〈誰かの代わりに僕が死んでも〉第1話

 保健室登校をしませんか、と提案された時、意味がわからなかった。しかし、母親と教頭の間では詳細な話が進んでいる。呼ばれたのか養護教諭が教頭室に入ってきた時、野宮誠は大好きな吉野先生だ、とだけ認識した。いわゆる保健室の先生だ。

「はじめまして。養護教諭の吉野綾子と申します。責任を持って野宮誠くんをお預かりさせていただきます」

 頭を下げると、顎のラインで切り揃えられたキレイな髪が一緒に揺れる。そして視線を誠に合わせ、ニッコリと微笑んだ。誠は思わず俯く。

 中学二年生になった時、一年生の時に軽くいじめられていた男子生徒と別のクラスになった。しかし、彼をいじめていた生徒と同じクラスになってしまった。それだけなら別に気にならなかったのだが、彼は以前いじめていた相手の代わりに、二年生の間は誠をターゲットにしようと決めたらしいのがそもそもの始まりだ。

 誠はもともと虚弱体質で、気も弱い。母子家庭な上に、母親も身体が丈夫ではないので、生活保護を受けている。それがどこからか漏れ、生活保護家庭の何たるかもよくわかっていないであろういじめっ子の少年は、わかりやすく誠をいびった。

 母親は自分のことで精一杯ということもあり、誠にはあまり頓着できなかった。しかし、愛情だけはたっぷりと与えてくれたため、誠は貧乏ながらも幸せな暮らしをしている気持ちでいられた。

 家にお金がないのは知っている。誠の髪が伸びてくると、母親が風呂場で切ってくれていたのだが、最近はそれも頻度が減っていた。明らかに母親の体調が悪化しているのは誠にもわかったが、だからといってどうすることもできなかった。

 爪くらいは自分で切れるのだが、一度酷い深爪をしてから長めにしか切れないようになり、そこにはいつも垢が詰まって黒くなっていた。食事も母親に合わせた貧相なものしか食べられないため、育ち盛りのはずの年頃なのに、十分な栄養が取れていないのは誰の目にも明らかだった。

 いじめの最初は、その誠の不潔さだった。臭いとか汚いとか言われ、触るな、近付くなと言われた。誠はその通りにしたし、学校とは授業を受けに行くだけの場所だと割り切って、部活も免除してもらっていた。

 その後生活保護家庭であることが知られ、いじめはさらに悪化する。誠が小さい頃に父親はいなくなったらしいが、詳しいことはよく知らない。母親の口から聞けないのであれば、どこからも知る術はなかった。

 しかし母親にはいじめられていることはもちろん言えなかった。生活保護家庭であることはどうしようもないので、誠は自分で髪を切り、頑張って爪も切ってよく洗った。

 それでも一度ついた印象は改善されることはなく、自分で不器用に切った髪をバカにされ、洗っても取れない爪の垢や髪のフケなどを指摘されては遠巻きにされた。遠巻きにされたおかげで暴力などには遭わずに済んだが、そのうちクラスメイト全員が誰も話してくれず、目も合わせてくれなくなった。誠にとってはその方がキツかった。

 注意力散漫な性質なのか、授業中でもいつも他のことが気になり、よく貧乏揺すりをした。クラスメイトは迷惑そうにし、教師はたびたび誠を叱った。学校に行きたくないという気持ちが大きくなり、授業中にお腹が痛いとか吐き気がすると言っては保健室に逃げ込んだ。

 そんな時に優しく迎え入れてくれたのが、誠からすれば「キレイで優しい保健室の先生」の吉野綾子だった。養護教諭という職務柄、保健室に外傷以外で訪れる生徒には注意を払っていた。腹痛や嘔気などが本当なのかどうかは、本人にしかわからない。しかし毎日腹痛がするのが本当なら、大きな病院で検査をしてもらうべきだし、他に発熱などの症状があるものだろう。

 綾子は心理カウンセラーの資格も持っていたので、子供のそういう部分はすぐに見抜くことができた。酷くいじめられているのかと訊いたことは一度もないが、誠の方からほのめかされるのはそう時間が掛からなかった。

 しかしやがて担任教師から、仮病で保健室を使うなと言われてしまい、真面目な誠はどんなに辛くても保健室に行けなくなってしまった。クラスにいてもいないも同然に扱われるし、教師には叱られ呆れられる。そんな時だけクラスメイトは示し合わせたように笑い、誠をいたたまれなくした。

 母親には学校に行きたくないなどとは言えない。しかし、母親も病弱で自宅にいるため、朝はいつものように制服を着て家を出なければならない。終業時間になるまでは家には帰れないし、公園などにいると幼い子供を連れたママ友たちのヒソヒソ声と視線が痛かった。

 誠は学校に行かず、公園にも留まれず、行く宛もなく彷徨うわけにもいかず、お金もないのでどこかに身を寄せることもできなかった。人目につかないように路地の奥の商業施設のゴミ箱の横に座って過ごしたりした。

 ところがある日、母親に学校に行っていないことがバレてしまう。学校から電話があったらしい。義務教育だから仕方がないのだが、誠は放っておいて欲しかった。

 仕方なく母親に話した。軽いいじめに遭っていて、勉強もわからないから学校には行きたくないと嘘をついた。保健室に行ったら担任に行くなと言われたことは打ち明けた。そこで保健室登校の話に繋がったのかも知れない。

 母親があまりにも心配するので、きちんと学校に通おうと決めたが、その頃には精神的なことが原因なのか、身体が教室に入ることを受け付けなくなっていた。二階まで上がるが、階段の途中で息切れがする。いくら身体が弱いとはいえ、以前はそこまで症状が出るような虚弱さではなかったはずだ。

 他にも本当に頭痛や腹痛や嘔気がして、どうしても教室に入れない。そして自宅へ戻る、ということが続いた。

 母親が心配するので何とか学校へ行きたい気持ちはあったが、ロッカーのスリッパがなくなっていたり、「学校来るな」「死ね」という紙が入っていたりするようになり、階段から先に行けない誠を通りすがりに見ていくクラスメイトの目は冷たかった。

 毎朝時間通りに家を出ても、どうしても教室に辿り着けないまま帰宅してしまうことが一週間も続けば、母親もさすがに精神的な負担が増したのか、「もう学校行かなくてもいいよ」と言うようになった。全然嬉しくない言葉だった。

 かと言って、「もっと頑張って」「お願いだから学校に行って」などと言われていれば、今度は誠の精神が負担に耐えきれなくなっていただろう。お母さん、ごめんね、ごめんね、と泣きながら母子は抱き合って抱き崩れた。そして母親が「息子は学校に行けません」と電話をしてくれた。

 しばらくは自宅で教科書を読んだりして、誠はいつかまた登校できるようになったら授業についていけるようにと自宅学習をしていた。そこへ学校から呼び出しの電話が掛かってくる。都合の良い時でいいので、今後の話し合いをしましょう、というものだった。

 それが保健室登校の提案だった。保健室は一階にある。校門をくぐるところまではできるという誠だったので、階段を上って教室に行けなくても、一階の保健室に来るならできそうではないか、と訊かれた。誠は薄ぼんやりしながら少し首を傾げ、頷いたのか俯いたのかよくわからない反応をした。

「野宮くん、来週から先生と保健室で勉強しましょう」

 綾子が輝くような微笑みで声を掛ける。本来保健室では授業はしないが、教科書を読むなどの行為は自由だ。綾子が心理カウンセラーの資格を持っているのを知っている教頭は、そちらのアプローチで何とか教室まで行けるようにできれば、という期待もあったのだろう。

「野宮くん、来れそうかい?」

 普段はガミガミ口うるさい教頭が、バーコード頭を撫で付けてその手を揉みながら誠に気持ちの悪い笑顔を見せた。普段から眉間にシワを寄せ、口は怒鳴ってばかりいるので、優しい顔になるための顔面の筋肉が硬直しているようだ。そのせいか、教頭は生徒にかなり嫌われている。

「……多分……」

 さすがにここですぐに「はい」と明瞭な返答はできなかった。しばらく校門もくぐっていないので、保健室まで行けるかどうかも不安だった。しかし、大好きな吉野先生と勉強ができるなら、そしてまた保健室に通ってもいいのなら、頑張れそうな気がした。

「まぁ、来週から頑張ってみてください。先生は待っていますよ」

 綾子の代わりに教頭が何か偉そうに付け加えて、長時間の外出は母親の負担になるからと、二人は自宅まで歩いて帰った。タクシーを呼べるようなお金はない。自宅が学校からそう遠くないのは幸いだった。

 家に着くと、玄関で母親が座り込んでしまった。身体も心も疲れたのだろう。普段しないメイクをしていったが、それでも肌が青白く見える。誠は母親のパンプスを脱がせ、手を繋いで一緒に立ち上がらせた。

「ごめんね誠。お母さんすぐ疲れちゃって」

「いいんだよ。僕が学校に行けないのが悪いんだから」

「誠は悪くないわ。保健室登校も、無理しなくてもいいのよ」

「うん、わかった。でも僕、頑張るよ」

「ありがとうね」

 母親はウェットティッシュタイプのメイク落としでファンデーションを落とし、目元と口元も拭った。薄化粧なのでそれで十分だった。小学校の入学式の時からずっと同じものを着ているフォーマルスーツを脱いで、家の中用のゆったりした部屋具に着替えた。

「お母さん、もう寝てていいよ。お腹すいた? おかゆ作ろうか?」

「ありがとう。大丈夫よ。お腹は空いてないから、ちょっと横になるわね」

「わかった。おやすみ」

「おやすみなさい」

 それで誠は自分の分だけささやかにおかゆを作って食べた。米を炊くよりも、お粥の方が使う米が少なくて済むと知ってから、母親だけでなく自分も好んで食べるようになった。おかずなどないので、やや塩味を強くする。

 使った鍋と食器を洗って、誠も寝ようと思った。来週からはまた学校だ。吉野先生のところに行くだけだから大丈夫、何も怖くない……そう自分に言い聞かせながら、疲れた身体を引きずって狭いリビングの端に敷いた布団で眠った。

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