よ、真夏よ? 傷は膿んで、余計悪くなるわよ? 来なさい」


私は、彼を娘の入院部屋に招いた。


彼は日本人じゃないせいか、私の目に物珍しく、そして、美少年に映った。


白人の白い肌も、サラサラのブロンドヘアも、光の加減で、薄くブルーにも見える瞳も、綺麗で、神秘的だった。


只、背負われた大きな汚いリュックとだらしないシャツにジーンズ姿を見ると、ガッカリしてしまう。


眠っている娘の横で、彼の腕の手当てをしてあげた。


彼は娘に対して、どう思っているのだろう、何も聞いて来ないのは、気を遣っているのだろうか——?


「Thank you. Madam」


包帯を巻き終えると、彼は私にそう言った。


思わず、笑ってしまった。


「Why? どうして笑うんですか?」


「マダムだなんて。オバサンでいいわよ」


「じゃあ、名前を教えて下さい、What is your name?」


「相馬 優希(そうま ゆき)」


男に名を聞かれたのは何年ぶりだろう。


旦那ですら、『おい』とか『お前』とか『なぁ』とか。


私の名前を知らないんじゃないかと思うのに——。


「こっちで寝ているのは娘の美優(みゆ)」


「娘さん。ユキさんにソックリだね」


「そう?」


「Yeah. beautiful」


「褒めすぎよ、いいのよ、手当てくらいで、お世辞なんて言わなくても」


『beautiful』くらいの英語はわかるので、そう答えたら、彼は首を振り、


「本心だよ」


そう言って、爽やかに笑う。


なんて綺麗な少年なんだろう、顔だけは——。


着ている物や持っている物を見ると、本当に汚らしいが。


「アナタ、名前は?」


「シンバ・レスター」


「どこの国の人?」


「イギリス」


「日本には何しに?」


そう聞いた途端、彼は娘をジッと見つめて、


「黄泉路で迷ってるよ」


そう言った。


「え?」


突然、大きな雷。


窓の外はさっきまで晴れていたのが嘘のように大雨が降っている。


そして突風。


「Squall」


「え? あの、なんて?」


「突然の雨や風でビックリだね」


「あぁ、よく起こるのよ、大きな雷もしょっちゅう。異常気象なんて言われてるけど。あ、雨が止むまで、ここにいるといいわ。それとも急ぐ?」


「・・・・・・聞いてもいいですか、どうしてミユさんは——」


やっぱり寝ている美優が気になっていたんだわ。


気を遣ってくれて何も言わずにいたのだろうけど、聞きたくもなるわよね。


「美優は3年前、事故で植物状態になってしまって、それ以来、目を覚まさないの」


「え? あ、違います、オレが聞きたいのは、どうしてミユさんはこんなにいろんな神の物を身につけてるんですか? ロザリオに勾玉に数珠に、頭の上には幾つもの違う神の札と水晶。全部の指、腕にはパワーストーンやその類いの宝石」


「・・・・・・アナタ、変な事聞くのね? 愛する娘が眠ったままなのよ? 原因不明で医者も何もできないとなれば、どんな神にでも縋ろうとするのが親と言うものでしょ?」


「・・・・・・」


「まだ子供のアナタにはわからないかもね。子を愛する気持ちなんて。ここの神がいいと聞けば、そこへ祈りに行き、札を買い、あそこの神がいいと聞けば、そこへ願いに行き、札を買い、また数万もする水晶が願いを叶えると聞けば、それを買う。もう神に頼るしかない。でも、どんなに祈っても、願いは叶わない——」


「・・・・・・」


「アナタ、両親は?」


「亡くなりました」


「あら、そう——」


「オレの祖父がオレを育ててくれました。オレに親がいないのは、祖父が罰当たりな仕事をしてて、その代償だと聞いた事があります。勿論、オレの父も罰当たりな仕事をしていたので、妻をなくしたと。つまり、オレの母親ですね」


「罰当たりな仕事?」


「SINNER. 罪人です」


「罪人? アナタのお爺さんとお父さんが?」


「オレも」


「アナタも? それはアメリカンジョーク?」


笑うところかしら?


「あの、この神々、取り払った方がいいですよ」


「え?」


「ミユさんの為に集めた、この神々。神が喧嘩してるんです」


「喧嘩? あぁ、聞いた事はあるけど、でも、神は心が広いから、どこの神を信じても、願っても、喧嘩なんてしないとも聞いたわ」


「神の心が広いなら、神様なんてイッパイ存在しないよ」


「どういう意味?」


「みんな、我こそはと、この人間の世界に君臨しようとしてるって事。それにミユさんは神を信じるタイプだったんですか? 彼女は信仰する神を持っていましたか? ミユさんが信じているのは、ユキさん、あなたの事じゃないですか?」


「あの・・・・・・さっきから、何が言いたいのか、よくわからないけど? 海外の方だからキリスト教の教えとか?」


「だからミユさんを助けたいと願っているのは、ユキさんですよね?」


「え? えぇ、そうよ」


私が頷くのと同時に、彼は、美優の体につけた神のチカラが宿ると言われる宝石類を外し始めた。


「何をするの!?」


「Please stand」


「え?」


「持ってて下さい」


彼は、宝石類を私に手渡す。


美優の首から下げられた十字架も数珠も、腕に嵌められたパワーストーンのブレスレットも、全て外される。


美優の頭の上に祀られた札も水晶も神の置物も、全て、床に下ろされる。


「そんな事して、罰が当たるわよ!」


「ユキさん」


「・・・・・・なに?」


「あなたは神を信じますか?」


綺麗な彼の瞳が、私を見透かすようだった。


私は神を信じている。


信じなければ、今までの全てが無駄となる。


意地かもしれない。


だけど、意地でも信じ通す事で、娘への希望をなくさないようにしている。


「信じてるわ」


そう答えると、彼は手の平を私に差し出し、


「何が見えます?」


そう尋ねて来た。


そこには何もない。


手の平を見せられただけで、何が見えるかと言う質問は意味がわからない。


「ユキさん、あなたが一番信じている神が、オレの手の中にあります」


私は不思議な事を言う彼を見ていた。


美しい顔立ち。


まるで天使のよう。


透き通るような白い肌、ブルーがかった瞳、ゴールドに輝く髪。


その背には翼が生えているのではないかと思ってしまう。


私は試されているのかしら・・・・・・?


「・・・・・・十字架?」


私は自分の目を疑った。


何もなかった筈の彼の手の平には、ロザリオがある。


美優につけていたロザリオとは少し違うが、シンプルな銀の十字架で、とても綺麗だ。


「どこから出したの? 手品?」


そう聞いた私をクスリと笑い、彼は、私の手を握るように、私の手の中にその十字架を入れた。


「ユキさん、あなたは自分の願いを叶えたいのなら、あなたが信じた神に、あなたが祈り、願うんですよ。確かに誰かに札を与えたり、お守りをあげたりする人がいますが、神は誰かにもらうものじゃない。そして多くの神に願っても、多くの神が指し示す事は違うんです。結果、同じ幸運を齎すとしても、そこに辿り着くまでの経過は神が指し示す。どの神も教えが違う分、運命を左右するものも違って来る。多くの神が指し示す方向が違い、道に迷っている間に、祈りは届かず、願いは叶わないまま終わる。そして、神はいないと思うのであれば、自分自身を信じて、自分が信じる誰かを信じて、進めばいい。でも、無理に信じ込ませられた者に道を迷わせられ、永遠に迷宮に閉じ篭もるなんて事もあるんです」


「・・・・・・」


「ミユさんは神を信仰していましたか?」


「・・・・・・いえ」


「これは彼女の誕生石?」


彼は美優の指から取ったサファイアの指輪を、再び、手に取った。


「えぇ、9月生まれなの」


「生まれた月の宝石を身につけるとラッキーがあると言われています。自分自身が持っているチカラを倍増してくれるもの——」


彼はそう言うと、その指輪を美優の指に再び嵌めた。


「ミユさんが身につけるものは、これだけで充分でしょう、他は捨てるといい」


「捨てる!? そんな罰当たりな事はできません!」


「なら、オレが処分しておきますよ」


「でも!」


「ユキさんは、ロザリオを握った手で、ミユさんの手を更に握って、信じてみて?」


「・・・・・・」


「アナタは多くの神を集めすぎた。だから、ここら辺一帯は、妙な風が吹き荒れていた。勿論、世の中には、ユキさんのように、多くの神に願いを祈る人もいるだろうけど、ユキさんの場合、どの神に対しても信仰が強すぎた。そんじょそこらにいる神父なんかより、ずっとね——」


彼はそう言うと、大きなリュックの中から、汚い紙袋を取り出し、私が一生懸命、集めた神々のお守りを、適当に、その中に入れて、


「じゃあ」


と、手を挙げ、部屋を出て行った——。


暫く、私は唖然としたままだったが、余りにも部屋が殺風景になり、泥棒だったのかもしれないと気付き、警察を呼ぶべきかと考えた。


中には数百万もする水晶だってあったのだ。


お金に困っている訳ではない。


旦那はそれなりの地位のある仕事もしている。


だが、娘の為にと思って集めたものを無断で持って行かれた事は、かなりの痛手だ。


どうして、あんな身も知らない外人の手当てなどをしてあげたのかと、あの優しい雰囲気で、美少年の顔に騙されたと頭を抱えた。


寝ている美優の隣に座り、まるで亀のように丸くなって頭を抱える。


「そういえば、罰当たりな仕事を祖父も父もしていたって言ってたわ。それって泥棒って意味だったのかしら? やっぱり警察に!」


私は鞄の中から携帯電話を取り出そうとして、席を立った。


「・・・・・・ママ」


今、微かに美優が私を呼ぶ声を出した気がした。


「美優? 美優? 美優!」


私は美優の手を握り締めた。


神様、どうか、美優を起こして下さい。


もう3年も経ちます。


美優はずっと眠ったままなんです。


どうか、美優を起こして下さい。


私は目を閉じて、両手で美優の手を握り締め、祈り続けた。


毎日、毎日、同じように祈った日があった。


でも美優は目覚めなかった。


どんなに美優を想っても、美優の目は閉じたままだった。


医者は、何故、起きないのか、わからないと首を振った。


どうして体に何の異常もないのに、美優は目覚めないの?


どうして心音もあるのに、美優は死んだように寝ているの?


もう筋肉だって衰えて、どんどん体が細くなって、このままだと本当に死ぬわよ、美優?


旦那は、最初の1年は頻繁に見舞いにも来ていたが、今では見捨てたかのように来なくなった。あんな男、美優の父親でもなんでもない、只の金を運んでくる男だと割り切って、私もそう接するようになった。


家庭なんて壊れても構わない。


美優が目を覚まし、これからの人生、明るく生きてくれて、美優が幸せな家庭を築いて、美優に似た孫ができれば——。


美優が幸せに生きてくれるならば・・・・・・


私も幸せなんです、神様——。


「・・・・・・ママ?」


私の手を握り返す美優の手の力に、私は目を開けた。


私をママと呼ぶ声も、幻聴じゃない。


美優が目を開けている。


「ママ?」


「・・・・・・美優?」


「ママ」


「美優! 美優、わかる? 今、先生を!」


ナースコールを押そうとする私の手を握り締め、


「ママが助けてくれたの?」


美優は小さな声でそう言った。


3年前、美優は、私を迎えに駅まで来る途中で、車に撥ねられた。


雨だった事もあり、美優を撥ねた犯人は未だ捕まっていない。


あの日、傘を持って出た方がいいよと美優は私に言った。


でも晴れているし、大丈夫だと思い、私は傘を持って行かなかった。


夕方、美優の言う通り、雨が降り、私は家に電話し、傘を持って来てくれるように言った。


『もぉー、だから傘を持って行った方がいいって言ったのにぃ!』


美優の声は電話越しで、少し怒っていた。


あの時、私が傘さえ持って出ていれば、美優は車に撥ねられなかった。


あの時、駅のコンビニで、私が傘を買っていれば——


あの時、家に電話せず、濡れたまま帰っていれば——


あの時、外出なんてしなければ——


あの時、美優を助けられなかったのは、私——


私は、全て自分のせいで、美優が植物状態になってしまったのだと考え、どんなに祈り、願い、美優を助けたかったか——。


ふと、気が付けば、私の手の中にロザリオがない。


そもそも、私は全ての神を信じたのに、どうしてロザリオだけを彼は手渡したのだろう?


いいえ、本当にロザリオなんてあったのだろうか?


彼のカトリック的な見た目が、彼の手の中にロザリオをイメージさせたのではないだろうか?


もしも彼が日本人なら、彼の手の中には数珠が入っていたかもしれない。


いいえ、本当に彼は存在していたのだろうか——?


なんにしろ、私は彼を信じたんだ・・・・・・


「ママ・・・・・・ずっと暗闇を彷徨っていたの・・・・・・・」


「美優?」


「出口のない闇の中で、いつの間にか、私の指に嵌められた指輪が光り出して——」


美優は自分の手をゆっくり動かし、その指に指輪が嵌められているのを確認して、


「そう、この指輪よ」


そう言った。


「美優の誕生石よ」


「私の誕生石、ママが買ってくれたの?」


「・・・・・・えぇ」


「夢でママの声が聞こえた」


「私の?」


「美優、美優って、ママの声が聞こえた。私は光を頼りに、ママの声のする方に向かったの。ママが助けてくれたんだね——」


私は美優の手を強く握り締め、泣いた——。


美優を本当に助けてあげたかった。


神に祈る事で、必死だった。


今、それが叶っても、神のチカラだったのか、どうか、わからない。


私が出会った、あの不思議な彼も、何者だったのか。


神の使いだったのか、それとも、彼の言う通りの罪人なのか、わからない——。


だけど、私は存在するかどうかもわからない、彼を信じた。


必死に祈って来た神とは、存在するかどうかもわからない存在で、彼と似ていると思った。


窓の外は雨が上がり、光が差し込んで、また暑い夏の空気が漂い始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る