〈居場所なんてない〉最終話

 翌朝は何度も「くそっ」という言葉を弱々しく吐くことになった。朝食のための米を炊き忘れた。昨夜の刺し身の空き容器に虫がたかっていた。明け方から降っていたらしい雨のせいで、あちこちの床が雨漏りで濡れていた。何もする前から気分が萎える。

 しかし、十時を回った頃にはスマホを片手に、さらに「畜生」「ああもう」と嘆き声漏らすことになる。メモしたアルバイト募集のあて先に電話を掛けたが、既に採用者が決まったとか、求人掲載期間は昨日で終了したとか、年齢が、居住地が、などのさまざまな理由で、話はスタート地点にすら立てなかった。

 ネットの求人は鮮度が売りなのだ。見てすぐに電話をするくらいでなければ、他者にその空き枠を攫われる。しかしそんなことは徳次の知り得ぬことだった。紙の広告と同じようにしか考えておらず、だからすべての募集先から断られた。

 たった一件当たればいいだけの勝負に、全敗してしまった。徳次は何が悪いのかわからない。年齢はまだ現役で通じると思っていたし、居住地が勤務地から車で一時間かかるということの何がいけないのか。昨日見た広告に今日電話して、どうしてもう採用者が決まっているのか。理不尽だと感じるしかなかった。誰もその理由など教えてはくれない。徳次も問わなかった。

 サラリーマン時代から、言われた仕事しかできない要領の悪さが目立っていたが、古い時代の人間なので、首を切られる不安はまったくなかった。だから注意されればそこだけしか直さない。何故ミスをしたのかがわかっていないし、そもそもどこが悪いのかも理解できないこともあったせいで、何度も同じ間違いをしては怒鳴られた。そして頭を下げ、謝罪し続けた。

 頭を下げることは徳次の処世術のようになっていたが、それでうまく社会を渡れていると思っていたのは自分だけだ。周囲が何も言わないのは、徳次が良くなったからではなく、呆れて何も言えなくなっていただけだった。それを親切に教えてくれる上司も同僚もいない。だから会社での徳次の居場所は、どんどん狭くなっていった。

 さすがに自分の居場所が窓際に追いやられていることには気付いた。随分遅くになってからだったが、それでもまだ早期退職を希望できる程度には間に合った。徳次にしてはそれは上出来と言える判断だったのだ。そしてこの集落へ来た。新しい人生が始まるはずだった。

 ある日目が覚めると記憶が混濁し、自分は疲れているのだろうと思った。誰に聞いたわけでもない〈おもいで屋〉という屋号のようなものだけが記憶の端に引っ掛かっている。そんな奇妙な話があるものかと思い、しっかりと現実を見てきたはずだった。

 なのにどうだろう。貯金はあっという間に巻き上げられるように底を突き、田んぼもおじゃんになり、野菜も死んだ。今日明日の心配もしなければならないのに、仕事が見つからない。近隣住民は、礼儀を尽くして笑顔で挨拶をする徳次を何故か気に入らないようだし、無意味に不親切だ。

 第二の人生、と意気込んでこの地に根を下ろすと決めたはずだった。自分とは縁もゆかりもない集落だったが、土地付きの安い空き家を買い、余生をゆっくりと充実させるはずだった。別にどこでも良かった。自分の居場所が欲しかっただけなのだ。

 ふぅと溜息をつき、雨の強くなってきた外を見やる。もう今年は田んぼの心配は不要だ。何しろ台風のせいですべて失ってしまったのだから。しかし仕事は必要だ。また今日もスマホで求人を探す一日になるのだろうか。そうして明日も明後日も仕事探しをし、月日だけが流れていきそうな気がした。

 その時の徳次は知らなかった。再び新たな台風が発生し、この集落に近付いていることに。近隣の田んぼの周辺に土嚢が積まれているのも、見えてはいたが意味を考えるに至らなかった。視界に入っただけで、意識には残らない。

 そうしてまた徳次はスマホのブラウザを開いて、昨日と同じ作業をする。迂遠なやり方で求人している会社を探す。自分を必要としてくれる居場所を探す。


 近くの河川が氾濫したらしい。相変わらずテレビが砂嵐しか映さないので、徳次はスマホで情報を得た。近くと言っても徒歩圏内ではないし、この土地の方が川より上にある。そう思って安心していたが、じわじわと家の中に水が入ってきた時には、生きた心地がしなかった。

 幸い、古い家なので土間があり、地域の特性上、人の居住部分は一段高く作られている。畳までは浸水せずに済んだ。そこで初めて、近隣の家の土嚢の意味に気付く。彼らはとっくにこうなる気象を想定していたのだ。毎年台風が一つで済むはずがない。東京にいた時でさえ、首都直撃台風に見舞われたこともあったのだから。

 この集落は大抵の台風の通り道になっているとは知っていた。仲介業者に聞いていたのだ。しかし、東京の台風しか知らない徳次は、田舎の弱さと強さを舐めていた。台風に何度もやられてきたからこそ、彼らはさまざまな方法を編み出しては対抗してきた。

 ふらりと徳次は立ち上がる。窓からは、打ち付ける雨のせいで何も見えない。ただ、それほどの豪雨なのだということは理解できた。今回はもう近隣住民に迷惑を掛けることはないと思った。ビニールハウスは飛ばされたままだし、剥がれた壁板も自宅の方の修繕費までは出せなかった。

 そこでふと気付く。瓦だ。屋根瓦。それが飛んでいって、またせっかく新しくしたよそのビニールハウスを突き破ったら。窓ガラスを割ってしまったら。今度こそもう、弁償する金はない。貯蓄は底を突いたし、仕事も見つからないし、解約できる保険もない。

 慌てて徳次は外に出た。つっかけを引っ掛けてガタガタいう玄関を開ける。ものすごい風が入ってきて、台所のゴミが部屋の中へ吹き飛ばされるが気にしていられない。音を立てて玄関を閉め、ほとんど何も見えない外へ出た。屋根を見上げても雨が目に入り、どうなっているのかわからない。

 徳次はたまたま寝かせてあった脚立を広げて、盲目的な視野の中で屋根に掛けた。足場には水が溜まって足の甲まで濡れたがどうでもいい。とにかく屋根瓦を全部剥いでしまわなければ、風で飛ばされてしまう。

 遠くで鳴る雷の唸り声が聞こえた。それでも脚立に上って屋根を目指す。屋根瓦が重い。これがいとも簡単に飛ばされるのがここらを直撃する台風なのだ。手当り次第、剥がして下に落とす。よじ登ってもっと上の瓦も剥がしては落とす。それを続けた。おかげで自宅の屋根を守るはずの瓦がすべて剥がされてしまった。それでも、よそに迷惑を掛けて金を請求されるよりはマシだと思った。もともと雨漏りの酷い家なのだ。

 瓦の禿げた屋根は無様だった。しかし、落とした瓦をまとめなければならない。徳次は急いで脚立に足を掛けた。勢いが付きすぎていた。まるで蹴り込むように上から三段目あたりに足を置く。そのまま脚立はバランスを崩す。

 結果から考えれば、雨でぬかるんだ地面に叩きつけられた方がマシだったのだ。しかし徳次は都会の建設現場の足場から落下して死亡した事故などを思い出した。だから、脚立にしがみつくのをやめてしまった。自ら脚立を振り捨て、ヒーローでもないのに自力で着地しようと試みた。

 畑仕事を運動代わりと考えている、メタボ体型のオヤジである。そんな理想の想像通りに着地できるわけがなかった。無様に脚立に足を取られ、頭が下になった。そしてそのまま落下。

 田舎の平屋建て程度の高さ、若者ならそう酷い傷を負わずに済んだかも知れない。しかし徳次は何の取り柄もない、要領の悪いオヤジにすぎない。

 想像していたのとはまったく違う方法で着地した。自分の頭蓋骨が乱雑に落とした屋根瓦の山に突っ込む。両方の割れる音が聞こえたが、そのまま徳次は意識を失った。

 台風の暴風雨の中、近隣住民に気付かれることもなかった。誰にも迷惑は掛けていないはずだった。


                           居場所なんてない〈了〉

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