8.死


ここはどこだろう——?


俺はどうしたんだろう——?


真っ暗な闇の中、上も下もわからない場所で、只、一歩一歩、歩いていた。


目の前を蝶がヒラヒラと飛んでいく。


まるで道案内でもしてくれているかのようだ。


フッと遠くに明かりらしきモノが見え、近付いて行くと、それはモナリザの絵画だ。


「レオナルド・ダ・ヴィンチ、彼もまた、ある領域に近付いた人間」


その声に振り向くと、シンバの横を蝶がヒラヒラと飛んでいき、外灯にバタバタと群がる蛾と一緒に灯りを求める。


その外灯の下、ベンチがあり、誰かが座っている。


ヘンテコな帽子を被っていて、丸い眼鏡をしているお爺さんだ。


顎には白い髭が生えていて、何処にでもいる老人だからか、何故か久し振りに会う身内に感じる懐かしさが湧いた。


「あなたは誰ですか?」


そう聞いたシンバに、


「わしか? わしは見ての通りじゃよ」


そう言って、顔の皺がとても柔らかに優しく動き、微笑む。


見ての通りなら、害を齎す者ではなさそうだ。


「ここはどこですか?」


「ここは今の時間の中」


「今の時間?」


「よぉく見てごらん?」


そう言われ、闇の中をグルリと見回すと、幼い頃の自分が見える。


いや、自分と言うよりも、自分の手や足、体が見える。


自分の見たまんまの光景がある。


幼いラテが笑って走って行く。


その背を追いかけているのだろうか、手を伸ばすラテの手に、自分の手が伸びて行く。


まるで古い映写機が辺り一面に回っているようだ。


「・・・・・・俺の記憶? どういう事? ここって、俺の記憶の中!?」


「時間とは未来へだけ進んでいる訳ではない。過去も未来も時間は存在などしない。時間とは今しか存在しないんじゃよ」


「・・・・・・は? いや、そんな事ないでしょ、だって、簡単な話、俺の腕時計と車の時計を合わせて、それから急カーブを思いっきりスピード出して曲がったら、時間にズレが出ますよね? 俺は本の少し未来へ行ったって事なんですよ、それ」


「いや、それは未来ではない。今がズレただけじゃ」


——なんだ、この爺さん。


——ジジィってのは頭が固いのかねぇ。


——これ以上、話しても無駄っぽい。


「では頭の柔らかい人よ」


「え!?」


——あれ?


——俺、頭が固いって口に出して言っちゃったか?


「その絵画を見てごらん」


お爺さんが指差す先にあるモナリザを見るシンバ。


「ヨハネ黙示録を知っておるか?」


「いえ。ヨハネがイエスの一番の愛弟子であり、最後の晩餐という絵画に出てくる人物なのは知っていますけど、黙示録は知りません」


「キリスト教の聖書にある預言書じゃ」


——またキリストか。


「神学者ヨハネが書いたと言われる黙示録本書は新約文書の中、唯一の黙示文学書じゃ。黙示文学とは、イスラエルの預言者の思想にペルシャ的世界観、ヘレニズム時代の諸地方の終末観が加わった宗教混合の現象の中から生まれた文学の類型じゃ」


「はい?」


今の時代にはない地名やら時代やらで、それはもう消え失せた時間の中で死んでいってしまったものと同じ。


そんなもの、余程の有名でない限り、幾らウィルアーナの生徒であれ、シンバが知る訳がない。


「異像、幻、獣、数字などによる比喩によって書かれた黙示録は、苦難にさらされている信者に対して慰めと望みを与えるモノに過ぎない。教会に迫害を齎すローマ帝国が『獣』『バビロン』『悪魔』『サタン』それに対し、キリストは『ユダ族の獅子』『ダビデの若枝』『小羊』などと書かれ、さらに苦難を和らげる為、希望を与える意味で、復活を『今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方』『死んだ事はあるが、生き返った者』などと唱えておる」


「・・・・・・」


「只、それだけの事じゃ」


「・・・・・・えっと、意味がわからないんですけど?」


「己から預言者だと言うた訳ではなかろう、まわりがそう言うた迄の事」


「・・・・・・そうか、そうだよな、ヨハネは神学者。預言者とは違う」


「だが、不可解な文章は、やがて、人々の中で本当の預言となる。弟子達に、そう教えたのはイエスじゃろう」


「・・・・・・それって暗示?」


「イエスの復活など誰も望んでいない。それはイエス自身、願った事かもしれん。望まれない者など、生んではならない」


「だから、モナリザを描いたんですか? モナリザのメッセージは死ですよね?」


「ダ・ヴィンチのメッセージはまだある。最後の晩餐は、ヨハネはイエスに顔を向けていない。それが本当の真相なのか、誰もわからぬ」


「イエスはやっぱり二人いたんですか?」


「イエスは二人以上おる」


「・・・・・・え? 二人以上?」


「イエスは、イエス自身が想い描いた理想郷を説いたイエスと、その教えを自分の解釈で説いた者達の中に存在するイエスが、それぞれの中に息づいておる」


「・・・・・・それって、イエス自身が思うキリスト教と、俺達が解釈したキリスト教は違うって事ですか?」


「イエスの弟子達が書いた手紙や福音書などが聖書としてまとめられた。だが、それはイエスが説いた教えを弟子達がどう解釈したかの話。それぞれの解釈はそれぞれのイエスを生み出し、時間を越え、神が消え、イエスを忘れた者にも、記憶のどこかでイエスが存在する程。あれは聖書と言う名のイエスを生み出す解体書——」


「・・・・・・イエスを生み出す解体書? それってイエスを生み出したのは弟子って事ですか?」


イエスを生んだのは神である。


だが、イエスが、人々の中に入り込み、イエスの存在を生み出したのは、今迄の神学者や信者達だろう、聖書を始めとし、宗教美術、宗教学、それらを生み出し、イエスを更にこの世に生み出したのは——。


「そうか、ヨハネだ。イエスの一番の愛弟子ヨハネ。ソイツがもう一人のイエスだ。人々にイエスの偉大さを知らせ、人々の中にイエスを刻みつけた張本人。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵画のメッセージは、もう一人のイエスの存在、ヨハネだ。だから、態々、イエスに似た服装、そして、イエス本人に背いた仕草で、ヨハネを描いたんだ」


「イエスの誕生は始まりと終わり」


「始まりと終わり?」


「マリアの処女懐胎が記述されておる新約聖書の福音書中では、聖霊により身篭ったとしている。聖霊とはキリスト教の三位一体のひとつ」


——処女懐胎って、生物学で言う単為生殖の事だろうか?


——聖霊により身篭ったって?


——聖霊って、そのままの意味だと、聖なる魂って事か?


「誰もが魂というエネルギーの凄さを知っていながら、知らないでおる。誰でも持っている魂。自分と言うチカラ。当たり前のようにあるチカラだからこそ、知る事ができないでおるのかもしれん。只の石像でさえ、それが聖母マリアの型であると言うだけで、そして、それが聖域にあると言うだけで、誰もが信仰し、全ての者がひとつの事に目を向ける。只、多くの魂が、そこに集うだけでじゃ、石像に血液があるかのように、血の涙を流す聖母マリアの像。信じるだけで、只の石にチカラを与え、血を流させる事もできる」


「・・・・・・そんな事が? あったんですか?」


「魂とは恐ろしいチカラがある。光も闇も創り出す」


「催眠、暗示、記憶、精神、魂、力、心、どれも手にとれず、目に見えないモノだなぁ。それに似たモノは遺伝子、か。そうか、遺伝子になら、情報をメモリーさせる事が可能だよな。つまり、それだけで世界崩壊も可能って事ですよね。レオナルド・ダ・ヴィンチはそれを伝えたかった?」


「・・・・・・だが、レオナルド・ダ・ヴィンチは神にチカラを貸した」


「え? どういう事ですか?」


「恐ろしい未来を予測しながら、人々の科学への発展に手を貸したんじゃ。全ての分野において万能の天才と言われるがままに、全ての分野の発展の為のキッカケを残した。それは神にチカラを貸した事になる」


「・・・・・・そうですよね。だからこそ、世界は一度、滅んでいる。そして神のいなくなった世界で、いや、神が封印された俺達の世界で、何故、また神が現れたんだろう? 再び、科学が発展したからだとしても、誰が神の封印を解いたんだろう?」


「たった一人でいい。イエスに忠実である者、正にヨハネになる者」


ふと、空間の闇に浮かぶ映像が目に入った。


それはソックリな男の子が二人、向き合って立っている。


鏡に映したシーツとシンバ自身だ。


鏡に映っている二人をシンバが見ていると言う記憶だろう。


シンバの背後に誰か立った。


イオン教授だ。


どちらかを、どこかへ連れて行こうとしている。


どっちを選ぶのだろう?


——どっちが俺なんだ? 右か? 左か?


イオン教授は一人を選び、手を引っ張って、連れて行く。


それを見送る光景が残った。


——と、言う事は選ばれなかったのは俺か。


「こうして第三者として見ると、ソックリだなぁ、俺達」


と、言いながら、シンバは、ふと、お爺さんを見ると、優しい微笑みを浮かべ、ベンチに座ったまま——。


「・・・・・・あの、前にどこかで会いませんでしたか?」


「どこにでもおるからのぅ」


「・・・・・・お爺さんはどうして宗教に詳しいんですか?」


「なんでも知っておるよ」


「・・・・・・あの、そういう、適当な答えがほしい訳じゃないんですけど」


シンバは困ったなと頭を掻く。


「時にわしを白い鳩に見た者もおった」


「白い鳩?」


「または大きな蛇。蝗の大群にさえ、見えた者もおった。若い女性に似た姿の時もある。この世の者とは思えない姿や、空から降る光、月を呑み込む闇などと言う姿も形もない者に見える時もあると言う——」


「・・・・・・見る人によって違うって事ですか? どうして!?」


「本質などどこにも存在せぬのじゃろう」


「本質って? お爺さんの?」


「誰でも」


「誰でも? 俺でも?」


「そう、本当の事など、本人にしかわからない。夢でも現実でも、それは信じられて初めて真実となる。信じられなければ、只の嘘で終わる」


「俺は何を信じればいいんですか?」


お爺さんは、只、只、優しい笑みを浮かべたまま、何も答えない。そして——、


「まだ先へ続く道がある」


お爺さんはそう言うと、スゥッと指を伸ばした。その指の先を辿り、見ると、一本の道がある。


「お爺さん、死んだら、夢って見れますか? 死んだら、永遠に起きる事はない。だから、夢の中が現実になる。死んだら、夢って見れますか? やっぱり脳が停止するんだから、夢なんて見れないですよね。でも俺、時々、思うんです、これって、俺が見てる長い長い夢なんじゃないかって。俺の道は、もう終わっていて、とっくに行き止まりを迎えていて、後は俺の都合のいいように、夢と言う幻の中で彷徨っているだけなんじゃないかって——」


黙っているお爺さんに、


「お爺さんも、夢の中だけで存在するから、姿が見る人によって違うんじゃないですか?」


そう聞いた。だが、お爺さんは、やはり何も答えてくれない。


「・・・・・・お爺さん、信じれば、救われますか? 神は信じる者を救ってくれますか?」


シンバは、何も答えないお爺さんに、


「お爺さんは神様なんじゃないですか?」


そう尋ねてみた。


何故、そう思ったのか、前にも、こうしてどこかで会ってる気がした。


それがシンバ自身だったか、それとも、シンバになる前の魂だったか、或いは、こうして会った事も忘れただけなのか——。


その不思議な感覚と、不思議なお爺さんの話が、不思議な存在へと答えを導いたのだ。


だが、お爺さんは何も答えない。


只、優しい笑みを浮かべ、そして、ヘンテコな帽子をそっと外し、軽く頭を下げ、又、帽子を頭にのせた。


もう何も答えてはくれないのだと悟ったシンバは、頭を深く下げると、お爺さんが指した道へと走り出した。


外灯にたかっていた蝶がまたシンバの目の前をヒラヒラと舞いながら、飛んでいく。その羽模様に、シンバは——・・・・・・。




目を開けると、明るい蛍光灯の光が天井から降り注いでいる。


「起きたの? 倒れてた所を入院部屋に運ばれたのよ」


と、横に座っているのはクロリク。


スケッチブックを開いて、何かを描いている。


シンバはバッと起き上がり、クロリクのスケッチブックを取り上げた。


「何するのよ!」


そう叫んだクロリクを無視して、クロリクが持っていたペンも取り上げ、そして、クロリクが描いたデッサンを黒く塗り潰して行く。


いらない模様を黒く塗り潰して行くと、浮かび上がった絵は、まるでイエスが十字架に貼り付けられ、処刑されている所。


もう誰が見ても、これは宗教美術だ。クロリク自身、それに驚いている様子。


「・・・・・・お前がヨハネか?」


「え?」


「・・・・・・違うな、お前はキリストに従った使徒達のリーダーのペトロって所か」


「何? なんなの?」


「所詮、お前は使われてるんだよ、頂点に立った気でいても、只の使い捨ての駒」


「何が言いたいのよ、変な夢でも見た訳?」


「なんでも知ってる風にしてるが、結局、何も知らないで動かされてるのは、お前だって同じなんだよ! それでも俺より知ってる事があるだろう、教えろ、ヨハネは誰だ?」


「なにそれ。知らないわよ。それにアタシはペトロでもないわ」


そう言ったクロリク。


——コイツ、本当に知らないのか?


シンバがクロリクの表情を疑うようにジッと見つめるが、クロリクはシレッとした表情のままで、シンバを睨み付けている。


ふと、『アタシね、あのデザインが頭に浮かんで、描きたくなって、描いていたら、アナタの弟が、アタシに言ったの、ソレ、みんなに見せようってね』クロリクがそう言っていた事を思い出した。


「・・・・・・シーツが言ったのか?」


「え?」


「デザインをみんなに見せようって」


「そうよ、それが何か?」


シンバは頭を抱え込み、軋むベッドの上で、塞ぎ込んだ。


「・・・・・・ヨハネはシーツなのかよ、クソッ!!!!」


「ヨハネって、使徒ヨハネの事?」


「・・・・・・アダムだ」


「え? アダム?」


「そう、神が自分の似姿に創ったと言われる最初の命。イエスが神であり、イエスの最愛の一番弟子がヨハネなら、ユダヤ教で言う所のアダムになる。神の最愛の最初の命——」


言いながら、シンバは、塞ぎ込んでいる場合じゃないだろうと、起き上がり、どこかへ行こうとする。


「どこへ行くの?」


そう聞いたクロリクに、答えられず、立ち止まった。


「何黙ってるのよ、弟のいる所へ行くんでしょ? 連れて行ってあげるわ」


「・・・・・・」


「どうしたの? 黙り込んで」


「行く訳ないだろう」


「え?」


「シーツの所へ行って何をするって言うんだよ、行く訳ないだろう! 行ける訳ない! モナリザのメッセージは死だ。俺はイエス・キリストの復活ばかり考えて、その復活を阻止する為のメッセージだと思っていた。バカだ。最初にヴァイスと最後の晩餐を見た時、ヨハネをモナリザに似ていると言った癖に! 全然わかってなかった! 大体モナリザの幾つかある説の中でも、モナリザが男性であると言う説もあったんだ。レオナルド・ダ・ヴィンチは、様々な説が浮かぶ事くらいわかっていた。モナリザを女に描いても男だと言う説も出る事くらい、最初からわかっていたんだ。だから、モナリザにモデルがいようが、あれが誰であろうが、関係なく、最後の晩餐のヨハネと重なるよう、謎めいた絵として残したんだよ。阻止しなければならないのはヨハネだ・・・・・・」


「ヨハネを殺さなければならないのね?」


「殺せる訳ないだろう! 俺にシーツは殺せない! アイツは俺の弟だ!」


「弟? ヨハネでしょ?」


そう言ったクロリクを、シンバは振り向いて見た。


「ヨハネでしょ?」


もう一度、クロリクがそう言った。


「・・・・・・そうだよな、弟の何がヨハネなんだ?」


「アナタの弟だと、アナタはどこで判断してたの?」


「・・・・・・俺と同じ容姿」


「なら、あの容姿がアナタの弟なだけよ」


——容姿がシーツなだけ?


——そう言えば、シーツと俺は、いつから仲良くなったんだっけ?


「・・・・・・まさか。じゃあ、シーツの、本当のシーツの魂はどこに!?」


「さぁ? アナタの弟の容姿を持っている本人に聞いてみたら?」


「いや、でもアイツはシーツだよ、だって、だってさ」


「そんなの幾らでも思い込めるわよ」


と、クロリクはスケッチブックを広げて、自分が描いたデザインをシンバに見せる。


最もシンバが塗り潰してしまった絵だが。


「思い込めば、死だって恐くないわ。だけど、本当の事を言えば、ちょっとした擦り傷だって、痛いと思うものよ。目を醒まさせてみたら? そして本当の記憶を思い出させたらどうかしら?」


「本当の記憶・・・・・・」


「だからアナタは行くべきよ。アタシはアナタが行かなきゃ、何も始まらないような気がしたの。だからアタシも行かずに、アナタが起きるのを待ってた」


「俺はどのくらい寝てた?」


「数分」


「嘘だろ?」


「本当よ、看護婦さんがここに運んだ後、直ぐにアタシが駆けつけて、ここに座って、暇だからスケッチブックを広げたら、アナタ、目を覚ましたんだもの」


「俺はどこへ行けばいい?」


そう聞いたシンバに、クロリクはニッコリ笑い、


「案内するわ」


そう言って、シンバの横を通り抜け、病室を出て行った。


「なんだよ、案内するって。まるで、ずっとこの病院と大学にいた奴の台詞だな」


そうぼやきながら、シンバはクロリクの後を追う。


クロリクが向かった場所はエレベーターに乗り込み、最上階の院長ルーム。


院長ルームの一室にある応接ルームの飾り棚の置物をどかし、そこのボタンを押して、現れた隠し扉の中へ入ると、そこは地下3.5と書かれたボタンしかないエレベーターの中。


乗り込んだはいいが、クロリクは扉を閉めた後、ボタンを押さずに、シンバをジッと見ている。


「よくこんな場所、知ってたなぁ?」


とりあえず、そう言って、シンバは只の箱の中であるエレベーターの中で、辺りを見回して見るが、特に変わった所はない。


変わっているのは3.5階のボタンだ。


それを押さないのは、何か理由があるのかとシンバがクロリクを見た時、


「アナタのお父様が教えて下さったの」


と、クロリクが話し出した。


「親父が!?」


確かに院長ルームはイオン教授しか使わないが、何故、こんな隠し通路や隠し部屋のような存在を、クロリクに教える必要があるのだろう。


「アタシの住んでいた場所が宗教観タップリの文明を築いていたから。だからアタシはここウィルアーナに呼ばれたのよ」


「あぁ、そりゃそうだろう? 違う文明を調べたかったんだと思うよ」


「そうじゃなくて。宗教文明だったからよ」


「・・・・・・あぁ」


「アナタのお父様はキリスト教について、アタシに色々と尋ねて来たわ、わざわざアタシの中に誰かを入れてね」


「え?」


「アタシがアーリス語を喋れるようになったのは、アタシの中にいる、もう一人のアタシのせいなのよ」


「・・・・・・どういう事?」


「どうしても、わかる言葉で、キリスト教について話してほしかったんじゃないかしら?」


「そうじゃなくて。キミの中に誰を入れたって言うんだよ?」


「さっき、アナタはヨハネをアダムだと言ったわね、アダムは旧約聖書の創世記に記されている天地創造の一環としてYHWHによって創造されたモノ。そして、アダムの他に、もう一人創造されたイヴ」


「・・・・・・イヴ」


「アダムとイヴは禁断の果実を食べてしまい、神は、更に命の木の実まで食べてしまう事を考え、エデンからアダムとイヴを追放したの。アダムは930歳で死んだとされているけど、イヴの死については何も記されていない」


「禁断の果実?」


「何の果実か、キリスト教には書かれてないわ、最も、エデンにしか存在しない果実なのかもね」


「謎が多いな。でもイヴの死については何も記されていないなら、そうだな、魂は死後の世界に行かず、今もこの世界にいてもおかしくないかもな。それが親父の手の中にあっても、否定はできないな。だが、間違った解釈で突っ走っても意味はないんじゃないか?」


「・・・・・・間違った解釈?」


「イエスの弟子達が説いたキリスト教に踊らされるなって事だ。イエスの真実の教え、それをちゃんと解釈しないとな。あぁ、でもアダムとイヴはユダヤ教か?」


「・・・・・・誰に言ってるの?」


そう聞いたクロリクの表情は、何故か、とても恐い。


「間違った解釈をしてるって誰に言っているの?」


また同じ問いをするクロリクに、シンバは、


「運命を操る者、その運命に操られた者」


そう答えた。


「ふ、うふふふふ、あはははは、だから、それはアナタの父親なのよ」


と、クロリクは笑う。


「だからアタシの中にイヴが入れられた。イヴとなったアタシは、こうしてアーリス語を喋れるようになって、更にキリストへ召される魂として永遠を手に入れたのよ。言ったでしょ、イヴの死については何も記されていないって。イヴは永遠なのよ。この世界の始まりとして、必要な魂だから」


「キミは魂が二つ連動できる体な訳?」


「こうして連動してるじゃない!」


「イヴだと思い込まされただけじゃなくて?」


「思い込みだけで、アーリス語が喋れるとでも!?」


「わからないけど、喋れなくはないんじゃないかなと思う」


「暗示で知らない言語が話せるって? アナタ、それでも学者?」


「俺はまだ学生。だけど、思い込みで、こんな絵まで描けるんだろう?」


シンバはそう言って、クロリクが持っているスケッチブックを指差した。


「思い込みだけにしちゃ、確かに凄い芸術だけど」


「・・・・・・じゃあ、アナタの弟もアダムと思い込んでいるのかしら?」


「それはわからない。そろそろ、それを確かめに行かない? もう時間稼ぎはいいだろう?」


そう言ったシンバに、クロリクは目を丸くした。


「悪いけど、この話、俺、マトモに聞いてない。只の時間稼ぎだってわかったから。親父の存在を出せば、俺が何でも信じるとでも思った? 生憎、親父が何をしようが、俺には関係ないよ、興味はあるけどね。それに俺が行かないと始まらない? って事は舞台が整う迄、俺は待ってなければならないんだろうな? 俺の出番まで。今、親父は入院中。そんな事できない。でもいいよ、待ってやっても。実際、どうしたもんか、全くわかんねぇしさ。もうこうなったら運命に従う迄かな。でも知りたいな、キミは誰に頼まれて、俺を連れてくるように言われたの? シーツ?」


「・・・・・・」


「まぁ、いいや。で、他に何の話をして時間でも潰す?」


「・・・・・・」


——なんで急に無言?


——彼女の演技?


——時間稼ぎだったんだよな?


クロリクは、沈黙の末、地下3.5階のボタンを押した。


エレベーターが動き出す。


どこへ繋がっているのか、不安と焦りが混じり、急に心拍数が上がるシンバ。


「3.5って、なんでそんな中途半端な階を作ったんだ?」


「この建物が崩れても、3階から下はシェルター同然らしく頑丈で非常ルームになってるの、それくらいは知ってるでしょ? 地下道と繋がっていて、外へ通じる道も幾つかあるみたいね。だけど、普通の人達はこういう隠し通路や隠しエレベーターを知らなければ、3階と4階の間のフロアには行けないの。そんな階は存在しないから」


「へぇ、誰に聞いたの?」


態とそう尋ねてみたが、もう彼女の口から、イオン教授の存在を聞く事はなかった。


彼女は一体、誰に聞いたのだろう、シンバにはどうしてもシーツだとは思えなかった。


エレベーターのドアが開き、目の前に長いローカが真っ直ぐ続いている。


シンバがエレベーターから下りると、続いてクロリクも下りて、


「イエスの真実の教えって何?」


そう尋ねて来た。


「シンバ君はイエスの真実の教えが何か知っているのですか?」


エレベーターの影になる壁に凭れかけ、そう言ったのはフレダー。


「俺がシンバだってよくわかったな、シーツにはもう会ったって事か」


そう言ったシンバに、フレダーは、


「いいえ、シーツ君なら、イエスの真実の教えなどに興味もないと思ったからですよ」


と、答えた。そして、体の向きを変え、シンバと向き合う。


「言っておきますが、キリスト教だけがユダヤ教と繋がる訳ではありませんよ。イスラム教も同じです」


「イスラム?」


「ユダヤ教はキリスト教、イスラム教よりも長い歴史を持ち、二つの宗教の源であり、同時に多大な影響を与えたんです。つまり、イエスが説いた教えがユダヤ教の全てではない。だからこそ、イエスの真実の教えなどに興味なんて持たない。シーツ君なら、そう言うでしょうね」


「・・・・・・たった一人でいいんだよ、イエスの虜になる奴は。そうだろう?」


そう言ったシンバに、フレダーは少し驚いた顔をした後、クッと笑いを堪え、


「私もそう言ったんですよ、シーツ君に。たった一人でいいんです、イエスに忠実な人間、たった一人で。それに気付いたなんて、シンバ君、流石、イオン教授の息子さんだ」


と、褒めているようで貶しているように、そう言った。


「・・・・・・アンタこそ、何を知っているんだ。シーツがシーツではなく、そのイエスの虜になる、たった一人のヨハネだって事か? それもアンタの仕業か?」


「おや、それはまた凄い話だ。なら、ヨハネがもう一人のイエスだと言う存在だったかもしれないと言う解釈まで気付きましたか? イエスの虜になったヨハネは自分がイエスになる事で、イエスの復活を考えた。なら聖杯がなんなのか、もう理解できてますよね?」


聖杯とはキリスト教の聖遺物のひとつで、最後の晩餐に使われたと言われており、その聖杯の存在は謎となっている。


聖杯を探し求める騎士の物語や、或いはそれをモチーフにした奇跡譚が語られたものを聖杯伝説と言われる程。


銀でできており、取っ手が二つ対向して付いていたと言う。


対角37センチの6角形で杯よりも鉢に近いと言う。


緑色のガラスであると言う。


直径9センチの半球状、高さ17センチで、暗赤色のメノウで出来ていると言う。


外側は鋳物で装飾が施され、内は銀の二重構造になっていると言う。


聖杯と言われた物は、どれもこれも形さえ違う。


聖杯が存在する場所も様々で、教会にあるとするもの、大聖堂にあるもの、イエスの弟子が持ち込んだもの、または発掘され発見されたとするもの、その話全てが嘘か真実かもわからない。


つまり、聖杯の行方はわからないと言う事だ。


これがまた謎となり、様々な説が浮かび上がった。


ある大統領になった男は聖杯をキリストの血脈と結びつけた。


キリストの血脈は王家の血とも解釈され、聖杯を手に入れた者が天下をとれると言う者もいた。


「レオナルド・ダ・ヴィンチが描く最後の晩餐には聖杯がないと言われている。でもそうとも言い切れませんよ、最後の晩餐に聖杯が使われたのは事実でしょうから」


「・・・・・・まさか聖杯って魂の入れ物?」


「キリスト教において、新約聖書の四つの福音書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の内、マタイ、マルコ、ルカは共通する記録が多く、同じような表現も見られ、最後の晩餐では、イエスはパンを裂き、私の体であると言い、弟子達に与え、杯を取り、私の血であると弟子達に、その杯からワインを飲ませるなどと書かれているが、ヨハネによる福音書に、この場面はないんですよ。福音書とはイエス・キリストの言行録。このヨハネによる福音書が使徒ヨハネによって書かれたものなのか、或いは違うヨハネによるものなのか、学者達の間では問題になってきたのは言う迄もないでしょう、他の福音書とは明らかに違うヨハネの文書は、何を意味するのか、只のイエスの記録とは思えないのは誰でもわかります。本当の事を知っている者程、本当の事など、書けないでしょうしね」


「ヨハネがイエスの魂の入った聖杯を持っていた。既に晩餐の時、肉体はイエスでも魂は違う者がそこにいた」


「かもしれませんよ、ヨハネはイエスの復活を唱えながら、それを叶える者は自分しかいないとわかっていながら、イエスの復活を止めたのは、結局はキリスト教の頂点はイエスしかいないと知ってしまったからかもしれませんね。神を蘇らせても、その力は誰にも感謝されず、寧ろ、蘇った神が感謝されてしまうのなら、蘇らせる必要はないと判断したのでしょう」


「で、その聖杯は——、イエスの魂はどこにあるんだよ」


「さぁ?」


「さぁって!!!! そこまで話しておいて知らないと言い切るのか!?」


「知らないものは知りません。それに本当の聖杯がなんなのか、そんなもの、本物のイエスに問わない限り、わかりませんよ。聖杯はそれぞれの解釈と想像で、幾つも、この世に存在したでしょうし、また、それぞれの解釈と想像で、聖杯の意味も違ったでしょうしね。我々が解釈した聖杯の意味が魂の入れ物だったと言うだけで、それが正解かどうかもわかりませんよ」


「・・・・・・じゃあ、全て間違っているかもしれない」


「そうですね」


「間違った解釈で動いて、それでもシーツは! ・・・・・・ヨハネはそれが正しいと?」


「それもイエスの教えのひとつでしょう、どう解釈されても、例えそれが己の考えとは全く違っても、イエスの愛は変わりませんよ。しかし、私は全く違うとは思いませんよ、馬鹿げていると言う人もいますが、私は霊の存在を信じていますから」


「は? 霊って? 魂って意味じゃなくて、ゴーストの方?」


「魂もゴーストも同じようなもんでしょう? 皆、誰でも死ねば21グラムと言う謎の重さが消える。通常、目には見えないモノ。それが魂だとして、魂が型を成したモノが霊だとしましょう、勿論、魂とはエネルギーの塊な訳で、型を成したり、思考を持ったりなどは在り得ないとは思いますが、実際、私が魂になった訳ではないので、在り得ないと思うだけで、もしかしたら在り得るかもしれませんよね、事実、魂とは、たったの21グラムなのに、凄まじい膨大なエネルギー量です。そのエネルギーがあれば、何でも出来るであろう可能性は広がりますよ」


「だから?」


「だから悪魔払いなどの為、聖書が使われたのではないかと思ったんですよ」


「悪魔払い?」


「昔は精神病などの患者と症状が似た者達は、悪魔が憑いたなどと言われ、エクソシストと言う職業の者達が悪魔払いをしたんです。悪魔達はイエスの存在を恐れ、聖書を読み上げるだけで苦しみ、イエスが磔にあった十字架をモチーフにしたロザリオを見せただけで、悶えたと言います。悪魔とか天使とか、死後の世界の者達でしょうね、誰でも、死んだら、そこへ行く場所にいる者達なんでしょう。つまり、魂のような者ですよね」


「・・・・・・魂のような者」


「悪魔達が恐れているのは、イエスが未だに死後の世界に来ていないからじゃないでしょうか? その魂は未だに聖杯に封じられている。それ程、恐ろしい事はないでしょう? イエスのようになりたくはない、だからこそ、キリスト教を知りたくはない、信じたくはない、イエスなど、見たくもない、なのにイエスの記録を読み上げられたら、精神的苦痛で、悶えるのも無理はない。そうは思いませんか?」


「なら天使だって同じじゃないか」


「いえ、天使は悪魔を払う存在だと信じている人間に、天使が何を恐れますか? 恐いのは信仰心でしょう? つまり全て、天国も地獄も、アーリスも、キリスト教の暗示にかかっているようなもの」


「・・・・・・悪魔と天使の話は架空過ぎる。そんな話を持ち出されて、聖杯とは魂を入れるモノと説明されても、何の説得力もない」


「いいえ、別に説得する気はありませんよ、アナタにはアナタの解釈があるでしょうから」


「ヨハネを阻止する」


「どうぞ」


余りにも即答でそう答えるフレダーに、


「アンタは味方なのか!? 敵なのか!? どっちなんだ!」


シンバはそう吠えた。


「長々と聖杯について話したと思ったら、俺には俺の解釈があるから好きにしろとばかりに頷きやがって! 何がしたいんだ! ヨハネを阻止する事はアンタにとって、利益になるのか? だから、阻止してもいいのか? それとも何か企みがあるのか?」


「何もありませんよ、只、私はそう解釈していると言う話をしただけで——」


「アンタの解釈なんて興味ねぇよ!」


と、長々と話をされた事に苛立ち、そう吠えたシンバに、


「まだわからないの? シン」


と、長いローカを歩いてくるエノツ。その声に振り向き、


「エノッチ?」


と、口の中だけで呟くシンバ。


「魂の入れ物がなんなのか、聖杯がなんなのか、まだわからないの? 誰がどう解釈しようが構わないけど、そう解釈されたならば、その入れ物がなんなのか、興味わかない?」


「・・・・・・エノッチ? なんか雰囲気ちがう?」


「どうでもいいでしょ、そんな事」


そう言って、エノツは眼鏡を中指で上げた。そして、


「解釈は解釈。事実か真実か、それはわからない。ならイエスの魂は人工魂って事。21グラムという目には見えない膨大なエネルギー。イエスの魂だと信じ込ませたエネルギーの、その入れ物って何かわかる? 設計図にはカプセルの容器みたいなもので描かれていたけど、実際、魂を入れるものが、そんなモノの訳がないよね」


——設計図?


——設計図って、やっぱり魂を入れたり抜いたりする機体の設計図だったのか?


大体、予想はしていたが、やはりそうだったかと、シンバは思う。


エノツは別人のようだ。見た事もない無表情で、シンバを見ている。


設計図がどうこうよりも、シンバはエノツの変貌が気になる。


「・・・・・・エノッチ? エノッチだよな?」


「わからない? 僕だって、入れ物に過ぎない。シンだってそうだろう?」


「え? それって人間が? 入れ物? まさか、だって、どうやって?」


「どうやって? ここをどこだと思ってるの? あのウィルアーナだよ? 将来、シンがこの全てを受け継ぐかもしれないんだから、少しくらい理解した方がいいよ?」


「理解?」


「・・・・・・いや、受け継ぐのはシーツ君の方だね」


そう言って、ニヤリと笑うエノツ。


「生憎、聖杯が誰なのか、わからないんですよ」


またフレダーが話し出した。


だが、フレダーよりも、エノツが気になって、シンバはエノツから目が離せない。


エノツは変わっている。


見た目は確かにエノツなのだが、中身が違うような気がしてならない。


「イエスの魂は、ある入れ物に入っていましたが、ある日、その入れ物から魂だけがなくなり、その入れ物は朽ち果ててしまいました。こうなったら、皆、死んでもらい、その中で生き残った者がイエスの魂の者と言う事ですよね?」


そう言ったフレダーに、


「まさか集団自殺ってそれが目当てだったのか!?」


と、エノツから目を離し、フレダーを見て、シンバが叫んだ。


「それは知りませんよ、私がやった訳ではありませんから。でもそうした方が早いでしょうね、誰かの中で、イエスの魂が眠っているのなら、自殺した筈なのに、まだ生きている者、それがイエスの魂が入っている聖杯でしょう。自分が死んでも、イエスの魂が生きているから、生存しているだけであって、自分が死んだ事もわかってないかもしれませんね、魂がひとつの体にふたつ存在できるか、どうか、わかりませんが、ひとつを眠らせておけば、可能かもしれません。でも眠っていただけですから、自分がイエスだとは忘れていて、今まで起きていた魂の記憶が引き継がれる可能性もありますよね」


「・・・・・・何言ってんの?」


誰にも聞こえないような小さな声で、シンバはそう囁いた。


——何言ってんの、この人。


——そんな事、在り得ない。


——あってたまるか。


——だって、そんな事、認めたら・・・・・・


「・・・・・・俺が聖杯だって思ってる訳?」


また誰にも聞こえないような小さな声で、シンバが囁く。


そして、シンバはエノツの顔を見て、フレダーの顔を見て、さっきから黙っているクロリクの顔を見て、


「俺は自殺なんてしてねぇよ! 俺は死んでない! 確かにポスターを見たさ! 見たけど、自殺もしてなければ、イエスの魂に記憶を引き継がせ、生存してる訳でもねぇよ! 俺は俺だよ! 元々の俺だよ!」


言い訳のように叫び出した。


黙っている三人の目が、重圧感を感じさせる。


「エノッチ! お前なら信じてくれるよな? なんでも質問してくれよ、子供の頃の俺達だけにしか、わからない事! 沢山あるだろう? 俺はなんでも答えれる! 俺が俺である事の証明、お前なら、わかるよな?」


シンバはエノツにすがるように、必死に訴える。


何も答えてくれないエノツ。


「俺だけじゃないだろう! ポスターを見て、死んでない奴!」


だが、誰も何も答えてくれない。


今まで、聞いてもないのにベラベラ喋ってた癖に、突然、黙り込むフレダーに、


「なんでだよ! 俺はイエスじゃねぇよ!」


そう叫んだ。


「シン、ひとつだけ、証明できる方法があるよ」


「エノッチ! 言ってやってくれ! 俺がシンバである事を!」


「うん。死んでみたらいいんだよ」


「え?」


「ここで命を絶とう。それでシンが死んだら、イエスじゃなかった事の証明になると思うんだ」


「・・・・・・何言ってるんだよ、エノッチ」


「例え、もう既にシンである魂が死んでて、イエスの魂で生存している状態だったとしよう。でも、シーツ君はもうイエスの魂なんて必要ないって言ってるからさ。シン本人だったとしても、シーツ君はシンが邪魔みたい」


無表情だった癖に、嬉しそうな顔で、そんな事を言い出すエノツ。


「・・・・・・シーツ、シーツって、嬉しそうに、エノッチ、どうしたんだよ?」


「聖書とは、ヨハネの言葉がイエスの言葉であるようなもんですよ、イエスの言う事は絶対であり、それに従う事は最高の幸せ。ヨハネがそう言うならば、そうなんでしょ」


そう言ったフレダー。


「エノッチはヨハネの手の中に堕ちたのか?」


「アナタが救ってみます?」


またフレダーが、嫌な笑みを浮かべながら、そんな事を言い出す。


——俺はどうしたらいい?


——死にたくない。


——だって俺はイエスじゃない!


——この場から逃げる?


——それが一番正しい選択か?


——でもどこへ?


エレベーターの前にはクロリクが立っている、その直ぐ隣にはフレダーが立っていて、横の通路は立ち塞がれている。真っ直ぐに伸びたローカはエノツが立っていて、通れない。


どこにも逃げ場所がない。


「もう一度! もう一度だけ俺にチャンスをくれないか? レオナルド・ダ・ヴィンチが残した謎を、ちゃんと解くから!」


もう嘘でも吐いて、逃げ道を作るしかないとシンバは思ったのか、今更、そんな事を言い出した。


「シンバ君、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した絵画の数々は、聖書を読み、理解し、解読し、解釈し、想像して、描かれた世界です。ダ・ヴィンチが何を描きたかったのか、それは聖書を理解した上の解釈した者、ダ・ヴィンチ本人にしかわからないでしょう。言っておきますが、誰も聖書の本当の文章は読んでいませんよ、ダ・ヴィンチもね」


「どういう意味?」


どういう意味かなど、もうシンバはわかっていた。


だが、少しでも時間稼ぎしたくて、手に汗握る、この状況で、悪足掻き。


フレダーは、シンバの悪足掻きを悟ってないのか、それとも悟ったが、時間稼ぎに協力してくれるつもりか、話し出した。


「聖書は勝手に書き足されたり、削除されたり、無理な意味で訳されたりされて、この世に広まったモノです。今現在、聖書を手に入れたとして、それが本当に最初から存在したモノである筈はありませんよね。聖書を手に入れるだけでも難しいでしょう、もう殆ど、この世に残ってないでしょうから。我々は、そんな時代で、手探りで聖書に触れただけです。誰かの脳に残っている言い伝えのような有名な一説を引き出して、後は解釈しているだけに過ぎない。ダ・ヴィンチの時代に、どれだけ本当の事を伝えられていたか知りませんが、例え、全て本当の事を知った上で、ダ・ヴィンチが描いた絵画や残した記録が、我々の解釈と何か関係がありますか?」


「ある! もしも同じ解釈だったなら、もう実験はとっくに行われて結果が出てる筈! 結局、その結果が良くない事ならば、二度としてはならない事なんじゃないのか!? 人類の過去を知る事は人類が起こした失敗を二度としない為じゃないのか? そうやって人類は平和を築き、幸せを手に入れるんじゃないのか?」


「それはダ・ヴィンチと同じ解釈だったならばって事でしょう? 我々は我々の解釈で道を進んでいますからねぇ。ダ・ヴィンチを引き合いに出したのは、我々の解釈に当て嵌めたかっただけですよ。誰でもそうです、ダ・ヴィンチは聖書の謎を解き明かした人物であろうからこそ、自分の解釈にダ・ヴィンチを出し、そして自分の解釈が正しいと思い込んでいるだけ。結局、自分が解釈した事に満足する結果が出れば、ダ・ヴィンチがどう解釈したかなど、どうでもいいんですよ」


フレダーがそう言い終わると、


「・・・・・・シン、満足する結果、出そうよ」


と、エノツは銃口をシンバに向けた。


「・・・・・・銃?」


そう呟くシンバに、


「ウィルアーナの生徒になった時にもらえる麻酔銃だよ。でも弾は聖弾と言われる銀の弾だよ、シーツ君が用意してくれたんだ」


と、嬉しそうに言うエノツ。


余りにも嬉しそうなエノツの表情。


——あぁ、そうか。


——コイツ、俺の事、嫌いだったんだ。


——じゃなきゃ、暗示にかかっていたからって、俺に銃なんて向けない。


——親友だと思っていたのは俺だけだったんだ。


——そうだよな、俺だって、エノッチの事、ムカツク事があった。


——ラテの傍で笑うコイツが嫌いだった。


——コイツさえいなければって、何度思ったか。


——俺達、同じだ。


シンバは、諦めた。


逃げ場もない、しかも親友に本気で銃を向けられ、嬉しそうな顔をされ、もういいやと言う、自分に終わりが来る覚悟と、疲れたと思う気持ちと、それから、エノツと同じ気持ちだと言う事に、諦めがついたのだ。


——コイツなら、きっと、ラテを大事にする。


——ラテを最後まで守るだろう。


——それに俺が死ねば、きっとシーツは生き残る。


——親父もお袋も、シーツが死ぬより、俺が死んだ方が悲しまないだろう。


——だから、もう、いいや。


シンバは、少し笑顔になる。


そして、銃を向けるエノツに手を広げた。


「・・・・・・いいよ、撃てよ」


エノツは弾き金を引いた——。


ダスッと言う空気を切るような軽い音と、空気を引っ張るような重い音が混ざったような音と共に、シンバは目を閉じた。


——あれ?


——痛くない?


目を開けると、どうやら、命中しなかったようだ。


再び、シンバが目を閉じると、直ぐにまた軽い音と重い音が混ざった音が聞こえた。


瞬間、頬に激痛。


掠っただけだが、物凄く痛い。


目を開けると、エノツは銃を構えたまま、汗だくになっている。


「・・・・・・つうか、もう怖ぇぇ」


シンバはそう呟くと、エノツ目掛けて走り出した。


体当たりすると、エノツは、無防備だったせいもあり、後ろへ転がり倒れた。


「こんなチャンス一度しかやんねぇよ、おまけで二度撃たせてやったけど、せっかく決めた覚悟もこれじゃあ恐怖で壊れんだろ! バカか! お前! しかも至近距離で外すな! 仕留めるなら一気にやれよ!」


助かった癖に、エノツのミスを指摘するシンバ。


エノツは直ぐに起き上がり、シンバを逃がすかとばかりに手を掴んで来た。


「離せ! この野郎!」


と、シンバはエノツの腹を蹴り上げる。


ゲホッと苦しい息が吐き出され、エノツは前のめりになる。


見ると、クロリクとフレダーは黙って、只、見ているだけ——。


——クソッ! どいつもこいつも!


——結局、何もわかってねぇから、只、見てるだけしかできねぇんじゃねぇか!


——で、自分等の解釈通りのおいしい場面が来たら、登場ってか!?


——在り得ねぇ! 全部、壊してやる!


シンバはシーツに会いに行く為に、長いローカを走り出した。


——ん?


——なんだ、これ?


ふと、手の中に何かある。


——ゲーセンの30ポイントコイン?


それはエノツとよく行くゲームセンターで遊べるコインだ。


さっき、エノツがシンバの手を掴んだ時に、手の中に入れたようだ。


——・・・・・・なんだ? どういう意味だ? エノッチ?


思わず、振り返ると、エノツが、銃を構えている姿が目に入った。


——嘘だろ、まだ俺を撃とうってか!?


もう、気にせずに、がむしゃらに走るしかない。


だが、弾は飛んで来ない。


あれだけの至近距離で狙いをつけれなかったのだ、しかも走って動いて遠ざかる的を狙える訳がない。


——無駄弾は使わないってか、エノッチらしい考えだ。


——エノッチらしい?


——てか、やっぱ、エノッチなんだよなぁ。


幾ら、ヨハネの説いた術中に堕ちたとしても、エノツだけは、自分の味方でいてほしかったと、シンバは悲しくなる。


だが、哀しみに慕っている時間はない。


銃を持って、エノツが追って来る前に、シーツに会わなければ!


長い長いローカ。


サイドの壁にはドアが幾つも並ぶが、ひとつ、ひとつ開けて確認してる暇はない。


だがシンバは、そんな小さな扉の向こうに、シーツがいる筈がないと思っている。


いるとしたら、もっと、わかりやすい大層な場所にいるだろう。


なんせ、シーツ自身、シンバを導いているに違いない。


エノツが殺せなかった場合、シーツがシンバを殺すしかないのだろうから。


この際、自分が聖杯と言う入れ物で、キリストの魂が入っていると思われてもいいだろう。


それでシーツに会えるならば。


——てか、ヤバッ、俺、運動不足!


——息切れ早ッ!


——長ぇし、このローカ!


ずっと走り続けていると、今ある状況の緊迫感よりも、自分の持久力のなさに悲しくなる。


——うっそだろ、俺、こんな運動能力ねぇの?


——横腹いてぇし!


——吐きそうだし。


シンバは後ろを振り向き、誰も追いかけて来ないと、歩き出した。


喉が焼けるように熱い。


呼吸の荒さに、自分でも驚く。


まるで体の中の水分が、殆ど出たんじゃないかって程の汗だく。


横腹を押さえながら、苦しそうに歩く。


やっとの思いで、突き当たりの自動ドアの前に辿り着いた。


ドアが開くと、今度は普通の大きな扉がある。


シンバはその扉を戸惑いなく、開けた。


もうここ迄来て、躊躇するのはバカらしい。


その部屋は、大きな絵画がひとつあるだけの空間。


「・・・・・・レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐」


その絵画が偽物か本物かは別として、そう呟いた。


シンバは自分の知っている限りでの、12使徒達を、その絵画で見る。


そしてエノツが握らせたゲーセンの30ポントコインを見る。


「・・・・・・裏切り者の・・・・・・ユダ・・・・・・?」


ユダは金目当てで祭司長達にイエスの引渡しを持ちかけ、銀貨30枚を得る約束をとりつけた。


だが、エノツが、今の神のいない時代で育ってきて、そんな事、知っているのだろうか?


「・・・・・・これが、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたユダ」


金の入った袋らしきモノを持っている使徒。


「・・・・・・コイツが、ユダ」


——ゲーセンのコインに銀貨30枚の意味を持たせたとしたら?


——エノッチは神を裏切る?


——だとしたら・・・・・・。


「・・・・・・アイツは俺の味方?」


——まさか。


シンバは頬の掠り傷に、ソッと触れる。


ちょっとした掠り傷なのに、汗のせいで、血が止まらず、汗と一緒に流れ落ちている。


——味方だったら、撃たないだろう。


——態と外すだろう。


——下手したら、これ、頭撃ち抜かれるトコだ。


「・・・・・・兄貴?」


その声に、ビクッとして、振り向く。


「よくここ迄、辿り着けたね」


そう言って、微笑むシーツ。


どこから、どう見ても、弟だ。


ヨハネであるなんて、思えない。


だが、目の色が違う。


なんて美しいアクアの瞳。


「どうしたの? そんな変な顔しちゃって」


「・・・・・・シーツ?」


「なに?」


「・・・・・・この部屋はなんなんだ?」


「プロジェクトチームYHWHの研究室だよ」


「・・・・・・そのプロジェクトチームは誰によって作られた?」


「ボクと兄貴によって」


「え? 俺?」


「忘れた? ボク達はいつも憎しみあっていたよね。意味なんてなく、酷くボク達はお互いを恨みあっていた。母は嘆き、父は悲しみ、そして、母はノイローゼになって、病院に入院する事になった」


「え? そうだっけ? そんな事あったっけ?」


「父はどうにかして、ボク達を仲良くさせようと考えた。神に魂を売ってでも——」


「・・・・・・魂を売るって、親父が何をしたんだよ?」


「何も。只、神に祈るようになったんだよ。神を知るようになった。父はキリスト教に辿り着き、そして、父はキリスト教を知れば知る程、魅入られていく」


「ちょっと待てよ、なんでキリスト教なんだよ!?」


「それは運命だったのかもね。ボク達が生まれた時からの」


「運命で片付けるのか!? 理由なんてないって言うのか!?」


「だって、ボク達のどちらかが生まれた時から持っていたと言われる、あの石は、多分、キリスト教が語る神が、ボク達に与えたモノ。父はそれに触れたんだろうから」


——石?


——石ってなんだっけ?


——そういえば、そんなのが、親父のコレクションのひとつにあったような?


「父はキリスト教を説いて、ひとつの解釈へと導く」


「・・・・・・魂を作ったのか? そんな事が神に魂を売るって事か? 寧ろ、神を冒涜してるだろう!」


「ボク達の為にしたんじゃないか」


「俺達の為? 俺達の為に、どれだけの双子が犠牲になったんだ!」


「犠牲? 聖杯になるんだよ、寧ろ、喜ばしい事じゃないか。それに兄貴は自分の為にしてくれた事を、否定するの?」


「魂なんて作るもんじゃねぇだろ!」


「どうして? 当たり前の事じゃないの? 人間達は肉体を母体じゃない場所で作る事を生み出したんだよ? 次は魂でしょ? 幾ら入れ物があっても、中身がなければ、只の廃人だもんね」


「・・・・・・肉体を作る事も、俺は許されない行為だって思ってるよ」


「兄貴は科学者にはなれないね。折角の出来のいい頭を持っていても、使い方を知らないから、そんな一般人みたいな偽善事を言うんだよ」


「・・・・・・一般人でもいいよ、お前みたいになりたくない」


「負け惜しみ? 最初から兄貴の負けだけどね」


「どういう意味だよ!」


「覚えてない? 兄貴じゃなくて、ボクが選ばれたんだよ」


「・・・・・・」


「ボクが選ばれて、父さんに連れて来られた場所がここだよ」


「・・・・・・」


「ボクは父さんの望むままに、あれから兄貴と仲良くできて来れたよね?」


「・・・・・・お前は誰なんだ?」


そう問うと、シーツはフッと鼻で笑った。


「ヨハネなのか? 神が一番に愛する命アダムか!」


そう聞いたシンバに、


「だとしたら?」


と、どうでも良さそうに尋ね返してきた。


「シーツはどこだ! 本物のシーツの魂はどこなんだ!」


「そんなの知ってどうするの? 今度こそ仲良くなれるって思うの?」


確かに、シーツの存在を聞いても、どうしていいのか、シンバはわからない。


だが、シーツは死んではいないと、シンバは確信している。


イオン教授がシーツの魂を殺す事など、絶対に在り得ないと思うからだ。


「ねぇ、兄貴。父さんはね、イエスの魂を兄貴の中に入れたんじゃないのかな?」


「・・・・・・」


「だからヨハネのボクはイエスの魂を持っている兄貴を愛せたんじゃないかな? 神である魂を持った兄貴を、アダムのボクは敬えたんじゃないかな?」


「・・・・・・在り得ない」


「なんで?」


「俺はシンバだ。イエスじゃない。それに親父は、自分の子供を殺す事はしない」


「・・・・・・ふぅん、なんだかんだ、父さんが好きなんだ?」


「・・・・・・」


「結局、自分の子供がどうって事よりも、キリスト教に魅入られただけだよ。しょうがないよね、いつの世も、天才は犠牲を恐れない」


「・・・・・・」


「それでも父さんが好き? 選ばれたのはボクなのに?」


「・・・・・・選ばれた? いい解釈してやがる。そんなアクアの瞳に変貌して、どこが選ばれてるって言うんだ! マトモじゃない」


「なんかムカツクな、その言い方。でもやっぱり、そんなに腹が立たないのは、なんでかな? やっぱり、イエス様が兄貴の中にいるから?」


「まだそんな事言ってんのかよ。だったら、いたらどうだって言うんだ」


「・・・・・・消えてもらおうかな」


「矛盾してねぇ? 大好きな愛するイエス様なんだろう?」


「大好きだよ。だから、貴方になりたい。貴方自身になりたい。でも、貴方は二人もいらないよね? ボク達は2人もいらないんだ・・・・・・」


「バカじゃん! 俺達は双子だから2人いていいんだよ! それにイエスになんて、誰もなれねぇよ!」


そう吠えた瞬間、エノツが扉を開けて、


「その通り」


と、銃を向けて現れた。


ニヤリと笑うシーツと、フリーズし、再び嫌な汗が溢れるシンバ。


だが、エノツは銃をシーツに向けた。


「ごめんね、シーツ君。僕もウィルアーナの生徒なんだよ。この異常な事態に気付かない訳ないし、調べてみたいと言う探究心も、それなりにあるんだ。キリスト教、僕なりに結構、理解したよ。面白いね、あんな文章、初めて見た。僕が興味湧かない訳がない」


シーツは驚いた顔をしている。


シンバは逆に安堵の溜息を吐いた後、エノツに渡された30ポイントコインを指で弾いて、宙に飛ばし、それをパシッと片手で受け止め、


「お前、眼鏡の度、合わせておけよ、俺、危うく、頭撃ち抜かれるとこだったじゃん」


と、笑顔で、そう言った。


「ごめん、ごめん。なんせ銃なんて撃つのも初めてだったし、的もハッキリ見えなかったし、シンの頬を掠った時、もぉ、ドッキドキだったよ。だけど、シンこそ、マジで蹴るんだもんなぁ、結構きいたよ。 僕は迫真の演技だったでしょ? 自殺事件の人達の不安定な精神状態も聞いてたからね、死んじまえって呟いて真似てみたけど、バレバレの演技でもなかったみたいだよね、ホント、電子工学者やめて、将来は俳優も悪くないね」


エノツも笑顔で、そう言って、シンバを見る。


「シーツ、いや、ヨハネ、悪いな、コイツは30枚の銀貨でイエスを裏切ったユダって訳だ。最も、裏切り者のユダを演じただけだけどな。でもゲーセンの30ポイントコインじゃあ、安過ぎだな」


と、シンバの声も台詞も余裕が取り戻された。


「そっか。眼鏡の度が合ってなかったのか。だからポスターを見ても暗示にかからなかったんだ。騙したつもりが騙されちゃった。ボクを騙すなんて、うん、俳優に向いてんじゃない?」


と、何故かシーツの声も台詞も余裕に聞こえる。そして、シーツはシンバとエノツを見て、ニヤリと不敵に笑った。


「兄貴達はユダの福音書は知らないでしょう?」


——ユダの福音書?


「キリスト教の新約・旧約聖書を知ってるのかもしれないけど、キリスト教はね、新約・旧約聖書が全てじゃないよ。よく考えてごらんよ、ユダの裏切りを受け止めるには幾つかの困難が伴うよね? まず1つ、イエスは裏切りを予知していたのに、何故、回避できなかったのか。2つ、ユダはいつから背信の心を持ったのか。3つ、裏切りの動機は何か、そもそも彼に自由意志があったのか。ヨハネの福音書には書いてあったろう? イエスは最初から裏切り者が誰であるのか知っていたと——」


シーツは、嫌な笑みを浮かべながら、話し続ける。


そして絵画、最後の晩餐に目を向けた。


「多くの最後の晩餐を描かれた絵画で、ユダは、一人だけ頭に光冠がない、一人だけ机の反対側に座っている、衣は黄色の場合が多いと共通された表現で描かれているんだ。だけど、この絵画はどうだろう? その伝統的な表現を廃し、ユダは皆と同じ側に座っているよね。右手に金入れの袋を握っているけど、ユダは会計係りだったからね。他の使徒と格別異なった風には描かれていない。でも、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵画が、ボクは一番嫌いだ。最後の晩餐の絵画は、必ず、聖人に後光がさしているんだよ。なのに、レオナルドはユダを他の聖人達と区別した描き方もなければ、誰の後ろにも、後光を描かなかった。かわりにイエスの背後に大きな窓を描いて、外からの明るい光を描いた。そりゃ、窓から入った光は眩しくて当たり前だよ。まるで普通の人だと言わんばかりだよね。大嫌いだよ、この絵画——」


そう話終えると、絵画から目を離し、シンバとエノツを見て、ニッコリ笑った。


「ユダは裏切ったんじゃない。ユダはイエスを十字架に架け、キリストにする重要な役割を果たした人物だよ。イエスは起こるべき事を全て知っており、寧ろ、進んでユダに指図しているんだよ。ユダの福音書にはそう書かれている。イエス・キリストの弟子イスカリオテのユダ。実はキリスト教の真の教えを正しく理解した一番弟子なんだよ」


「一番弟子? ヨハネがだろう?」


「わかってないな、兄貴は。さっき言ったじゃん、ヨハネの福音書には、イエスが最初から裏切り者が誰であるか知っていたってさ」


「・・・・・・ユダは、イエスになろうとしたヨハネの一番弟子って事か」


そう呟いたシンバに、シーツは嬉しそうな笑顔。


「ユダの裏切りの困難の説明も、これで理解できるよね? イエスは裏切りを予知していたのに、何故、回避できなかったのか。ヨハネが指図したんだから、回避なんてできないよね。ユダはいつから背信の心を持ったのか。持ってないって。ユダは忠実だよ、ユダが信じたイエスであるヨハネにね。裏切りの動機は何か、そもそも彼に自由意志があったのか。自由意志? ある訳ないじゃん。動機? そんなの忠実に従っただけの事だよ。だからザタルト君がユダだって言うなら、従ってもらうしかないね、ボクに——」


「何言ってんだ、従う訳ねぇだろ!」


「兄貴は強きだね、何も手の内に持ってない癖に」


「へぇ、お前は持ってるってのかよ!」


「持ってるよ、ザタルト君の銃口が兄貴に向くモノを——」


そう言うと、シーツは壁の小さなスイッチを押した。


最後の晩餐の絵画が、上にあがり、絵画がなくなった、そこに大きな窓が現れる。


「ラテ!!?」


シンバとエノツが同時にそう叫んだ。


窓の向こう、十字架に架けられたラテらしき姿がある。


「・・・・・・彼女が新しいキリストのモチーフになってもいいの?」


シーツの不敵な笑いと、その表情が、本気だとわかる。


「・・・・・・あれは本当にラテか? 翼みたいなのはなんだ?」


シンバは十字架に架けられたラテの背後にある大きな黒い翼が気になった。


「兄貴、ボク達のどちらかが生まれた時から持っていたと言われる、あの石は、今、彼女が持っているんだ。覚えてる? あの石を——」


「・・・・・・いや、よくは覚えてないが、親父のコレクションのひとつとして飾られてた記憶がある」


「そうだよ、飾られてた。でも今は、彼女が持っている」


「なんでラテが?」


「でも彼女は持っていないと言う」


「そりゃ持ってないんだろう」


「持ってるんだよ。持ってる癖に出さないんだ。裸にして調べる事もできるけど、なんせ小さな石だ。女だからね、小さな石を体内に隠す事なんて簡単だし、そこまで調べるのも、面倒だろう? だから、どうせなら、天使を生け捕って新しい宗教のモチーフにしてもいいかもって考えたんだ」


「新しい宗教?」


「そうだよ、折角、宗教のない時代なんだ、新たな神誕生に相応しい時代じゃないか。これから起こる事、ボクは予知できるよ、ボクの瞳は、先が見える」


アクアの美しい瞳で、シーツは、そう言うと、シンバを見て、微笑んだ。


「予知? まるで奇跡を起こすイエスの真似事だな」


「ボクを阻止する? ならイエスを復活させてみたら? イエスの真似をしているボクを、イエスは許さないかもしれないね。それとも、また、モチーフにしてあげようか?」


「ラテは眠っているのか?」


「うん」


「ラテは石を持っているのか?」


「うん」


「その石はなんなんだ?」


「もし神がアダムとイヴを創り、この世の人間を生んで下さったのならば、ボク達が生まれたのは神の御加護。神がボク達に持たせてくれたチカラ。アダムに与えてくれたエデン。それはきっとボク達の未来に必要なもの。大きなチカラ。それを彼女が持って、そして、あの天使になったんだよ」


「・・・・・・意味わかんねぇけど、ラテは無事なんだな?」


「うん」


「エノッチの銃口が、俺に向けば満足か?」


「ううん、それだけじゃ満足しないよ。ザタルト君が兄貴を殺してくれるなら、クルフォートさんを自由にするよ」


「そんな事できないよ!」


エノツが叫んだ。


「ザタルト君、キミが銃をボクに向けても、ボクは恐くない。キミは誰も殺せないでしょ。だから、そうやってボクに銃を向けても無駄だよ、脅しにもならない。でも、頑張って? ほら、銃口を兄貴に向けて? そしたら弾き金を引けばいいだけだから。そうしたら、キミの大好きな人が助かるんだから」


「・・・・・・シーツ君! キミは間違ってるよ!」


「間違ってる? ボクを否定できる立場なの? 最後までユダを演じたらどう? 俳優に向いてるって、折角ボクが褒めてあげたんだから」


エノツは、そう言って微笑んでいるシーツに、銃を向けたまま、動かなくなった。


いや、手が震えている。


さっきのシンバ同様、嫌な汗が溢れている。


「・・・・・・ザタルト君、妙な考えはやめた方がいいよ」


「え!?」


「ボクの手の中にはスイッチがある。これを押せば、クルフォートさんの手首、くるぶしに、ダーツが飛んで、十字架に直に磔に合う。それだけじゃない。横腹に槍が入るよう、セットしてある。自分で言うのもなんだけど、ご丁寧に、背後からも勢いよくロッドが突き刺さるようにできてるんだ。それがね、調度、胸の辺りなんだ、ロッドが背後から、突き刺さると同時に、心臓が綺麗にそのまま、骨と皮を突き破り、表面に出てくるようになっている。それを考えるのに苦労したけど、綺麗なモチーフにする為だからね。女性らしく、そしてクルフォートさんに似合う可愛いハートを残してあげようと思うから心臓は必要だろ? キリストとは少し違うモチーフを考えたんだ。クルフォートさんを刺した槍やロッドは、きっと、聖なる武器として、永遠に語り継がれるだろうね。永遠にクルフォートさんは愛されるんだ——」


シンバもエノツも、シーツの話に、何も言葉が浮かばない。


「綺麗だろうな、クルフォートさんが赤い血に染まる所」


そう呟いて、シーツは、窓の向こうの十字架に磔られたラテを見つめた後、


「あ、この窓硝子も銃で撃ち抜くなんてできないからね?」


と、笑顔で、シンバとエノツに説明する。


そんな事、説明されなくても、わかっている。


当たり前だが、そんな所も、ぬかりはないだろう。


「クルフォートさん、標本の蝶みたいだね」


それはラテの背後の大きな翼がそう思わすのか、小さな蝶が身動きとれずに、そのまま死んでいくように思えた——。


蝶が飛んでる・・・・・・。


ぼんやりとした目でラテを見ているシンバ。


シーツも、シンバ同様、ぼんやりとした目で、ラテを見ている。


その二人の間で、銃を構えたまま、一人、オロオロしているエノツ。


「なぁ」


ぼんやりとしたまま、シンバが口を開いた。


「なぁ、シーツ? ラテの後ろにある扉って、どこに繋がっているんだ?」


十字架に磔られたラテの背後にある白い扉。


白い壁に同化して、そこに扉があるなど、よく見なければわからない。


シンバはラテを見ていたのではなく、その扉を見ていたようだ。


シーツは何も答えない。


只、ぼんやりと、やはり、ラテではなく、その白い扉を見つめている。


シンバの瞳に映る記憶——。


白い扉の向こうには、シーツが寝転がっていた。


いや、それはシーツだったか?


自分自身だったかもしれない。


だが、ソイツは死んでいた・・・・・・。


まるでゴミのように、普通に転がって、寝ているのかと思うくらい、普通にそこにいたけど、頭から溢れる赤い血が、床に赤い海を作っていく。


ソイツは死んでいた。


頭をパッカリと割られ、そして、もう一人のソイツは、手に斧を持って立っていた——。


どっちがどっちだったのだろう。


YHWHプロジェクトチームの研究はとてつもなく恐ろしいものだ。


双子の内、片方の魂を抜き、そして、その魂そっくりな魂を作り上げた人口魂を肉体に戻す。


そして双子の成長を観察する。


人口魂の方は体の成長があっても精神的に異常が出る。


無感情だったり、凶暴だったり、人とは思えない感情が支配していく。


だが、その者の魂をもう一度、取り出す事はできない。


魂を入れる事ができるのは生後0ヶ月の赤ん坊だけだ。


恐らく、その生まれたばかりの赤ん坊はまだ魂が体と完璧に付着していないのだろう。


その為、魂を取り出すのも入れるのも、そう難しくはない。


だから成長してしまった体から魂を抜くには、殺すしかなかったんだ。


ある意味、それが魂を抜くひとつの方法だった。


そして、もうひとつ、その殺すべく者で、実験が行われた。


どんなに壊れた精神の持ち主でも、遺伝子の記憶はどこまで忠実にその者を導くのか。


そして虫ケラのように死んでいく者達。


これでハッキリした。


例え、知的に障害があろうとも、精神病を持っていようとも、どんな人間も、遺伝子の記憶には忠実に行動すると言う事が。


そう、例え、人口魂でも——。


「・・・・・・最後の審判を受けたのは、俺か? シーツ、お前か?」


「最後の審判? メシアが現れ、死者を蘇らせて、永遠の命を与えられる者と地獄へ堕ちる者とに分ける最後の審判の事? それがどうかしたの? 宗教において重要な教義となっていても、それは只の思想だよ、兄貴」


「思想? じゃあ、何故、俺は? お前は? 何故、生きてるんだ?」


「・・・・・・」


「死んだのは俺だったのか? お前だったのか?」


「・・・・・・」


「もう逃げるのはやめよう。シーツ、俺がお前を殺したのか?」


「・・・・・・兄貴がボクを?」


「俺がお前を殺す運命だったのか? それは逃れられないのか? でもお前は生きてる。それも運命なのか? 何の為の? 誰の為の?」


「何の話をしてるの? 兄貴?」


「俺達は間違ってなかったんだよな? 殺すしかなかったよな? なのにどうして今更生きてるんだよ! それがオヤジが選んだ道なのか?」


「・・・・・・兄貴? 何を思い出したの? それとも時間稼ぎのつもり?」


「あの時の事、思い出したんだよ」


「あの時?」


「あぁ。俺がここに始めて足を踏み入れた時の事だ。俺は本当にシンバなのかな・・・・・・」


「兄貴? 兄貴は前にここに来た事があるの?」


「お袋が俺達を合わせ鏡だと、よく向かい合わせにしたよな? あの日、あの時、俺達をぐるぐる回して、お袋、もうどっちだか、わからないわって笑ったよな。だから喧嘩はやめて、仲良くしましょうねって。シンバもシーツも同じなのよって。そこへオヤジがやってきて、急いで、シーツを連れて行ったよな。まるで蝶の片方の羽を千切るように——」


「・・・・・・」


「でもさ、あの時、確かに、オヤジはシーツを連れて行ったんだろうか・・・・・・」


「・・・・・・何を今更。当然だろ、選ばれたのはボクだったんだから」


「なら、何故、あの時、追ったんだろう」


「え?」


「何故、あの時、オヤジの後を直ぐに追いかけたんだろう?」


「・・・・・・誰が?」


「お前だよ、シーツ! オヤジは間違えて俺を連れて行ったんだ、だからお前は違うと直ぐに追って来たじゃないか! 記憶がごちゃごちゃになっているのは、その後、起こった出来事が、俺達の精神状態を混乱させてるからなんだ!」


一瞬、脳裏に、記憶が過ぎる。


『離して!』


『ダメよ、行っちゃダメ。お父さんとシーツは難しいお勉強をするのよ』


『違う! 離して! 違うよ、間違ってる!』


同じ台詞を言って、もがいていた2人。


『離して!』


『お母さんとシンバと遊びたいのはわかるが、そろそろ実験の成果が出る頃だ』


『違う! 離して! 違うよ、間違ってる!』


「いや、混乱してるのは俺だけだ・・・・・・シーツ、お前は全て知らないんだよ」


「どういう事?」


「だって、お前、死んでんだもん」


「え?」


「だって、俺がお前を殺したんだよ」


「なに言ってんの? 兄貴?」


「シーツ、お前、プロジェクトチームYHWHの一員としてオヤジに選ばれたんだよな? お前は、そこで何を研究していた?」


「・・・・・・何って、もう知ってるだろ、魂の研究だよ」


「違う。お前は、俺を殺す研究をしていたんだ」


「・・・・・・なにそれ?」


「自分が殺したと思われないように、俺が自殺するように——」


「言いがかりだよ!!!!」


「言いがかり? 事実、今だって、お前は俺を殺そうとしている」


「それは! それを言うなら、兄貴だって、ボクを殺す気だろう?」


「・・・・・・それはお前が俺を殺そうとするから。あの時もそうだった」


あの時——。


俺がオヤジに連れられて、ここへやってきた。


直ぐに追いかけて来たシーツに、オヤジは驚いて、俺とシーツの間で困惑していた。


『ボクがシーツだよ!』


そう言ったシーツに、俺は慌てて、


『僕がシーツだ!』


そう嘘をついた。


何故って、シーツじゃなきゃ、ここへは入って来れない場所だって感じていたし、オヤジが間違って俺を連れてきたからって、俺が許されるなんて思わなかった。


物凄く、俺が悪くなるような気がして、俺は俺自身である事を嘘で誤魔化したんだ。


『嘘つくなよ!』


と、俺を責めるシーツ。


何故、そんなに慌てる?


ここで、何が行われている?


シンバの俺がここにいたら、何かまずいの?


オロオロしているオヤジの横を通り抜け、逃げようと、あの白い扉を開けたら、沢山の双子がいた。


だけど、双子の内のひとりが、おかしいって、幼い俺だって直ぐにわかったんだ。


扉を開けた俺を取り押さえるように、シーツが後ろから来た。


『教えてやるよ、兄さん』


兄さんと呼ぶシーツが怖かった。


『ここでは双子の内の一人を自殺に追いやる実験をしてるんだ、DNAってわかる? それをね刺激すれば、直ぐに死んでくれる』


何を言っているのか、わからなかった。


『ボクが考えた提案だよ』


俺と同じ顔をしているのに、コイツが誰なのか、わからなくなった。


『わからない? 簡単に言うとね、兄さんを殺す為の実験室だよ』


殺さなきゃ、殺される——。


「何言ってるんだよ、兄貴! そんな事、ボクは言ってない!」


「忘れたのか?」


「忘れた訳じゃない! それこそ嘘の記憶だ!」


「・・・・・・シーツ、今度はヨハネの次は弟か? もう騙されない」


「違うって言ってるだろ! ボクがヨハネの意思を受け継いだとしても、今までの出来事は変えれないだろうが! ボクは兄貴が! 兄貴がボクを殺そうとしたから!」


「俺が?」


「あの時、兄貴、言ったよね?」


あの時——。


あの白い扉を開けた兄貴を追いかけたボクに、兄貴は、振り向いて、


『双子の片方を殺すのか?』


そう言ったんだ。


確かに、双子の片方に異常があるのは、子供でも、わかる事だ。


だけど、直ぐに殺すって言葉を出した兄貴がボクは怖かった。


『殺すって言っても、自殺してもらうんだ、ボクがそう提案したんだよ』


そう説明したら、


『いい提案だね、手を下さずに勝手に死んでくれるんだから』


まるで、死に対しての恐怖がないように笑い出す兄貴が不気味だった。


『なぁ? シーツ? 自分の提案で、自分が死ぬのって、どんな気持ち?』


ボクと同じ顔をしているのに、会った事もないような気がする程、誰なのか、わからなくなった。


『わからない? 簡単に言うと、お前が死ぬ為に、お前は選ばれたって事だよ』


殺さなきゃ、殺される——。


「何言ってんだよ! お前、この期に及んで、そんな嘘を!」


「嘘? どこが? 兄貴の方が嘘を言っているんだろう?」


「よく言うよ! お前、ラテをあんな風に十字架に縛り付けて、エノッチに催眠かけようとして俺を殺そうとしたり、そんな事をしておいて!」


「兄貴が、ボクを殺そうとするからだろう!!!!」


「俺がいつお前を殺そうとしたって言うんだよ!」


そして、2人、


「今だってそうだよ!!!!」


と、同時に叫んだ。


「・・・・・・今だって、シーツ、お前は俺を殺そうとしてるじゃないか」


シンバはそう言って、エノツを見る。


手に汗握りながら、エノツはシンバかシーツかと、迷いながら、銃口を向けて、只、突っ立っている。


「・・・・・・兄貴だって、ボクを殺す為に、ここに来たんだろう?」


「俺はラテを!」


「クルフォートさんを助ける為なら、ボクを殺すんだろう?」


「そんな事言うなら、お前がラテを連れて行かなければいいだろうが!」


「ボクは兄貴を助けたかったからクルフォートさんに生きてもらおうと思ったんだ!!!!」


「・・・・・・どういう事だよ?」


「ボクは兄貴もクルフォートさんも助けたかった。でも兄貴は違う・・・・・・」


シーツが何を言っているのか、わからない。


今のシーツは、誰なんだ?


シーツの中で、何が起こっているんだ?


「シン・・・・・・」


「え?」


突然、エノツに呼ばれ、シンバは振り向いて、エノツを見ると、エノツは大きな窓の向こうを見ている。


ラテがいる方だ。


シンバはまた振り向いて、ラテを見ると、ラテは、大きな弓を構えて立っている。


「ラテ? 十字架から自力で解けたのか? 弓と矢なんてどこから持って来たんだ?」


「グロビュールが変化したんだよ、クルフォートさんの想いに反応して」


「グロビュール?」


「星の胞子だよ」


「・・・・・・え!?」


「ボクか、兄貴か、どっちかが持って生まれた小さな暗黒の石」


「それがグロビュールって言うのか?」


コクンと頷き、シーツはシンバを見る。


「ボク達は、この星の魂かもしれないよね」


「え?」


「ボク達の体には21グラムという魂が入っている。つまり肉体は魂の入れ物に過ぎない。そしてボク達は、この星、アーリスの入れ物に入った魂なんじゃないかな」


「・・・・・・魂? 俺達が? アーリスの?」


「天文学で言う所のグロビュールは、暗黒星雲の一種。暗黒星雲は自ら光を発しない。だから背後の星の光で存在を映す。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた最後の晩餐のように、背後の明るい光で、明らかにされる存在」


「・・・・・・それがグロビュール?」


「うん、それがグロビュール。自ら光を発しないけど、星が誕生する天体なんだよ」


「・・・・・・だから星の胞子? 結局、イエスが誕生するって言う予言なのか!?」


黙り込んだシーツに、シンバは詰め寄った。


「イエスの魂は誰の肉体にあるんだ? 俺なのか? ヨハネはイエスの誕生を願っているのか? 願ってないのか? どっちなんだ? 悪いのはイエスなのか、ヨハネなのか! どっちなんだ! 誰がこの全ての黒幕なんだ!」


「知らなくていいんだ」


「え!?」


「兄貴、ボクがヨハネで、兄貴がイエスだとしても、ミカエルとルシファーのように正反対の魂だとしても、この全ての黒幕が・・・・・・だとしても・・・・・・」


「なに? 聞こえない」


「もういいんだ、終わりだよ」


「終わり?」


シーツがゆっくりと大きな窓を指差した。


シンバは振り向いて、ラテを見た瞬間、大きな矢が目の前を通過した時だった。


「シン!!!!! シーツ君!!!!」


エノツの声が響いた。


倒れた二人は、血の海を辺りに作っていく。


エノツは、血の中、膝をガクンと落とし、只、只、見ている。


大きな矢だった筈なのに、そんな矢はどこにも見当たらない。


何が起こったのか、説明もできない。


ラテは、変わらず十字架に縛り付けられている。


なら、大きな弓を持って構えていたのは誰だったのだろう?


窓ガラスも割れていないのに、どうやって矢が飛んできたのだろう?


2人はどこから血を流しているのだろう?


まるで催眠術にでもかかったようだ。


「・・・・・・なんだ? この香り? ぶどう酒?」


エノツは血の香りの中に混じる不思議な香りを嗅ぎ取り、顔をあげ、最後の晩餐を見た。


「キリストの血を巡って争うと必ず滅びる」


その声に振り向くと、ルシェラゴ・フレダー。


ぶどう酒の香りはフレダーからする。


いや、香水だろうか。


「あ、あの」


「ザタルト君だったかな、大丈夫です、全て計画通り」


「計画!? まさかアナタが裏で全てを操っていたんですか!?」


「私にそんなチカラはありませんよ」


「だって、じゃあ、計画通りって!?」


エノツは立ち上がり、フレダーを見る。


「実はこれは全て暗示ではなく、感情転移が齎した結果なんです」


「感情転移?」


「日常でよくある事ですよ、例えば、全く知らない人だが、あるモニターに出ていた、ある人に、突然、怒りや恐怖を感じたり、今まで知っている人にも、その人に対する今までの情報の中から、その人を知ったつもりになり、きっと、この人ならば、こうするだろう、ああするだろうと思う感情。キミも後少しで、どちらかになっていたんじゃないんですか?」


「どちらかって、シンかシーツ君に僕がなっていたって言うんですか?」


「ええ、キミはどちらに銃を向けて撃ってたんでしょうか?」


「・・・・・・あ! シンやシーツ君は助かるんですか!?」


「まだ血が出ていますね、どこからこんな大量な血が出ているのでしょう? 傷口がどこにも見当たらない。まぁ、やれる事はやってみますよ」


「・・・・・・あの! 計画って、感情転移の研究だったんですか?」


「さぁ?」


にっこり笑って、そう言ったフレダーに、エノツはゾッとする。


「でも一体、誰が!? 誰がこんな事を!」


言いながら、エノツは、イオン博士の顔が浮かんでならなかった。


冷や汗をかきながら、ガチガチと歯を鳴らし、エノツは、体に力を入れて、只、立っている。急に動けなくなる。まるで金縛りにでも合ったようだ。


「事の始まりは不思議なポスターを描いた女性がいたと言う事ですよね」


クロリクの事だろう。


彼女はイオン博士の家に泊まっていた。


「イ、 イオン博士は、今はどこに?」


「入院中ですよ」


「あ、入院? どうして?」


「手首を切ったんですよ」


「自殺!?」


「さぁ?」


手首を切って自殺など、イオン博士が、有り得ない。


何故なら、手首を切ったからと言って死ぬ訳はないからだ。


手首を切り落としたと言うなら別だが。


そんな事、イオン博士なら、知っているだろうと、エノツは、


「事故ですか?」


と、聞き直した。


「さぁ? とりあえず、入院したいという希望がありましたので、入院させましたが」


「・・・・・・シンやシーツ君がこうなってる事を伝えた方がいいんじゃないですか!?」


「もう知ってますよ」


「え?」


「誰だと思ってるんですか? ウィルティス・イオンですよ、知らない訳ないじゃないですか。今はウィルアーナ全体が異常事態だと、アナタでさえ悟り、こうして異常な出来事に巻き込まれるよう、進んで自分を犠牲にして、異常事態を調査しようとしたんでしょう? イオン博士は、きっと、そんな勇敢なアナタの事さえも知っておられると思いますよ。さぁ、彼等を運ぶのを手伝って下さい」


フレダーはそう言うと、シーツを抱き上げた。


エノツも慌てて手を貸すように、シンバを抱こうとする。


いや、もう、どっちがシンバだったか、シーツだったか、それさえも、よくわからない。


「死にませんよね!?」


「さぁ?」


「あの! ラテが、あっちで縛り付けられていて」


「後で解放してあげてください」


「はい。あの、クロリクと言う女性は?」


「さぁ?」


もぅ、何がなんだか、エノツはわからなくなる。


「レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた最後の晩餐は何を意味するか、あれはイエスが裏切り者を指摘する、登場人物達の複雑な心理を描写しているんですよ。全ての12使徒達の心理を知った時、謎が解ける。誰が誰を崇め、誰が誰を信じ、誰が誰を裏切るのか。感情転移はモナリザの時に、誰もが持つ。あの美女は何者なのか、どこを見ているのか、不思議な背景の場所はどこか、など。何故、万能の天才が、最大の画家として知られているのか、それは絵には人の心を動かす力があるからですよ。事実、生物学のポスターを見て、自殺する者が現れた。それこそが感情転移。レオナルド・ダ・ヴィンチが残した絵画、あれは絵ではなく魂解体書ですよ——」


シーツを運びながら、ベラベラと喋るフレダーの台詞の意味など、もうエノツは、只の音にしか聞こえなかった——。


ぶどう酒の香りが麻痺させる・・・・・・。


「・・・・・・このまま死んじゃえば・・・・・・楽になるのに——」


エノツがそう呟く相手は、シンバに? それともシーツに?


なのに、その言葉とは逆に、2人を助ける為に運ぶエノツ。


行動と言動が全く違う。


まるで心と体がバラバラみたいだ——。

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