〈誰かの代わりに僕が死んでも〉第3話
翌日も早めに家を出て保健室に行く。他の生徒にはもちろん、できれば教師にも会いたくない。もしかして何も知らない教師に「何をしてるんだ」と言われるかも知れないし、他の生徒に見つかって噂されるのも嫌だった。
そっと保健室の扉を開けると、昨日と同じように綾子が微笑んで迎え入れてくれた。フレーバーの違う紅茶を出してくれる。心が解れるような良い香りだった。
「これはね、ニルギリっていう南インドの紅茶なのよ」
「インド?」
「そう。レモンやミルクも合うの。さすがにそんなものまで持ち込んではいないけれど」
くすりとはにかむ表情が、とても三十歳をとうに超えている未婚の女性とは思えないほどに可愛らしかった。誠はドキリとする。クラスの女子よりずっと可愛い。目上の女性に、可愛いは失礼かも知れないけれど。
養護教諭の吉野綾子には、最初に出会った時から誠は惹かれていた。病弱な母親も大切だったけれど、綾子に母性を感じ、甘えたいと思った。そして頻繁に保健室に来る誠を、諌めることもせずに受け入れてくれた相手でもあった。
大人の女性への憧れと、本能的に感じた安心感、瞳の奥まで偽りのなさそうな優しさと、凛とした姿勢。すべてが誠を虜にした。しかし、だからこそ弱い部分を深淵までは見せられなかった。いじめられている内容が「軽く」ではないことも、今はまだ言えない。
保健室登校と聞いて、嬉しさはあったものの、不安の方が半分以上あった。ずっと一緒に過ごせば、隠していてもお互いの嫌な部分は見えてくるかも知れない。盲目的に綾子を信頼している誠はともかく、誠が綾子に呆れられる可能性は容易に考えられる。もしそうなったら、誠はどこへ行けばいいのか……それは二日目の今日もまだ引っ掛かっている。
「さて、今日は何をするのかな?」
予鈴が鳴って廊下が静かになると、誠は奥のベッドの陰から出てくる。それについては綾子は何も言わなかった。きっとそういう生徒を何人も見てきたのだろう。
「一時間目は数学です」
「そうかぁ。野宮くんは数学得意?」
「いえ……」
得意教科など一つもない誠は、昨日も教科を変えるたびに訊かれたが、首を横に振るしかなかった。勉強する時間はあるのに、理解力が追いつかない。他の生徒は塾に通っていても、誠の家庭ではそうもいかない。自ずと勉強が周囲より遅れた。教師はお構いなしに授業を進めていく。
それも誠が学校に行けなくなった理由だろう。定期試験はもちろん、小テストで「ここが出るぞ」と出題範囲を指定されていても平均点を取れない。先天的に頭が悪いのだと自分では思っていた。
「数学は私も苦手だったなぁ。公式を覚えられなくて」
ふふふ、と綾子が笑う。誠はどことなくホッとした。たとえ養護教諭と言えども、学校の先生にも苦手科目があるのだ。確かに教師は自分の担当教科を持っているが、案外それ以外の勉強はできないのかも知れない。そう思うと少し気が楽になった。
「じゃあ勉強を初めましょうか」
「はい」
そうは言っても、数学は教科書だけを読めば理解できるということはあまり多くない。やはり教師の口頭での説明や板書があってこそ理解できるものである。まぁ、誠はそれでも理解に苦しんでいるのだが。
方程式と言われても、xとかyとかで何を示しているのかが不明だ。だから「イコール何」と言われても、何と等しいのかわからない。すると自分がだんだん何をしているのかわからなくなってくるのだ。ゲシュタルト崩壊のようなものである。
周囲のクラスメイトは普通にノートをとり、当てられれば前に出て正答を黒板に書き出し、質問はと問われると的確な疑問を投げて「良い質問だ」と言われている。そのどれもが誠にはわからない。そして、誠がわからないのは数学の授業だけではなかったのだから、教師が保健室でもいいから登校しろと言う理由だけはわからないでもなかった。
義務教育なので、落第や留年などはさせられない。中退などもってのほかだ。せめて出席日数さえ満たしてくれれば、中学卒業後は好きにすればいいと考えているのだろう。高校に進学しなかったとしても、それは家庭の経済的な事情ということにできる。
誠自身はそこまで大人の事情を深読みしなかったが、先日の教頭との話し合いの後で母親がたいそう疲労してしまったのは、そういう事情がわかってしまったせいかも知れない。心も身体も弱いのに、平たく言えば「おたくの息子さんのせいで困っています」と言われているのだ。普通に健康な母親でも気が滅入るだろう。
しかし誠の母親は誠に当たるようなことはしない。ただ優しく頭を撫でてくれる。無理に「頑張ってね」とも言わない。自分がさんざん言われて辛い思いをしたからだろう。病弱な上に夫に放置され、収入もなくては、誰もが憐れみの目を向ける。その痛みを知っているからだ。
また、チャイムの音で我に返った。数学の教科書は一ページもめくられていない。自分の思考の中に入り込んでしまっていたようだ。
「考え事?」
綾子にそう問われるが、廊下がにわかに賑やかになってきたので、誠は慌てて奥のベッドのカーテンをくぐる。十分間の休み時間の間、誰も来なかったが、誠は物音もたてずにじっと身を潜めていた。
始業のチャイムが鳴って、ようやく元の場所に座る。綾子が少し眉を下げて呟いた。
「人が怖いのね」
「……」
声には出さなかったが、誠はわずかに頷いた。
人は怖い。人は何をするかわからない。人は理解できない。
だから誠は人の前で自分がどう振る舞えばいいのかもわからない。そのせいか、小学生の頃からよく叱られた。叱られた理由は自分でもよくわからず、怒った教師も「叱られた理由がわかるまで立っていなさい」と放置するだけで、何も教えてくれなかった。
学校で辛い目に遭っていることは母親は知らないはずだが、さすがに想像はついたのだろう。しょんぼりと一人で帰宅し、それから遊びに出ることもしない我が子を抱き締め、物も金もないなりに愛情を込めて話をしたり、何度も同じ本を詠んだり、ジグソーパズルを作っては崩してやり直して遊んだ。誠は家にお金がないことはわかっていたので、わがままを言うこともなかったのだ。
「野宮くんは、私も怖い?」
窓から聞こえる雑音が耳障りな中、キレイなトーンの綾子の声だけはくっきりと輪郭を持って聞こえる。
「え、そんな」
まったく怖くない、と言えば嘘になるかも知れない。けれど、母親の次に信頼している大人だったし、疑う隙はない。
「そう。良かったわ」
綾子は大人なのに無邪気な笑みを浮かべて言う。それは心からそう思っているようで、誠も少し嬉しかった。
一週間ほど順調に保健室登校を続けた。しかし、誰にも見られていないと思っていても、やはり真実である以上どこかからは事情は漏れるもののようで、ある朝一番会いたくない相手と校門でかち合った。いつも他の生徒より随分早く登校する誠なので、それは待ち伏せとしか思えなかった。
本田洋一は、誠を二年生の間にいじめのターゲットにすると決めた張本人だった。一年生の時にいじめられていた生徒は、洋一とクラスが離れて普通に新しいクラスに馴染んでいるようだ。もともといじめられるままの性格ではなかったのだろう。
しかし誠は違った。一年生の時はたまたま他にターゲットがいたから自分がいじめられることがなかっただけで、いつだって誠はクラスの底辺のような存在だ。成績も悪いし、身体も気も弱い。唯一褒められるのは、そう簡単には泣いたりしないことだろうか。
胸の中にいつも涙目の母親の面影があるせいで、自分は泣いてはいけないんだとずっと言い聞かせてきた。だから、そうやすやすとは涙を見せない。それが洋一には面白くなかったのだろう。いじめがエスカレートする原因になった。泣くまでやってやれ、という彼なりの意地だったのかも知れない。
「よう、チビ」
「……」
誠は無言で通り過ぎようとした。しかし、すぐに立ち塞がられた。
「何だよ、挨拶も返せねぇのか? クラスメイトだろ?」
よう、チビ、が挨拶なら、よう、デブ、と返したかったが、もちろん誠にそんな言葉は言えない。素直に小声で「おはよう」と言った。そして洋一を避(よ)けてまた歩き出そうとするが、今度は肩を掴まれた。
──何だよ!
心では思っても、言葉にも表情にも出せない。早く吉野先生のところに行きたいのに。シェルターに逃げ込みたいのに。
「お前何で教室に来ないで保健室にずっといるんだよ。勉強できないくせに授業に出ないなんて、インチキじゃねぇか」
インチキじゃない、と言いたかった。これは教頭公認の教育の一環だと言っていた。誰にも悪く言われる筋合いはない。ただ、誠自身はあまり保健室登校の意味を理解していなかったので、正論で論破することもできなかった。
「……教室に、行けないから……」
先細る声でそれだけ言う。洋一は聞こえているくせに「はぁ?」と大声を出す。
「何で保健室には来れて、教室には来ないんだよ。おかしいだろ」
階段を上れないから、とは言っても無駄そうだったので、誠は黙っていた。そんなことを言ったら無理矢理にでも引きずって行かれそうだ。彼のすることはおおまかに予想がつく。幼稚ないじめだからだ。さながらガキ大将である。
「ほら、来いよ。俺がわざわざお前を迎えに来てやったんだぞ。教室に行こうぜ」
嘘らしく肩に手を回してくる。スキンシップが気持ち悪い。洋一の息も臭い。制服の袖の生地が首に当たってチクチクする。何もかもが嫌だった。
──やめてよ。
そう言えればどれだけいいだろう。誠は蛇に睨まれた蛙、いや、蛇に巻き付かれた小鳥だった。何をどうすることもできない。すごい力で押し出されるように連れて行かれる。転ばないように誠は足を前に出すしかなかった。
しかしやっぱり無理だったのだ。一人で努力しても上れなかった階段を、いじめの張本人が付き添ってうまく上れるわけがない。嘔気がした。朝食は相変わらずおかゆで満たしたが、それと胃液が混じったものがこみ上げてくる。
一段、引っ張り上げられるように上る。そこで誠はしゃがみ込んだ。身体が下がったことで、肩に回された洋一の腕が解ける。
「何だよお前──うわっ、きったねー!」
吐いた。ほとんどが液体だったが、その中に溶け残ったように米粒がある。
「うわー! 近寄るな!」
生徒もまばらな朝なので、洋一の声は普段以上によく響く。そこへ顔を出したのは綾子だった。誠が来るはずの時間に訪れないので心配して待っていたところ、廊下で大声が聞こえたからだ。
「どうしたの?!」
綾子は階段の下でしゃがみ込んでいる誠を見て駆け寄ってくる。本田洋一を見て、彼がいじめっ子だとすぐにわかった。
「何があったの?」
綾子は冷静に問う。
「知らねぇよ! こいつが教室に行けるように手伝ってやってたら、いきなり吐きやがったんだ!」
場所が階段の下であったことからも、誠の精神的な抵抗でこうなったのだと見て取れた。
「野宮くんはね、保健室登校なの。担任の先生から聞いているでしょう? 無理に連れて行っちゃダメなの」
「無理なんかしてねぇよ! 俺はただ行こうぜって……」
もう一度誠が吐きそうな音を鳴らしたので、洋一は「うわっ」と言って階段を駆け上って行った。
「野宮くん、大丈夫? 雑巾を持ってくるから、少し待っててね」
誠が返事をする前に綾子は職員室に行き、バケツと雑巾を持ち出してきた。濡らした雑巾で誠の吐瀉物を吹く。ほとんどが液体であるため、ろくな朝食を食べていないことはすぐにわかっただろう。情けなくて涙が出そうだった。しかしもちろん泣かない。
「先生……ごめんなさい……」
手伝おうにも雑巾が一枚しかないので、誠は手持ち無沙汰に謝った。大方片付いた廊下を見てから視線を移し、綾子はニッコリと微笑む。
「謝らなくていいのよ。きっと先生の伝達がうまくいっていなかったのね。野宮くんは何も悪くないのよ」
白衣の袖をまくったまま、綾子はバケツを持って外に出る。誠もついていった。手洗い場になっている場所にバケツの水を捨て、それを洗う。雑巾もキレイに洗って、それでバケツの水気を拭った。
「先に保健室に行ってて。これ返してくるから」
「はい」
誠は少しうがいをしてから、今度こそ誰にも見つからないようにそっと保健室に入った。すぐに綾子も戻ってくる。
「お待たせ。改めて、おはよう、野宮くん」
「おはようございます……」
自分の息は臭くないだろうか。数回のうがいで口の中はさっぱりしたが、臭いまではしっかり取れたとは断言できない。自然とモゴモゴした挨拶になる。
「さっきの子は、クラスメイトね?」
「はい」
「何かされた?」
「教室に行こうって……階段に……」
そうだ、普通に考えれば洋一は何も悪いことはしていない。肩に手を回して強引に連れて行かれそうにはなったが、クラスメイトとして当然の行為と捉える見方もあるだろう。
しかし、その前のやり取りがある。授業に出ないのがインチキだとか言われ、教室には行けないと言う誠を無理に連れて行こうとした。担任の教師からは何というふうに伝えられているのかは知らないが、いじめっ子の洋一が親切心から誠を迎えに来たわけではないことなど、知っている者からすれば明らかなのだ。
しかし綾子は洋一がいじめっ子だとは気付いていないと誠は思っている。実は洋一にいじめられていて……と説明するのも難しかった。
「そう。担任の先生には私から伝えておくわね」
「あ、いえ、いいです」
珍しく誠がはっきりと拒絶した。綾子はやはりと思う。
「どうして?」
「そんな……たいしたことはないんで。あまり大事(おおごと)にしたくないです」
「担任の先生に言うと、大事になるの?」
「いえ……えっと……」
誠は言葉にできず、俯いてしまう。脳内では何と伝えるべきか、意味のない考えがぐるぐると回っている。
「野宮くん、少しいじめられてるって言ってたわよね?」
どくん、と心臓が大きく鳴る。頷くことも、首を振ることもできない。
「さっきの子にも、いじめられた?」
言ってもいいのだろうか? 話がややこしくなったり、さらにいじめられたりしないだろうか?
綾子のことはもちろん信じている。一番信頼できる大人で、学校の中では唯一とも言える理解者だ。少しは心を開いているが、端から見れば自分のされていることなど「その程度」と言われるようなものかも知れない。綾子に呆れられたくない。怖い。本当のことを言うのが。
「……本田くんは……クラスのリーダーです」
「そう」
つまり、彼がいじめを率先しているのだ。クラスメイトから無視されていると聞いた時は、少しくらいは話すこともあるだろうにと考えたが、リーダーが彼では、言うことを聞かないと今度は自分がいじめられると考えるだろう。だからクラスメイトは団結して誠を救わない。
「辛かったでしょうね」
綾子の口から出た言葉は、誠にとっては意外なことだった。そんなこと、誰も言ってくれなかったから。弱いお前が悪い、きみがいじめと感じているのはコミュニケーションだ、もっと自分から心を開かないと──そんなことを多くの教師に言われた。頭を撫でてくれたのは母親だけだ。
「そんなことは……」
とっさに誠はいつもの言葉を用意する。しかしそれに被さるように綾子の言葉が割って入った。
「そうなのね。いつも野宮くんはそうやって自分を抑え込んできたのね」
ハッとした。瞬間的に誠は、「この人ならわかってくれる」と思った。綾子は心理カウンセラーの資格も持っている。それがどれだけすごいのかなどはわからなかったが、少なくとも単純な〈保健室の先生〉ではないのだろうと思っていた。
「先生……」
廊下がにわかに賑やかになってくる。大勢の生徒の登校時間なのだ。ふと我に返った誠は、いつものように奥のベッドのカーテンに隠れた。
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