〈誰かの代わりに僕が死んでも〉最終話
ゆっくりと扉を開けて入ってきた誠を見て、綾子は驚いた。
「野宮くん。大丈夫なの?」
まさか来るとは思わなかったのだろう。白衣を羽織ったばかりなのか、袖を折っている最中だった。
「大丈夫です。ちょっと不便ですけど、教室で勉強じゃないし……」
無理に来たことで綾子の迷惑になるのではないかと気に掛かったが、そんなことはないとばかりにパッと明るく微笑んでくれた。
「そう。来てくれて嬉しいわ。辛くなったら早退してもいいから、気にしないで言ってね」
「はい」
軽い鞄から英語の教科書とノートと筆記用具を出す。それから予鈴が鳴るまで奥のベッドのカーテンの中で身を潜め、チャイムの音の余韻がすっかり消えてから出てきた。
「今日は普通にダージリンティーよ。どうぞ」
温かい紅茶を誠の席に置いてくれる。砂糖の量はいつも通りだ。
「……あったかい……」
「最近寒くなってきたものね」
昨日綾子に出した中途半端にぬるい麦茶が情けなくなった。沸かしてやかんに入れたまま、冷蔵庫に入れるでもなく、温め直すでもなかったのだ。自分の気の利かなさに呆れてしまう。
「頭の傷はどう?」
「少し痛い時もありますけど、薬を飲んだら大丈夫です」
「そう。大事に至らなくて何よりだわ。痛くなったらここにも鎮痛剤はあるから言ってね」
「はい」
いつものように静かになった廊下の代わりに、どこかの教室から授業の声が聞こえてくる。グラウンドでは体育の授業をしているようだ。しきりに笛の音がする。それでも誠は英語の教科書を眺めていた。もちろん得意教科ではない。ただ、読んでいるフリをしているだけだ。辞書も持ってきていないのに。
綾子はいつも何かしら書類の作業をしている。ノートパソコンを開いていることもしょっちゅうで、用もないのに家電量販店に言ったりもしない誠は、本物のパソコンをまじまじと見た。携帯電話でさえ所有していないのだから、その便利さには想像がつかない。ただ、白くて細い綾子の指がキーボードの上を滑るように叩く軽い音が好きだった。
「ねぇ野宮くん」
誠はいつの間にか英語の教科書から顔を上げ、パソコン作業をしている綾子を凝視していたことに気付く。それを指摘されたと思った。
「あ、ごめんなさい……」
「うん? どうして謝るの?」
「勉強に集中してなかったから……」
そう言うと、綾子は「なぁんだ」と言って笑った。綾子はいつも笑っている。
「別に勉強は強制じゃないからいいのよ。何年か前にも保健室登校の子を見たけれど、その子とはおしゃべりしてばかりだったわ」
以前にも誠のような生徒を受け入れていたらしい綾子は、だからこんなに余裕があるのだろうか。おしゃべり、と聞いて、気の利いた話の一つもできない自分を哀れに思った。きっと綾子もつまらないと思っているのではないだろうか。そう考えるといたたまれない。
「あのね、前々から知る人ぞ知る都市伝説みたいな話があるの。よかったら少し、おしゃべりしない?」
綾子の方から誘ってくれたのだから、誠に拒否するという選択肢はなかった。頷いて聞く姿勢になる。
「どこにいるのか、どうやったら会えるのかもわからないんだけれどね。〈おもいで屋〉っていうのがあるらしいの。聞いたことはある?」
「おもいで……知らないです」
「そっか。やっぱりマイナーなのね。その〈おもいで屋〉はね、今までとは別の人生を与えてくれるんですって。でもそれはお金では買えなくて、その人のそれまでの経験や社会貢献度、ステータスや築いてきたものと交換に、新しい人生を与えてくれるらしいの」
「そんなことって……あるんですか?」
「そうねぇ、都市伝説みたいなものだから、『私は〈おもいで屋〉に会って人生変わりました!』なんて人は見つからないけれど、ちょっと面白いと思わない?」
「そうですね。本当にいたらいいのに……」
「野宮くんだったら、どんな人生に交換してもらいたい?」
「僕は──」
言いかけて少し考える。お金持ちになりたいとか、いじめられないようになりたいとか、そんな考えは浮かばなかった。ただ一つの「もしも」があった。
「ボランティアがしたいです」
「ボランティア?」
綾子が同じ言葉を返す。言葉足らずだったことに気付いて、誠はゆっくりと小さな声で説明した。
「世の中には、生まれた時から長く生きられない病気の人もいますよね。長生きできたら、実はすごいことができたかも知れないのに、運悪く長く生きられない生まれ方をしてしまった人。僕はそんな人の代わりになりたい」
「野宮くん……」
「今僕が死んだら先生にもお母さんにも迷惑が掛かります。でも、新しい人生に交換してもらえるなら、そんな可能性のある人と代わってあげたいです。僕は生きてても何の役にも立たないし、頭も悪いし、身体も弱いから何も立派なことはできそうにないし」
先細る声で、しかししっかりと言う誠は、綾子から見ると今ふと思いついたことではないのだろうとすぐにわかった。
「いつからそんなふうに考えるようになったの?」
穏やかに綾子が問う。誠は少し首を傾げ、視線は遠くを見た。
「自分でもいつからとかははっきりしません。でも、結構前から思っていた気がします。もしも僕が事故や病気で死んだら、臓器提供したいって思ってましたから」
「すごいね。中学生でそこまで考えてるなんて。野宮くんは人の役に立つことがしたいのね」
「最期くらいは……」
もちろん、それは自分が死ぬことが前提だ。だから、母親にも言ったことはない。けれど、以前駅前で配っていたチラシを見て、初めてそういうことが可能なのだと知った。一緒に付いていた黄色いカードに記入して、生徒手帳の中に入れている。財布は持っていないから。
「でも無理ですよね。僕は何も持っていないし、きっと交換できるような価値のある経験やステータスもないし、子供だし……」
「そうね、まだ十四歳だものね。けれど経験が豊かでないということは、今後の伸びしろがあるということでもあるわ。〈おもいで屋〉がそれを考慮するかどうかはわからないけれど……野宮くんが人助けをしたいという気持ちは素晴らしいと思う」
綾子は誠を否定しなかった。もちろん、そうなればいいわね、などとは言うはずもなかったが、誠の志は立派だと褒めてくれた。自分は生きている価値さえないから、もっと大きな可能性を秘めた人に生き延びて欲しいだけだ。普通に自殺しても誰の役にも立たないばかりか、母親に迷惑を掛けてしまう。ただそれだけなのに、綾子は一笑に付したりしなかった。だから誠は思わず話を続けた。
「昨日の事故の時も、僕はこれで死ねるのかなって安心した部分もありました。いろいろぶつけて痛かったし、ひきずられて苦しかったけれど、事故死なら誰にも迷惑は掛からないと思うし、言い訳も立つし。それに、犯人っていう明確な相手に憎しみをぶつけられると思ったんです。だから、あのまま僕は死んでも良かった」
綾子は何も言わずに誠を見つめた。
この子はいじめられているのが辛いから死にたいわけじゃない、と気付く。いじめられ始めたのは中二になってからだと言っていたし、こんな見た目と気弱さから、小学校時代も多少の仲間外れ程度には遭っていたかも知れないが、死にたいと考えるほどではなかっただろう。
加えて、貧乏であることも身に染み付いているようなので、さほど極端に気にはしていなさそうだった。それよりも、心身ともに病弱な母親を気遣う気持ちの方が強いのだ。
そんな誠はきっと、本来は強い人間なのだろう。少しでも違う環境に生きられたら、もっと生き生きと過ごせたのかも知れない。将来の可能性や伸びしろはあるはずだと思った。しかし、現状では誠は死にしがみついている。それも、誰にも迷惑を掛けない方法で。
その手段が思いつかなかったから今はまだ生きているが、もう少し年齢を重ねて知恵も付けば、自分に保険を掛けるとか、交通事故に見せかけるとかのやり方を見つけるだろう。その時点でまだ死にとらわれていたとしたら。
自分は有用ではない、人の役に立たない、むしろ迷惑を掛けている、嫌われている──そんな思いが誠に死に急がせるのだと思った。
「野宮くんは本当に辛いのね」
「いえ、僕なんてたかが知れてます。きっと世の中には僕より辛い人はたくさんいます」
やはりこの思考はいじめが原因ではないのだろう。無意識に病弱な母親が負担になっている可能性もあるし、父親のいない家庭の歪(いびつ)さがあるのかも知れない。自分への無力感も持っているだろうし、いじめられることによって存在価値までも否定されている。
「変な話をしてごめんなさいね。でも野宮くんの素直な気持ちが聞けてよかった。野宮くんは本当に優しい子なのよ。自分で自分を否定しないで」
「……はい」
少し寂しそうな目で綾子が言うものだから、誠は少ししゃべりすぎたと思った。やはりこういうことは他人に言ってはいけないのだ。相手を不快にしてしまう。
綾子は優しいから不快な表情ではなく、哀しそうな顔をしたけれど、それでも同じことだ。自分の放った言葉で傷付く人がいる。自分の行いで困る人がいる。
ああ、やっぱり昨日死んでおけばよかったのだ。タイミングよくパトカーが来て、警察に見つからなかったら、犯人は誠を引きずってもっと長距離を逃げたに違いない。そうすればそのうち道路に投げ出されて、後続車に轢かれて……そんな理想を考えても今さら何にもならないのだが、あの時の警察官を恨まずにはいられない。命を救ってくれた相手を恨むのはお門違いだが、それは誠の望みとは違ったから。
「あの、先生」
「なぁに?」
思い切って訊ねる。わからないと言われると思っていても、訊かずにはいられなかった。
「その〈おもいで屋〉には、どうやったら会えますか?」
気が付くと、五感が停止していた。明確に言えば、耳は聞こえた。だが目は開かず、話すこともできず、身体も骨折した左腕を覆う石膏で全身を固められたように動かない。臭いもわからないし、ここがどこなのかもわからなかった。また事故にでも遭ったのだろうか?
「先生、良介は、あの子はどうなるんですか?」
知らない女性が金切り声で叫んでいる。先生、というのは吉野先生のことだろうか?
「残念ながらもう……しかし、本来の寿命よりは二年も長く生きてくれました」
綾子ではない、男性の声が応える。
「そうだよ明子。良介は頑張ったんだ。そろそろ辛い肉体から開放されてもいいじゃないか」
「あなたは良介が死んでもいいって言うの!?」
「そんなことは言っていない。しかしこれ以上息子が苦しんでいる姿を見るのは辛いよ」
「それはそうだけれど……ううっ」
どうやらどこかの夫婦が死にかけの息子を前に、泣き崩れているのだと理解した。やはりあるのだ。生きていて欲しいのに、死んでしまうしかない命が。
「先生、良介はあとどれくらい──?」
「はっきりとは申し上げられませんが、午前中にはもう……」
「そうですか……」
「このような状態になっても、患者は耳だけは聞こえていると言います。最期に言葉をたくさんかけてあげてください。なるべく前向きな言葉がいいと思います。そうすれば、また新しい命になって戻ってきてくれるはずですから」
「ありがとうございます」
「ううっ……せ、先生……」
「ほら明子、良介に話し掛けよう」
誠は耳だけが聞こえる状態で周囲を何となく把握した。ここは病院の中で、どこか近くで誰かが間もなく死にかけている。予定よりは二年も長く生きられたという医師の言葉から、元々長く生きられない子供だったと推測される。
しかし次の瞬間、誠は戦慄した。
「良介……こんなふうにしか産んであげられなくてごめんね。それでも長く生きてくれてありがとうねぇ」
「お前がいたから父さんも母さんも頑張れたよ。みんな良介のおかげだ。ありがとうな」
そんな二人の声が、自分の耳元で聞こえたのである。
つまり、死にかけている〈良介〉は自分なのだ。何が何だかわからなかった。そこでふと聞き覚えのある温かな声を思い出す。
「〈おもいで屋〉っていうのがあるらしいの。聞いたことはある?」
吉野先生。学校の保健室。病弱な母親。いじめっ子の洋一とクラスメイト。何もしてくれない教師。綾子に語った自分の言葉。
「あのまま僕は死んでも良かった」
記憶が二重になっているような気がする。
自分は野宮誠という名前で、中学二年生。いじめに遭って自分のクラスまで行けず、保健室登校をしていた。
一方で、自分は生まれた時から病院のベッドに寝たきりで、話すことも動く事もできなかった。長くて三年、という医師の言葉が何故か自分の耳に焼き付いている。それより二年長く生きられたということは、今は五歳の少年なのだろう。
確かに誠は望んだ。〈おもいで屋〉に出会うことを。新しい人生をもらえるなら、死ぬ人の代わりになって死んでもいいと。
しかし誠は〈おもいで屋〉に出会った記憶もなければ、この両親と思しき二人の声にも心当たりはない。きっとまったくの他人なのだろう。唯一機能を維持している耳だけが周囲の音を拾う。ピッ、ピッ、ピッ、と定期的に鳴る機器の音。鳴き声になりながらありがとうとごめんねを繰り返す若い女性の声。それを励ますような穏やかな男性の声。
──もうすぐ僕は死ぬ!
やっと誠の思考はその真実を探し当てた。あんなに望んでいたことなのに、全然嬉しくない。目が開かないので自分の親らしい二人の顔も見れない。「僕は良介じゃない」と言う口も動かない。身体は痛いくらいに固まっていて、小指一つ動かせなかった。
何もできない。今の誠にできるのは、両親らしき大人の懺悔を聞くことだけだ。そして、自分は間もなく死ぬ。意識はこんなにはっきりしているのに、死んだらどうなるのだろうか? 意識のあるままで棺に入れられてはたまらない。しかし、それを拒否する方法はない。
「良介……ありがとうね。あなたが生まれてくれて、本当に幸せだった」
「そうだよ良介。いつまでも父さんと母さんはお前を思っているからな。今度生まれる時も、父さんと母さんのところに来るんだぞ」
「良介、良介!」
ピッ、ピッ、と刻む音が早くなっていく。母親が泣き崩れるのがわかる。
ピ────。
良介の──誠の命の全機能が止まった瞬間だった。もう耳も聞こえない。それでも誠の意識はもがいた。
──待ってよ! 僕はここにいるよ! 死んでいないんだよ!
だが誰にもその声は聞こえることはない。野宮誠は存在しないのだから。
誰かの代わりに僕が死んでも〈了〉
おもいで屋〜人生変えます〜 桜井直樹 @naoki_sakurai_w
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