〈誰かの代わりに僕が死んでも〉第2話
月曜日の朝、ふと思った。
クラスでは自分のことは何か言われているのだろうか。いじめの話がされていたら、もしかするともっと酷くなるかも知れない。保健室の前で待ち伏せされていたらどうしよう、と想像ばかりを膨らませて不安になった。
しかし制服に着替えて鞄を持つ。授業を受けるわけではないので、そんなに重くはなかった。重いのは気分の方だ。大嫌いな担任。まるで自分に悪意を向けてくるかのように感じていた。しかし、今日からはそこへ行かなくてもいい。大好きな保険の先生とおしゃべりしに行く程度で構わないと言われていた。
保健室がいつも無人というわけではないので、怪我人や本当に調子の悪い生徒が来たら誠は奥のベッドに隠れるつもりだったが、まだ保健室登校がどのようなものなのかははっきりとはわからなかった。だからいつもより少し早く家を出る。
無事に校門をくぐることはできた。知った顔には誰も会わなかったせいもあるだろう。そのままロッカーで校内履きに履き替え、まっすぐに保健室を目指す。周囲を気にしてガラリと思い切って扉を開けると、待ちかねたような穏やかな表情をした綾子と目があった。彼女はデスクに座っていた。
「おはよう、野宮くん」
「あ、お、おはようございます……」
尻すぼみになっていくが、何とか最後まで言い切れたと思う。そっと静かに扉を閉めて、それから自分はどうしたらいいのかと不安になった。ここには自分の座席も物入れもない。
するとそれを察したように、綾子が自分の事務机の横を指して言う。
「ここに野宮くんのロッカーを作ったから。鞄とか上着とか、入れるのに使ってね」
「は、はい」
心を読まれた気がして誠はドキドキする。ひとまずその誠用の臨時ロッカーに鞄を入れて振り返ると、今度はデスクに向かっている綾子の向かい側を指差して彼女は言った。
「それで、今日から野宮くんの席はそこね。机の上がまだ散らかってるけど、すぐに片付けるわね」
綾子の向かいに、多分本来は彼女の書類などを置いているのであろうスペースが中途半端に片付けられていた。誠が教科書を開くだけの場所は十分にある。思わず「大丈夫です」と言っていた。
「あの、これだけあれば勉強できるし……。ここはもともと吉野先生の机だし」
「遠慮しないのよ。私も片付けなきゃって思って積んだきりだから、ちょうどいいわ」
まるで意に介せず、綾子はさっさと積んである書類を手に取る。それらは書棚から出されたまま放置されていただけのようで、きちんと収納する場所もあったし、それを終えれば小ざっぱりしたスペースができあがった。
「野宮くん、やっぱり早かったわね。でもきっと来てくれると思ってたわ」
綾子は立ち上がって紅茶を入れている。きっと毎朝のルーティーンなのだろう。少し邪魔だったかなと、誠は心苦しく思う。すると綾子が声を掛けてきた。
「野宮くん、お砂糖どれくらい?」
「え?」
「紅茶。飲むでしょ?」
「あ、はい。二杯くらいで」
少し見栄を張った。紅茶なんて普段飲まないから、どれくらいの砂糖が適量なのかもわからない。コーヒーではないのは、誠を気遣ってなのか、単に綾子の好みなのか。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
また尻すぼみになる。それでも綾子は笑顔で返してくれた。誠は恐る恐る紅茶に口を近付ける。良い香りがする。お茶とは全然違う。「香り高い」とはこういう香りだろうか。一口飲むと、ふわっとした温もりが喉を通過していった。甘さは自分にはちょうどいい。綾子は砂糖を入れていなかったけれど。
「美味しい……」
「そう? 嬉しいな。私、紅茶大好きなの。いろんな種類のを揃えてるのよ。あ、教頭先生には内緒ね」
可愛らしくウインクをする綾子に、もちろんとばかりに誠は何度も頷いた。こんな素敵な秘密を漏らしてたまるものか。誰にだって決して言わない。
それから二人はぽつりぽつりと会話を交わしながら紅茶を飲んだ。ショートホームルーム前の予鈴が鳴る。綾子は誠の分のカップも受け取り、部屋の隅のシンクで洗った。しまったと思ったがもう遅い。明日からは自分がカップを洗おう、と誠は心に決める。
「さて、じゃあちょっと職員室に朝礼に行ってくるね。少し待ってて」
「はい」
誰か来たらどうしよう、とは言えなかった。誠は綾子が出ると、隠れるように一番奥のベッドが置いてあるカーテンの中に入ってすべてを閉めた。これで誰かが来ても、先客がいるとわかるだろう。無理に開けて入ってくることもない。少し開けられた窓からは、各教室から挨拶の声が漏れ聞こえてくる。起立、礼、着席。えー、今日は──そんな教師の声まで。
そして朝のホームルームが終わり、それぞれがかく教科の授業の時間に入っていく。不思議だった。それらから切り離され、他人事のように保健室で聞いている自分。本当なら、この保健室の斜め上にある自分の教室で自分もあの中に入っているはずなのに。
すると保健室の扉がガタガタと開いた。思わず誠は身を縮こまらせる。
「あれ? 野宮くん? トイレかな?」
綾子の声がする。
「あ、先生」
カーテンから顔を出し、誠は自分の存在を告げた。綾子は微笑んで「そこにいたのね」と安堵の様子を見せる。
「出ていらっしゃい。誰も来ないから」
「はい……」
カーテンの切れ目から誠は部屋に出る。授業中のクラスのさまざまな声やざわめきが聞こえた。
「先生は……」
「うん?」
「毎日ここにいるんですか?」
「そうね。ここが仕事場だから」
当たり前のことを聞いてしまい、誠は自分に「バカ!」と罵声を浴びせる。長らく他人と話していないせいか、もともと不器用で口数の少ない誠はうまく会話を成り立たせられない。
「……」
言いたいことや訊きたいことはあるのだけれど、それをうまく言葉にできずに沈黙が降りる。綾子は優しい笑顔で誠を見守っている。
「取り敢えず座って?」
綾子が助け舟を出した。二人で立ちっぱなしで黙りこくっていては、何も意味がない。ひとまず誠は自分のために用意された椅子に座った。教室のと同じ、板張りの硬い椅子。
「野宮くんが何がしたい?」
「え?」
「今日のこと。ゆっくりお話しする? それとも、勉強したい? 一応私、理科系なら教えられるんだけど」
そうだ、今日から保健室登校だということは、終業までここで過ごすということだ。仮病を使って数時間ベッドを借りるのとはわけが違う。
「あの……保健室登校って、どんなのですか?」
それは先日教頭と母親が話し合っていたが、話し合いというよりは教頭の一方的な押し付けに近く、母親も驚いて口を挟めなかったらしい。だから話は聞いていても、イマイチ把握できなかったのだ。
そこで綾子は斜め上を見上げて「そうねぇ」と腕を組む。
「一般的には、クラスに馴染めない子や不登校になりそう、またはなってしまった生徒を、保健室でゆっくり学校に来ることに慣れさせて、徐々に教室に行けるようにしていくっていう方法ね」
「徐々に、教室に……」
やはりいずれ教室に戻らなければならないのか。そう思うと胃がキリキリした。あの階段が上れるようになったら? それとも期限付きで、保健室に通える期間は決まっているのだろうか?
誠にはまだ訊きたいことがあったが、事実を突き付けられるのが怖くて訊けなかった。
その表情を汲み取った綾子は、「大丈夫よ」と言う。力強く。
「無理に教室に行かせるようなことはないから安心してね。あくまでクラスに戻るのは野宮くんの意志を尊重するから。だからそれまでは保健室で心を解(ほぐ)しましょう」
ホッとした誠の表情を見て、綾子は満足そうに頷く。
「じゃあ、僕は教科書を読みます」
「いいわよ。教科は?」
「一時間目は国語なので、国語の教科書を」
「そう。きちんと普段の授業に合わせるのは偉いわね。読書が好きなの?」
「いや……本はそんなに読みません。教科書くらいしか……」
お金がないので、とは言えなかった。古本屋のワゴンで百円になっているものにすら、誠は手を伸ばさない。立ち読みしてしまえば欲しくなるし、一冊丸ごと立ち読みするわけにもいかない。
だから、本を読むのは好きだったが、読書が趣味とは言えないのだ。どんなのが好きとか、あの有名作品は読んだかとか、読書が趣味だと言ったら必ず聞かれる。そんな新しい本、しかも文庫になっていない高価な書籍など、今まで買ったことなどなかった。
「教科書はいろいろ載っているものね。私も学生の頃は国語が好きだったわ。結局、他の文系がダメだったから理系に進んだけれど」
「そうなんですか……」
たとえ好きな分野が不出来でも、好きではなくても得意分野があるのは羨ましい。誠にはどちらもない。やりたいことも、しなければならないことも。
「じゃあ、チャイムが鳴るまで授業ね。私もここで仕事をしているから、何かあれば呼んでね」
「はい」
そう言って誠は鞄から国語の教科書を出す。折り目もないキレイな教科書だ。勉強していなからではなく、誠が物を大切にする性分だからだ。汚い教科書ほど勉強していると見られがちだが、誠は教科書に線を引くのも本当は嫌だった。かと言って、勉強ができるわけではないから何も言い訳はできない。
国語の教科書は、長い物語は端折られていることが多い。あらすじは教師が説明してくれるが、肝心の後半部分はなかったりする。だから、誠のように読書のつもりで教科書を読むと、いいところで途切れていたりする。
本当なら続きは本を買って読めばいいのだろう。こうやって好奇心を刺激して、読書に興味を持たせようとしているのかも知れない。まぁ大きな理由はページとの兼ね合いなのだろうけれど。
詩や俳句も載っているが、誠の心には響かない。短い言葉で記されてもよくわからないし、意味は作者にしかわからないはずだ。それを「これを詠んだ作者は何を感じたか」と質問されても、誠には答えられなかった。だから長い物語の方が好きだ。
古文も嫌いではないが、教科書にたくさん書き込みをしなければならないのが難点だ。書かずに覚えられればいいが、誠の能力ではそれもできない。だから仕方なく波線を引いたり矢印を入れる。それで理解できているかどうかは、また別の問題だ。
ふらふらとページをめくっていると、いつもより体感的には早く授業終業のチャイムが鳴った。そんなに教科書に集中したことはなかったので、誠は驚いて顔を上げる。
「休み時間よ」
綾子が微笑みながら言った。誠は教科書を閉じる。
「はぁ……」
自然と息が漏れた。一人なので他の生徒の視線を気にしなくても済むせいか、教師にわからない問題を当てられる心配もないからか、かなり集中していたようだ。とは言え、教科書を読んでいただけなのだが。
廊下からは体育の授業に行ったり戻ったりする生徒のはしゃぎ声が聞こえる。思わずそのまま保健室に入ってくるのではないかと誠は恐れた。体育の授業中に転んで怪我をした生徒が来ないとも限らない。こんなところでゆっくりしている誠を見れば、どんな噂を立てられるかわからない。
「先生……」
「うん?」
綾子はいつものように穏やかな微笑みで首を傾げる。誠は思い切って訊いた。
「ここ、誰か来ますよね」
「そうね、用事があれば来るわね。私としては生徒のみんなには怪我をしたり、体調を崩したりして欲しくはないんだけれど」
自分も仮病を使って一時期保健室にこもっていたからわかる。そんな生徒が、三学年ある中学校で、自分だけのはずがない。
とっさの勘で、誠はカーテンを締め切ったベッドの端に隠れた。その瞬間、保健室の扉が荒っぽく開く。誰かはわからないが、女子が二人来たようだ。
「綾子せんせー! 絆創膏ください!」
声だけ聞くと、非常に元気そうである。
「はいはい、どうしたの? 怪我?」
「ゆっきーがねー、内川くんが体育で擦りむいたの見たから、絆創膏持っていってあげたいんだってー」
「ちょっと! 言わないでよ!」
「いいじゃーん。綾子せんせーなんだしさ」
「もう。ね、先生、絆創膏もらえませんか?」
「いいわよ。じゃあ念のため二枚ね。今度からは自分で持ってないと、女子力上がらないわよ」
「気を付けまーす。ありがとう」
賑やかに二人は保健室を出ていく。なるほど、そういう生徒も来るのかと誠は驚いた。
その後は誰も保健室には入ってこなかったが、誠はチャイムが鳴るまで一番奥のベッドサイドに身を隠していた。チャイムの音でほっとして隙間から這い出る。
「苦手なのね。他の生徒が」
綾子が言う。
誠は何と言ったらいいかわからずに俯いた。
「この前の時、少し聞いたけれど、軽くいじめられてるって本当?」
「……はい」
恥ずかしく思いながらも誠は俯いたまま深く頷く。しかし綾子が聞いているのはいじめの有無ではなかった。
「軽く、って言っていたけれど、本当はそんなに簡単なものじゃなかったんじゃない?」
「え?」
思わず顔を上げる。綾子は続ける。
「いじめられている子はね、いつも自分が悪いと思いがちなの。だから、おうちの人にも心配させないようにいじめられていることを隠したり、酷いいじめに遭っていても『軽く』なんて言っちゃうのよ」
「……」
見透かすような綾子の視線に、誠はいたたまれなくなった。この先生になら本当のことを話してもいいだろうか? 他の教師のように、みんなと一緒になって笑ったりしないだろうか。そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。
「いいのよ、まだ全部話さなくても。少しずつ、野宮くんが話したくなったら聞かせて。先生はいつでも聞く準備はできているから」
「……はい」
小さく返事をして黙り込んだ。今がチャンスだったのかも知れない。相手から聞いてくれるなら話しやすいのに。そのせっかくのチャンスを逃してしまったのではないか? もう二度とこんな機会は来ないのではないだろうか?
そう思うと誠は情けなくなり、歯を食いしばった。
──だから僕はいじめられるんだ。
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