〈誰かの代わりに僕が死んでも〉第4話
「いじめといっても、完全にいないみたいに無視されているだけです。最初の頃は臭いとかバイキンとか貧乏とか言われたけど、そのうち完全に僕が透明人間みたいに無視されるようになりました。話もしないし、目も合わせてもらえません。でも授業で先生が僕を当てて、うまく答えられなかったりするとみんな笑うんです。それだけです。いじめなんていうほど酷いものじゃないのかも知れません。でも僕はとても辛くて、死にたいくらいでした。でも病気のお母さんを残して死ぬなんてできないし……。僕が全部我慢すればいいと思ったんです。でも担任の先生に、仮病で保健室に行くなって言われて吉野先生のところにも行けなくなって、だんだん学校に行かなくなりました。でもうちにはお金がないので、僕も学校に行かずに遊んでいたわけじゃなくて、授業が終わる時間まで人目に付かないところでじっとしていただけです。でもある時学校から僕が来ていないって家に電話があったみたいで、お母さんに少しだけ話をしました。少しいじめられていて、授業もわからないし、学校には行きたくないって。お母さんは、行きたくないなら行かなくてもいいって言ってくれたんだけど、学校からは何度も来いって言われて。仕方なくお母さんと一緒に教頭先生と話をしたら、保健室登校をしたらどうかって言われたんです」
綾子の知っている話と知らない話があった。誠はそう言うが、もう少しいじめは酷かったと見るべきだろう。そうでなければ、教室に続く階段を上れなくなったり、無理に引っ張っていくと嘔吐したりするものではない。
「話してくれてありがとう。あなたがずっと無理して頑張っていたことがよくわかったわ。本当によく頑張ったのね」
頑張ったのね──母親以外でその言葉を言ってくれた相手は他にいなかった。誠の胸にあらゆる想いが込み上げてくる。
「……別に、そんなことは」
消え入りそうな声で否定するが、その声がすべてを肯定している。
辛かった。苦しかった。寂しかった。本当に消えてしまえたらどんなに楽だったろう。
誠の家にはテレビがない。新聞もとっていない。母親と二人とも、携帯電話も持っていない。かろうじて家に電話機はあるが、情報源は何もなかった。だから世の中でどれだけの子供がいじめで苦しんでいるのか、死に至らしめられたのかなどもわからない。自分のされていることのレベルがどれだけ高いのか低いのかもわからず、だからこれくらいのことは耐えなければならないと思っていた。
家が貧乏なのを恨んだことはない。お金があればいいのにな、とは思ったことはあるが、貧乏なのは病弱な母親が働けず、働いてくれるはずの父親がいないからだ。だから国に補助してもらって自分たちは生きている。ありがたいことだ。それが生きていくための最低限の補助でしかなくても、働きもせずにお金をもらっているのだ。それ以上どんな贅沢が言えようか。
学校も義務教育だし、出費は最低限で済んでいると思う。誠には細かいことまではわからないが、学校に通えているのが何よりの証拠だ。だから卒業まではいじめられようが辛かろうが、我慢するつもりでいた。それでもやはり限界があった。教室に続く階段を上れないというのは明らかに精神的に苦しんでいる証拠だった。
「野宮くんは、もうクラスには戻りたくない?」
「できれば」
「あの本田くんっていう子が違うクラスだったら?」
「……それでも、多分無理です」
洋一が違うクラスだろうと、彼が他にいじめるターゲットを見つけてくれない限り、誠への執着は続きそうだと思った。そして、学年全体を見渡しても、誠以上にいじめやすい要素に恵まれた生徒などいないように思えた。
「野宮くんは今、どうしたい?」
「……死にたい……」
自分でも思わぬ言葉が出たと思った。母親を残して死ぬわけにはいかないと、これまでいろいろなことを我慢してきたけれど。不意に訊かれてとっさに答えた言葉がそれだった。
「僕なんて生きていても何のためにもならないんです。存在自体が迷惑だって言われたこともありました。そしたらいない方がいいってことですよね? みんながそう望んでいて、僕もそうしたいって思えば、死んでもいいんじゃないかなって思うんです」
消え入りそうな声ではあったが、誠は言葉に詰まることなく話した。ずっと心の中で育ってきた感情だったからだろう。淀みなく言えた自分に驚いた。
「死んだら楽になると思う?」
「……それは……わかりません。でも、少なくとも今よりはマシなんじゃないかって思うんです」
「そう。でも、お母さんが悲しむでしょう?」
「……だから、生きるしかないんです」
まるで母親のせいかのように言ってしまった自分に驚いた。
「僕は死んだりしません」
母親の面影に言い訳するように、誠は再度言った。
「そうね。死んでも何も解決しないわ。苦しくなくなるとも限らないし、まだ中学生なんだから、人生を終わらせるには早すぎるもの」
「はい……」
そうだ。綾子の言う通りだ。子供の自殺は中二に多いと聞くが、それはまだ考えが浅く、追い詰められるとその道しか考えられなくなるせいなのだろう。幸い誠にはわかってくれる母親がいる。理解を示してくれる綾子がいる。それだけで十分恵まれていると思うべきだろう。
「……先生は、僕が鬱陶しくないですか?」
「鬱陶しい?」
初めて聞いた言葉のように、綾子は首を傾げる。そしてニッコリと微笑むと言った。
「野宮くんを鬱陶しいと思っているなら、保健室登校に賛成したりしないわ」
「でも、教頭先生に言われて……」
「それでもよ。他に方法を提示すればいいだけなんだから。だから私は野宮くんを鬱陶しいなんて思ったことはないわ。むしろ話してくれて嬉しいし、毎日ちゃんと通ってくれていることにも喜んでいるのよ」
本当に? とは訊けない。けれど、綾子の微笑みに嘘は見えなかった。一度信じた大人だ。裏切られるまで信じ続けたい気持ちはあった。
「明日も……本田くんが来たらどうしよう……」
「じゃあ明日の朝は先生が廊下で見張っておいてあげる。野宮くんが来るまで、誰にも邪魔させないように」
「え……」
ふふ、と綾子は笑う。誠は自分のためにそこまでしてくれる教員がいるとは思わなかった。担任の教師でさえ、自分の話を聞いてくれなかったのに。教頭先生でさえ、無理にでも学校に来いと最初は言っていたのに。
「だから明日も安心して来てね。野宮くんの保健室登校は、ズルでもサボりでもないんだから」
そう言ってもらえるだけでふっと心が軽くなった。
帰り道。ホームルームがない分、誠は他の生徒と顔を合わせずに下校することができる。校門を出て、足早に自宅へと急ぐ。自然と急ぎ足になるのは、家にいる母親の状態が心配だからだ。帰って倒れていたらどうしよう。無理をして怪我でもしていたらどうしよう。
そんな時、真っ先に思い浮かぶのはお金のことだった。救急車を呼ぶのは無料だと聞いたことがある。しかし、病院に行けば少なからず診察費用が掛かる。母親はもともと病弱だから、検査などを重ねればどんどん費用は跳ね上がっていくだろう。それが怖かった。
だから学校に行っていない時はまだ安心だった。一緒にいれば、無理をさせることもない。様子がおかしければ気付けるはずだ。中学生が学校に拘束されている時間は長すぎると、誠は本気で思っていた。
角を右に曲がる。すると。猛烈な勢いで走って来た車のミラーが細い誠の左半身を引っ掛けた。ここは逆向き一歩通行の細道である。本来は車が飛び出してくる場所ではないのだ。パトカーのサイレンの音がする。追われている車なのだろうか。
そんなことを考えながら、誠は狭い道を引きずられていった。しかし、それはすぐに停まった。逆回りしていたパトカーが道を塞いだのだ。警察官が助手席と運転席から出てくる。一人は誠に気付いて、駆け寄ってきてくれた。
「きみ、大丈夫かい?」
「……はい」
大丈夫とは言い難かったが、母親の心配をしていた自分が病院に運ばれるわけには行かない。しかし、何度かコンクリートの壁に打ち付けられたせいもあって、制服の肘の部分が破れていたり、頬にかすり傷があったりしたせいで、警察官は瞬く間に救急車を呼んでしまった。
幸い誠を引っ掛けた車の運転手は、もう一人の警察官と、反対側から走って追ってきた警察階二人に取り押さえられていた。
救急車に乗せられる時、打ち付けた頭がぼんやりしていたせいで、何も言えなかった。ただ、犯人が捕まったのなら慰謝料というものを請求できるのだろうか、と考えていた。
目が覚めると、頬にガーゼを貼られ、制服を脱がされて病衣になっていて、肘にもガーゼが貼られているようだった。何故か頭は包帯でぐるぐる巻かれているし、何より左腕を固定されていた。折れたかヒビが入ったかしたのだろう。鎮痛剤でも打たれたようで痛みは感じないが、何より治療費が心配だった。
「野宮くん?」
知った声が呼びかける。動かせる範囲でそちらを見ると、綾子が白衣を脱いだ私服のままで心配そうに立っていた。
「……先生」
「無理に話さなくてもいいのよ。野宮くん、一方通行の道を逆走してきた酒気帯び運転中の車に引っ掛けられたの。それで何箇所か怪我をしているんだけれど、左腕は骨折らしいわ。頭から血を流していたからいくつか検査をしたけれど、異常はないそうよ。安心して」
自分のことなどどうでもよかった。それより何故綾子がここにいるのだろうか。
「どうして先生が?」
「ああ、制服からしてうちの学校の生徒だってわかった警察の方が連絡をくださったの。それで自宅の連絡先を教えて欲しいって言われたんだけれど、野宮くん、お母さんに心配掛けたくないでしょう? だから簡単に事情を話して私が来たっていうわけ」
なんて気の利く先生だろう。きっと他の教師に嫌味の一つや二つは言われただろうに、誠が母親に迷惑を掛けたくない気持ちを知っているから、わざわざ自分が出向いてくれたのだ。
「ありがと……ございます」
「野宮くんが気にすることはないわ。いつも普通に通っている路地から車が飛び出してくるとは思わないでしょうし。幸い犯人は捕まったから、治療費のことは気にしなくていいって、警察の方が言っていたわよ」
きっとわざわざ聞き出してくれたのだろう。誠が一番に心配することを、綾子は知っている。母親には肉体的にも精神的にも、そして経済的にも負担は掛けたくないという思いを。何も訊かない相手に、治療費の心配はないですよと言う警察などいないだろうから。
「一応帰りが遅くて心配すると思って、さっきお母さんに連絡しておいたわ。目が覚めたら帰宅できるから、心配ありませんって言っておいたけれど……やっぱり心配でしょうね」
「今、何時ですか?」
「まだ夕方の五時よ。そんなに時間は経っていないから大丈夫。私は車で来てるから、おうちまで送っていくわね」
「でも……」
「遠慮しないの。そんなに怪我をして、私も着いた時はびっくりしたわ。頭の包帯はあとでガーゼに変えてもらいましょ。お母さんも驚いちゃうもの」
綾子の表情を見る限り、自分の怪我の中で一番重症なのは左腕の骨折だけだとわかった。後頭部がやや痛んできたが、痛み止めが切れてきたのだろう。それでも脳に異常がないなら一安心だった。
その後は綾子がナースコールで看護師を呼び、包帯をガーゼに変えてもらうように頼んだ。医師は一通り誠にもわかるように怪我の状態と注意事項を伝えてから、「お大事に」と言って去って行った。会計はしなかった。既に綾子が請求先を申請してくれていたのだろう。痛み止めをもらって綾子の車に乗る。
ゆっくりと運転している綾子を見た。真正面を見て、注意深く眼球が左右にも動く。運転には慣れているようだ。毎日学校には車通勤だと聞いたので、幸いだったと思った。
自宅に帰ると母親が玄関まで出てきて、綾子に上がっていくようにと懇願した。綾子は誠の症状を伝えるということもあり、恐縮しながらパンプスを脱いだ。
「いつもお世話になっております。まさかこんなことまでご厄介になるなんて……」
誠の母親は、誠に似て身体が細く、長い髪は腰まであった。あまり清潔とは言えなかったが、家庭の事情を知っているだけに理解するしかない。誠がぬるい麦茶を持ってくる。
「──ですから、頭の怪我はちょっと大袈裟に見えますが、まったく異常はないということですので安心してください」
綾子は誠の症状と事故の理由を説明する。母親は泣きそうになりながら頷いて聞いていた。
最低限の説明を終え、半分ほど麦茶を飲んで、綾子は野宮家を後にした。金銭的なことは他人が言うのはいやらしいので、誠自身に説明してもらうように車の中で頼んだ。
「いい先生ね」
綾子が帰った後、母親が瞳を潤ませて誠に言う。誠は「そうだね」と言って、事故の相手が交通違反者だったことと、警察にその場で取り押さえられたことを話し、治療費はその犯人に請求が行くようになっているので心配はいらない、と拙い言葉で伝えた。
母親は息子に経済的な心配を掛けていることを詫び、誠は「気にしてないよ」と答える。その夜は左腕の不自由な誠の代わりに母親が台所に立ち、少し野菜の入ったおかゆを作ってくれた。
綾子はしばらく学校は休んでも構わないと言っていたが、翌日も誠は学校へ行った。幸い不自由なのは左腕だったので、不便ではあるが筆記などには支障はない。何よりあらゆる面倒を引き受けてくれた綾子の優しさに、これ以上甘えることはできないと思った。
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