5.闇
「シーツ君も鏡を見た時、自分がいらないと思った事、一度もありませんか?」
「・・・・・・ないよ、ある訳ないよ、そんな事」
「どうして神は人を自分に似せて創ったのでしょうね。そうする事で、自分がリセットできると思ったんでしょうか? どうして光と闇、両方、創ったんでしょうね。どちらも同じチカラなのに。シーツ君、こちらへどうぞ、コーヒーでも淹れましょう」
そう言って、フレダーはログマト・クリサの部屋を閉めた。
彼女はこちらを見る事もなく、只、ずっと鏡に向かって、鋭い目とやつれた顔で、恐ろしい言葉を口にし続けていた——。
「さっき、プロジェクトチームYHWHの話で、神が実在するか、実験してみたかったんじゃないかって言ったでしょ? 実験って?」
案内された部屋に通されると、そこにはソファーとテーブルがあり、ちょっとした応接室のようになっていて、シーツはそこに座り、フレダーに疑問を投げかけた。
フレダーはインスタントコーヒーを持って、シーツと向かい合わせになるように座り、シーツの目の前にコーヒーを置くと、話し出した。
「嘗て、アーリスは神が溢れていたと言われます。その時代は本当に神がいるのか、どうかなど、全く疑問に思わず、神がいたんです。それは勝手な解釈で築き上げられた宗教であり、または暴走した欲を都合のいいように神のせいにした宗教であった。神を信じていない者に対して、信者は『不幸になる』だの『良くない事が起こる』だの、誰でもわかる簡単な言葉で責め、そして、信者に対しては『幸せになる』だの『この世が終わっても助かる』だの、褒め称えた。或いは、宗教の歴史の中で、最もバイオレンス的表現がある事で、犯罪の模範にもなった。最も人間の歴史の中で愚かな時代だ——」
「・・・・・・」
「宗教にもね、色々あります、だが、最後まで、しぶとく残ったのがキリスト教」
「イエス・キリスト」
「はい、何故、最後まで残ったか、シーツ君はわかりますか?」
「・・・・・・信者や信者じゃない人に対して、何もなく、犯罪の模範にもならなかった?」
「まさか。一番、ややこしい宗教でしたよ。キリスト教の解釈が様々あり、同じキリスト教徒でも、全く違う解釈で教えを導いていたんですから。それに一番、犯罪の模範になった宗教です。これ程、厄介な宗教はないって程に、キリスト教は複雑だった。だが、その分、より多くの人の心に根強く残っていました。だが、それが最後まで残った理由ではありません。キリスト教は光も闇も、ひとつだったからでしょう——」
「光も闇も?」
「そうですよ、キリスト教の聖書にはサタンと呼ばれる闇の者が出てきます。ですが、サタンとはルシファーとも名付けられておりますが、元々、サタンとは『光を帯びた者』または『明けの明星』とも言われていたんです。オリゲネスと言う人を知っていますか?」
「いいえ」
「古代キリスト教最大の神学者です。オリゲネスの思想の特徴として、聖書を文字通りではなく、なんらかの比喩として解釈する比喩的聖書解釈の手法があげられました。オリゲネスは膨大な著書を残しましたが、死後、異端の宣告を受け、多くの著書は闇に葬られたんです。異端の疑惑を受けた理由は、全ての者が救われると言う思想があったからです。彼は、聖書のエゼキエル書、イザヤ書、ヨブ記、ルカによる福音書に隠された闇の存在を見出したんです。その後のキリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、神と対立し、天を追放され、神の敵対者となったと言うんです。だから闇は光と反発するよう、思われますが、それはあくまでも誰かの解釈——」
「でも解釈とは言っても、全くの的外れって訳でもないんでしょう?」
「ええ、そうですね。面白い説もありますよ、聖書のダニエル書にミカエルと言う名の天使が出てきます。キリスト教では、ラファエル、ガブリエル、ウリエルと共に四大天使と言われる者なんですが。まぁ、ミカエルは最も偉大な天使として、存在してます。そして、堕天使となったルシファーとは双子の兄弟であったと言う説があるんです。ミカエルの方が弟にあたります、ルシファーが兄。どう思いますか? この光と闇のチカラを——」
「・・・・・・」
「天使とは光をイメージしたモノ。堕天使、つまりサタンは闇をイメージしたモノ。最も偉大なる光と最高位の闇は、同じ。キリスト教の教えは、光も闇も、全て、神が決めた運命にあると言う事。例えば、他の宗教であれば、善い事を行えば魂の徳が上がるなどと言って、人に正しい事をさせようとします。ですが、キリスト教は、善い事も悪しき事も、全て神が決めた運命であり、例え、どんな善い事をして来ても、神が裁く時がくれば、裁かれるのです」
「理不尽な話だね」
「そうでしょうか? 当たり前の事だと思いませんか? 例え、どんなに善い行いだと言われる事も、それは、人間の世界の中だけで善いとされるだけであって、魂の徳が上がる事にまでなるとは思えない。善い行いをすれば、それだけ、自分に住みやすい世界になるだけです。だが、悪しき事、つまり、人間の世界で、どれだけ感謝されようとも、それが善いとされるのは人間達の間だけでの事。裏返せば悪しき行いをしてる事も在り得る。そして、我々は、どんなに善き事をしても、どんなに悪しき事を行っても、やがて、肉体は朽ち果てるんです。裁く時が来れば、そうして裁かれる——」
「確かに、そう解釈すれば、当たり前の事ですけど・・・・・・だけど、そんな当たり前の事、いちいち宗教に教えてもらわなくていいじゃないですか? 生きてるだけでいいんだって言ってるのと同じ事ですよ? 神なんて存在、別にいらないじゃないですか」
「だから人間は愚かなんですよ。それにキリスト教が最後まで残ったのは、そういう教えがあったからじゃないんです。光も闇もひとつであると言う謎が、その宗教を最後まで残したんです」
「謎? ルシェラゴ先生はどうして、そんなに詳しく宗教をご存知なんですか?」
「まだ思い出しませんか、シーツ君」
「何をですか?」
「キミはプロジェクトチームYHWHのメンバーだった」
「え?」
シーツは、眉間に皺を寄せ、フレダーを見る。
フレダーは、自分の目の前にあるコーヒーを一口飲むと、シーツを見て、ニッコリ微笑んだ。その微笑みに、シーツは更に眉間に皺を寄せる。
「シーツ君、キミは感じませんでしたか? それとも直感だと思いましたか? 自分自身がキリスト教を知っている事に——」
「ボクが?」
全くわからないと言う表情のシーツ。
寧ろ、困惑しているようだ。
「シーツ君はまだ6歳という年齢で我々プロジェクトチームの一員だったんです」
「我々? 我々って、ルシェラゴ先生も?」
「ええ、しかし、そのプロジェクトチームは2年もしない内に解散しましたが。シーツ君は6歳から8歳辺り迄の記憶をまだ取り戻しませんか?」
「キーワードもなく、そんな簡単に記憶の引き出しが取り出せる訳ないでしょう?」
「それはそうですね。思い出す迄、話を続けましょうか。まず、イエス・キリストが説いた教え。ペルソナについて——」
「三位一体」
「そうです、御父、御子、聖霊の教義と言われ、三位一体の事をペルソナと言います。イエスは聖母マリアから生まれたと言われます、聖母マリアは間違いなく人間です。父は大工のヨセフです。彼も間違いなく、人間でしょうね。ですが、イエスが言った台詞が聖書に記されています、『御父は御心のままに、心理の言葉によって、私達を生んで下さいました』と。その記録の意味する御父とは誰を指しているのでしょう?」
「神」
「そう、神を指している。だが、大工のヨセフは神ではない」
「・・・・・・ヨセフじゃない。もう一人のイエスは神が生んだんだ」
震える声でそう呟くシーツに、フレダーはニヤリと不敵に笑う。
「三位一体は論争されて、父と子と聖霊がひとつのモノであると正統教義として採択された論に過ぎない。にもかかわらず、三位一体の神学は、以後、絶対的な教義としてキリスト教世界に広まっていったんです。だが、今は神のいない時代です、宗教もない世界で、そんな解釈は必要ない。我々が説いた三位一体とは、人と、その人ソックリなもう一人の人と、それを創り上げる人の事——」
「何の為に!?」
そう叫んだシーツは、もう何の為か、知っているかのように、取り乱している。
「魂の研究の為ですよ? 人間の中に存在する21グラムと言う重さ。魂の重さと言われます。全く同じ人間なら、魂も同じだと、そう言ったのはシーツ君、アナタでしたよね」
「・・・・・・ボクがそんな事!? 言う訳ない!」
「キミが説いたんだ。光あれと神が言われ、イエスが生まれた時に、神は闇も生んだ事を、キミは、もう一人のイエスが存在する事の仮説を話してくれたんですよ」
シーツは頭をブンブン左右に振り、違うとばかりに顔を苦痛で歪め、頭を両手で抱え出す。
「御父、御子、聖霊の教義、御父を我々とし、御子をそこらにいる誰でもいい子供とし、そして、精霊を、その子供に似て創りあげた魂と解釈すればいいだけですよ。我々は肉体だけでなく、その肉体の中の21グラムも創り上げたんですからね」
「嘘だ!!!!」
シーツはそう叫び、フレダーをキッと睨んだ。
「嘘だ、21グラムは創り上げれなかった! 無感情だったり、凶暴だったり、精神崩壊してたような奴ばっかりだったじゃないか! あんなの、魂を創り上げたなんて言えるもんか!」
「だから、殺したんでしょう?」
「殺したんじゃない!」
「殺したんですよ、そこだけ綺麗事はやめましょうよ、シーツ君」
「違う! 殺したんじゃない! 自害したんだ!」
「自害するように、キミが遺伝子を刺激したんだ。それもひとつの実験としてね」
「違う! 違う! 違う!」
「シーツ君、そんなに興奮しなくても、過去の事です、しかも失敗に終わった何の結果も出てない事で、記録もない事。だが、真の神にして、真の人というキリスト両性論が確立されていたと言う事は、イエス・キリストは我々にできなかった事を遣り遂げたかもしれない。それを放ったのは、未来へかもしれない——」
「・・・・・・未来?」
「そう、今、かもしれませんよ」
「どう言う意味?」
「神であり、人であると言われるイエスは、魂をも創り上げる神側であり、だが、自身、赤い血を流す人であったと言う事です。だから、神の名を口にした。それで処刑された。何故、神が神の名を口にし、処刑されたのか。そのイエスは神じゃなかったからですよね。もう一人の神のイエスがいたんです、そして、自分は2人はいらないと——」
「やめて下さい! それこそ憶測だ! 勝手な解釈だ!」
「そうですよ、勝手な解釈ですよ、勝手な解釈で、我々はここ迄、来たんじゃないですか。でもこれも、もしかしたら、運命だったのかもしれない。そう、我々を動かす、更に未来の人間が、我々を見ているのかもしれない。運命として、信じて止まない事、己の責任である為の行動も、全て、わかってらっしゃる——」
「わからないよ、ルシェラゴ先生が言ってる事は全くわからない!」
いい加減、わからないと言い張るシーツに、腹が立ったのか、フレダーも叫び出した。
「相当な過去に! 気の遠くなるような過去に! 過去に! 聖書などと言われる恐ろしい記録があったんです! それが、その当時の人間達だけで動かせると思いますか!? 今現在でも尚、その記録で、我々は動かされて、プロジェクトチームまで結成したんです。誰かが、人の運命を動かせる誰かが、過去も今も、いるって思いませんか!? 信じられないくらいの時間を遡り、イエス・キリストが放ったモノは、今も尚、どの人々の遺伝子にも刻み込まれているとしたら? 集団自殺と言われる、この現象も、説明がつく」
「・・・・・・そんな多くの人間が、遺伝子にどうやって刺激を受けるんだ! もう神なんていない時代だ! イエスの影響を感じたくらいじゃ、誰も死なない!」
「たった一人でいいんですよ、イエスに忠実な人間、たった一人で——」
「・・・・・・一人?」
「シーツ君が説いた遺伝子の傷跡、スティグマ。それを刺激させ、いらないモノを排除するよう自害させる実験は成功に近かった。刺激を受けた者は間違いなく死んでいった。今回、それを利用した者がいるとしたら——?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、だって、ログマトさんとか、刺激を受ける程、何かされた訳じゃないでしょ? 遺伝子を刺激するにしても、それなりの設備も必要だし、そんな事を、たった一人で全てを遣り遂げるなんて無理ですよ」
「そうでしょうか? イエス・キリストは遣り遂げたんじゃないでしょうか?」
「でもイエス・キリストなんて、今は存在しないよ。過去の人物だ」
「シーツ君は確か、生物学生でしたね?」
「え? あ、はい」
「では、遺伝子とは何か、アナタはよく知っているでしょう?」
「遺伝子は生物の遺伝的な形質を規定する因子であり、遺伝情報の単位です。遺伝子はDNAが複製される事によって次世代へと受け継がれます」
「いい回答ですね。その通り、我々がこうして人間の姿形をしているのも、人間の親から生まれたからです。遺伝子が人間の情報を持ち、人間を創っている。簡単に言えば、そう言う事ですよね」
「・・・・・・まさか、ボク達の遺伝子の中にイエス・キリストが存在するなんて——」
存在するなんて、馬鹿げた事を言うつもりじゃないでしょうね、そう言おうとしたが、シーツは黙り込んだ。
ふと、医学生のヴァイス・レーヴェがイエス・キリストについて研究していると言っていたのを思い出したからだ。
「イエスが何故、あんなインパクトのある死に方をしたのか、もう一人のイエスの狙いはソレだったんじゃないでしょうか? 人々の記憶の中にイエス・キリストを植え付ける。それが暗示にかかったかのように、または催眠状態になるように、人間の中で記憶される。遺伝子は、その特殊な記憶で変換され、今も尚、受け継がれている。そして誰もが皆、スティグマを持っている——」
シーツは頭の中がグチャグチャで、何を考えていいのかさえ、わからなくなって来る。
——どうなっているんだ。
——ルシェラゴ・フレダー、この人、本当は何者なんだ?
——この人もボクをそういう目で見ている。
——ウィルティス・シーツ、お前は本当は誰なんだと、問いたいのだろう。
——ボクだって、ボク自身、よくわからない。
——もし人間の中にイエス・キリストが存在するとして。
——それが覚醒したら、どうなる?
——イエス・キリストの狙いはなんだ?
——もしボクがイエス・キリストだったらどうする?
——善い事も悪しき事も裁かれ、光も闇も同じだと考える。
——だが、伝えたい事も勝手な解釈でとられ、結局、自分が思うようにならなかったら?
——思い描いた世界にならなかったら?
——ボクなら、全て消してしまう。
——リセットしてやり直す!
——だから自殺するよう、自分の中のイエスに、仕向けられている。
——わからないのは、そのリセットのボタンを押した奴だ。
——いや、本当はわかっている。
——彼女だ、リスティア・フィン・クロリク。
——彼女しかいない。
——彼女こそ、何者なんだ?
——そして、リセットされた後の世界はどうなる?
——自分が思うようにならなかったからリセットした。今度は思うままにする為に。
——イエス・キリストの復活だ。
頭の中で、考える事が巡りまわる。
それを知ってか、フレダーは黙ったまま、コーヒーを飲み、冷ややかな表情で、シーツを見ている。
突然、シーツは立ち上がり、
「帰ります」
そう言った。
「そうですか」
これまたフレダーも当たり前のように、そう答える。
「どうも、ご馳走様でした」
「いえ、何のお構いもしませんで」
まるで何もなかったかのような台詞。
「あ、父は?」
「眠ってますよ」
「どこで?」
「通常の入院施設で」
「そうですか。よろしくお願いします」
シーツは深く頭を下げると、
「エレベーターで普通に上へあがればいいんですか?」
そう尋ねた。
「ええ、一緒に出ましょう、私も病院へ戻りますから」
と、フレダーが先に歩き出す。
シーツはフレダーの後について行き、一緒にエレベーターに乗り込む。
「光と闇は同じだと言っても、それはチカラ関係が同じって意味で、根本的には違いますよね? ルシェラゴ先生は光と闇なら、どっちがいいですか?」
「そうですねぇ、シーツ君なら、どちらを?」
「ボクは闇の中がいいな」
「どうしてですか?」
「闇の中でなら、光を見つけやすいじゃない? 光の中にいたら光は見えない」
「成る程」
エレベーターの扉が開いて、目の前はいつものホスピタル1階の見慣れた場所が広がる。
「興味深いお話を有り難う御座いました、では失礼します」
再び、深く頭を下げるシーツに、フレダーは、軽く会釈をし、シーツが背を向けて歩いて行く後姿を、ジッと見つめていた——。
シーツは大学へは戻らず、家へ帰る。
母親が入院している病院に電話し、様子を聞き、この際だから、いろんな検査をして、健康かどうか調べてほしいと願い、入院を長引かせた。
ウィルアーナの過去の出来事などを調べようと、父親の書斎へ入り、手当たり次第、調べ始める。
鍵のかかったデスクの引き出し。
「・・・・・・鍵はどこだろう?」
その時、チャイムが鳴り、シーツはビクッとする。
「クロリクさんかな」
そう呟き、玄関へ向かうシーツ。
クロリクには聞きたい事があると、シーツは急いで玄関の扉を開けると、
「・・・・・・クルフォートさん」
ラテが立っていた。
「兄貴なら、こっちにはいないよ、アパートにいないの?」
「ううん、シンちゃんじゃなくて、シーツ君に会いに来たの」
「ボク?」
「うん、ドーナツ買って来たんだ、一緒に食べない?」
ラテの行動の意味が、シーツには、わからない。
家の中に入れてもいいのか、どうかも、わからない。
気付いたら、外はすっかり暗い。
いつの間に、日が落ちたんだろう。
「父さんも、母さんもいないよ、二人共、当分、ここには帰らない」
そう言えば、帰るかと思ったのに、
「なんだぁ、みんなの分のドーナツ買っちゃった。いいよね、二人で食べよ?」
と、笑顔を見せるラテ。
「・・・・・・どうぞ」
シーツは、しょうがなしに、家の中にラテを招き入れた。
「電気点かないの?」
そう聞いたラテに、シーツは早く帰ってほしいが為に、
「あぁ、今はセンサーを切ってて、自動では点かないんだ。暗い方が落ち着くから、ボクだけだと、部屋は暗いままだから」
そう答えた。
恐くて、直ぐに帰るだろうと思ったにも関わらず、
「ふぅん、そういう人っているよね」
と、笑顔を見せるラテ。
「・・・・・・お茶淹れるよ」
シーツは、ラテがわからない。
素直に、
「ボクに何か用なの?」
そう聞いたが、
「別に、用はないよ」
と、笑顔で答えるラテが益々わからない。
ドーナツを食べれば直ぐに帰るのだろうか。
シーツは父親のデスクの鍵のかかった引出しが気になってしょうがない。
「おじさん、仕事? おばさんは?」
「母さんは倒れて入院してる」
「え? そうなの? いつから? シンちゃん、何も言わないんだもん、知らなかった」
「それよりクルフォートさん、兄貴は知ってるの?」
「何を?」
「クルフォートさんが、ここに来る事」
「言ってないよ? だって、仕事の帰りに、ちょっと寄ってみようかなぁって思って寄っただけだもん」
「・・・・・・わからないなぁ、どうして、寄ってみようかって思って寄れる訳?」
「友達の家に寄るって、そういうもんじゃない?」
「・・・・・・クルフォートさんは相当ボクと友達になりたいみたいだね」
友達ではないと遠まわしに言うシーツに、ラテは、
「わぁ、甘い香り! ストロベリーティー?」
と、キッチンの方へ駆けて来る。
「何ティーか知らない。母さんがよく飲んでる奴」
「おばさん、セレブって感じだもんね、うちの母親なんて、只の安いティーパックだから」
「紅茶なんて飲めれば、どうでもいいと思うけど」
言いながら、シーツは紅茶をテーブルの上に持っていく。
ラテは、紅茶の置かれたテーブルの前の椅子に座り、ドーナツの箱を開ける。
「シーツ君、何が好き? シナモン平気? チョコもあるよ」
「・・・・・・なんでも平気」
面倒そうに答えるシーツに、ラテは笑顔で、オーソドックスなチョコのドーナツを渡した。
「・・・・・・クルフォートさん、よく暗くて平気だね?」
「シーツ君がいるから平気」
「ボクが? 逆じゃない? 普通は男がいるから明るくしないと危険でしょ?」
「そういうもん?」
「そりゃそうでしょ、無防備過ぎだよ」
「でもシーツ君がいるから、暗くても、明るいよ」
「・・・・・・意味不明」
「シーツ君とお話してるだけで、楽しいって意味」
そう言って笑うラテに、シーツは、なんだか、とても、悔しくなって、悲しくなってきた。
「ボクが悪かったよ・・・・・・」
「え? 何が?」
「今朝の事。キミに意地悪言い過ぎた。反省してる。だから、もうボクに構わないでほしい」
「なんで? 反省なんてする必要ないよ? 意地悪なんて言われてないし」
「そうやって、遠回しで責めるの、やめてよ」
「何も責めてないよ?」
ラテはそう言って、
「只、シーツ君の様子がおかしかったなぁって思って、心配はしたけど・・・・・・」
と、本当に心配そうな表情でシーツを見ているから、シーツは、だんだん自分が抑えきれなくなってしまう。
「どうして・・・・・・?」
「ん? 何が? シーツ君?」
「・・・・・・どうして、キミは兄貴がいいの?」
「え?」
「言ったろ、キミといるとイライラするんだよ! 兄貴とザタルト君と、楽しくやってればいい! ボクのトコに来てほしくない! ボクはキミが笑うだけでイライラする!」
そう叫んで、立ち上がるシーツに、ラテは驚く。
「ど、どうしたの? 怒ってるの?」
「そうやって鈍いのも、平気でボクに笑いかけるのも、こうやって簡単にボクの中に飛び込んで来る事も、キミの全てが大嫌いだ。キミこそ、闇そのものだ。光に見せかけた、深い底のない闇。なら、闇に溶け込んで、消えてしまってくれよ。誰にも見つからないように、消えてくれたら、ボクが照らして見つけてあげるよ。だから全て闇になればいい」
「・・・・・・な、何? どうしたの? シーツ君?」
「いっそ、このまま、キミを殺したら、ボクのイライラは治まるかな」
——この時のボクは、まだ闇の意味を理解していなかったんだ。
——光がなくなり、闇だけがある世界とは、この世界が何も見えなくなるって事なのにね。
——本当の恐怖は、闇なんだって、ボクは知らなかったんだ。
——余りにも悔しくて、憎むべき事ばかりだったから。
——兄貴、ボクは本当に心から兄貴のようになりたいと思っていたんだ・・・・・・。
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