〈居場所なんてない〉第5話
手元に集まってきた請求書の金額を見て、徳次は青くなった。とても手持ちの貯蓄だけでは足りそうにないと、まだ十枚足らずを見て予測できた。その時点で既に限界に近付いている。
農協の偉いさんの田んぼから大きなビニールを取り除くだけで、数十万掛かっているのを見た時はめまいがした。隣家に刺さった杭の修繕で百万円ほどだと考えると、たかがビニールを取り除くだけで数十万は高すぎはしないだろうか?
しかし回された請求書の金額をただ素直に支払えば、今後もここで平和的に生きていけるはずだと思い、とにかく請求書が集まると都会に出て銀行振込をした。いつ終わるかもわからない工事と、貯金残高を見比べてヒヤヒヤしたが、まるで徳次の貯蓄額を知っていたかのようにほとんど底をつく寸前で工事は終わった。同時に支払いも終える。本当にギリギリだった。
「工事完了だとよ」
胡麻塩頭の男が、これ以上の請求書は回ってこないと言いに来てくれた。膝から崩れ落ちそうになりながらもぐっと耐え、徳次は深々と頭を下げた。
「この度は本当にご迷惑をお掛けしました」
「もう二度とごめんだからな。あんた、まだここに住み続けるつもりならもっとよく考えた方がいいぞ」
「はい」
何をどう考えればいいのかもわからず、無責任に返事をする。これもサラリーマン時代からの癖だ。そして何もわかっていないので、同じ失敗を繰り返してさらに周囲の怒りを買う。それでもこの歳になると、改善のしようもなかった。誰も、何も教えてくれない。
「あとは自分の田んぼは自分で何とかしてくれよ。わしらはわしらの環境を元に戻しただけじゃ。あんたんとこの田んぼまでは知らんよ」
「はい」
「言っておくが、二度とプラスチックのビニールハウスなんか建てるんじゃねぇぞ」
「はい、すみません」
定型的な謝罪に相手も呆れたようで、「後はもう知らん」と言って帰っていった。
後は、とは何だろう。そう思って外を見る。
隣家の壁はどことなく全体的にキレイになっていて、いくつかの家のビニールハウスを破った犯人たる徳次の家の屋根瓦は、田んぼの隅に積まれていた。新しく張られたビニールも、心なしかいいものになっている気がするが、ほとんど素人の徳次にはただ新しくなったせいで見え方が違うだけなのかも知れない。
農協の偉いさんの田んぼの稲はしっかりと立ち、まるで飛ばされたビニールに守られていて無事だったかのようだった。
結局他の農家の稲は土嚢などの対策を怠らなかったおかげで、大半は商品になりそうだった。一方で徳次の田んぼは全滅である、ビニールハウスで順調に育てていた野菜もダメになってしまったし、ホームセンターの安物ではない、業者を呼んで建てるビニールハウスには、予算的に手が出せそうになかった。
せめて自分が食べていけるだけの収穫でいい、と考えていたのに、それももう叶わない。泥まみれの稲を抜いてゴミ袋に詰め、実りかけていた野菜も何とか食べられそうなサイズのものだけをもいで、他は捨てた。ゴミになった稲穂と野菜は庭で灰と煙になった。
「何で俺だけ……」
徳次は燃え盛る炎を見つめながら溜息をつく。ついでに台所の脇に溜め込んでいた惣菜や弁当の空き容器も火にくべた。こんな場所で有毒ガスがどうのとは言われないだろうし、最近のスーパーの袋には「燃やしても有害物質は出ません」と書いてある。それならいいだろうと、次々に溜まったゴミを一緒に処分した。
また誰かが文句を言って来ないかと火のにおいを嗅いでみたが、特に異臭はしなかったので問題なさそうだ。
しかしこの先どうすればいいだろう。来年の分の食い扶持と考えていた米は収穫できなくなったし、ビニールハウスを建てなければ無農薬野菜は作れない。しかしまた苗から育てなから一年もスーパーの食料で暮らすには、貯金の残高が少なすぎた。もう百万円も残っていない。どんなに慎ましく生活をしても、自炊くらいしなければ、と徳次は思った。幸い、田舎の物価は安い。
早速今日からとばかりに車を出し、一時間掛けていつもの大型スーパーに行く。まずは精米を十キロ買った。米が炊けるだけでいいからと、さまざまな便利さやメリットを説明してくる家電量販店の店員に言って、一番安い炊飯器を買った。それでも三万円はした。徳次にはそれが値段相応なのかわからなかったが、確かに他に並んでいるものの中では一番安かった。
普段は行かない食品コーナーの生鮮コーナーへ足を向ける。葉物は炒めれば大抵食べられるだろう。日持ちしそうにないものは飛ばし、冷凍うどんや冷凍チャーハンなども買った。電子レンジはなかったが、うどんはお湯で戻せるし、チャーハンはフライパン調理もできるとあったので、無駄な出費はせずに済んだ。
また長い道のりを超えて家に戻ると、自分の家に人がいるのに気付いた。請求書がまだ残っていたのだろうか? こんなに買い物をしてから言われても、もう出せない。
ヒヤヒヤしながら車でゆっくり近付いていくと、胡麻塩頭の男が真っ先に徳次を見つけた。指を差して他の連中に何か言っている。徳次は車を停めて運転席のドアを開けた。途端にまたあの怒鳴り声が聞こえた。
「てめぇは常識がわからねぇのか!?」
突然そう言われた。サラリーマン時代から言われてきた言葉だ。
「どうされたんですか?」
「あのねぇ、非常識もいい加減にしてちょうだいよ。庭で火を起こしたまま留守にするなんて、何考えてるのかしら、もう」
「あっ」
庭でゴミを燃やしていたのを思い出した。そこで考え事をしていたので、そのまま買い物に出てしまったのだ。まさかまた誰かに迷惑を掛けてお金を取られるのでは……そんなことばかりを考えてしまう。
「煙が上がってるから驚いて見に来たはいいものの、肝心の家主がいないんじゃ、不用心もいいところでしょう」
「こっちまで火事に巻き込まれたら、今度こそ金だけじゃ済まさねぇぞ。火は消しておいたが、もっと周囲の住人のことも考えて行動しろ。てめぇはいい歳こいて本当に常識を身に着けておらんのか」
「……すみません……」
「謝ることしかできねぇんなら、よそへ行ってくれよ! もうあんたの迷惑にはうんざりしてるんだ」
「……すみ……ません……」
謝ることしかできないのは事実だったので、やはりそうするしかできない。もちろん、火を消してくれていなかったら大事(おおごと)になっていたかもしれないし、謝る前に感謝すべきだった。しかし、長年の癖でつい謝罪ばかりになってしまう。
「どうもありがとうございました。これからは気を付けますので」
「本当にいい加減にしてちょうだいね!」
ぞろぞろと周辺住民は自宅へ戻っていった。庭にはまだ燃え切っていないゴミが細く煙を出している。乾燥したダンボールに火を付けて、徳次はまたゴミを燃やす作業を再開した。目を離さないように注意しながら、買ってきたものを家の中に入れる。
ちょうど昼食にしたい時間だったので、家の中からフライパンを持って来て、そこに冷凍チャーハンを広げた。ゴミを燃やすだけ火では火力が足りず、いつまでも冷凍のままだったが、徐々に解凍されてくる。木杓子でゆっくり混ぜ、途中で何度も温まったかどうかを確認しては冷たい部分をゴリと噛んだ。
火が消えるか徳次の忍耐が切れるかの勝負だったが、タッチの差で徳次の方が勝った。何とか食べられる程度には解凍されて温まったので、木杓子をスプーンに持ち替えてフライパンのまま食う。火はそっと消えた。
冷凍チャーハンは一度調理してあるので、たとえ肉が冷たかろうが気にしない。食えればいいのだ、食べ物なんて。餓死しない程度に食べ、水分を取っていれば、次の収穫の時からは必ず自給自足できるはずだと信じた。
最近は記憶の二重写しも見えなくなった。多分、意識して無視しているからだろう。あるはずのない妻子との思い出のような夢は、いつも愛してもいないミエと彼女に似た男女の子供だった。自分に似た点などどこにも見えない。それは性格や物事の処し方からしてそうだった。
だからあれはただの妄想だ。立て続けに心細くなるトラブルが続いたから、唯一昔の恋人と呼べるミエとの関係を発展させるより仕方ない。徳次にはそれ以上の想像力がないのだ。
しかし、こちらに移ってきてからは悠々自適にやりたいことだけをやって生きてきた。会社の駒でもなく、邪魔な家族でもなく、五十五歳の一人の初老の男性として、昔からの夢をやっと叶えたと思っていた。
しかし現実は容赦ない。近所付き合いなどしたことのない徳次は、田舎の集落という、ただでさえよそ者に厳しい場所に知らず我が身を置いた。そこで値踏みされるように眺められ、どうせすぐに音を上げるというラベルを貼られた。ところがそれ以上のトラブルメーカーになってしまった。
一度やらかしてしまった失敗から信頼を取り戻すのは難しい。それはどんな社会においてもそうだ。企業に属していようが、個人経営をしていようが、趣味で農家をしていようが、平等に白い目で見られる。
そして徳次はいつもその理由に思い至れない。だから空っぽな謝罪しかできず、火に油を注ぐように相手の怒りを酷くしてしまう。果ては呆れられ、「もういい」と言われ、無視される。「もういい」の意味を徳次が許されたと履き違えて、さらにややこしいことになることもあった。
「おたくの社員はちゃんと教育をしているんですか?」
そんなクレームも聞かされた。徳次は、そう言えばろくに研修も教育もなかったなぁと思う。上司が求めているのは当然そんなわかりきった回答ではない。そこでも呆れ返った上司に「もういい」と言われる。徳次の思っているのとは違う意味で。
思えば学生時代から友人と呼べるほどの相手がいなかった。誰にでも合わせる性格なので、本来なら敵を作る性格でもないのだが、ぼんやりした頭と奇妙に前向きな楽天家だったため、周囲には「常識がない」とか「わけがわからない」といった評価をされていた。異性には「気持ち悪い」とさえ言われていたことを、しかし徳次は知らない。
周囲からの評価を何も知らないまま、もしくは勘違いしたまま、彼は大人になり、会社員になった。普通ならどこかで誰かが軌道修正してくれたりするものだが、徳次の場合はその機会に恵まれなかった。
両親は優しくて穏やかな人だったから、母親は「徳次は優しい子ね」と言ったし、父親は「むやみに手を挙げないのは偉いぞ」と言った。単純に徳次の気が弱くて、口喧嘩さえできないことを知らなかったのだ。その点では両親にも育成責任はあると言えるが、その二人ももう存命していないし、徳次も親に尻拭いをされる歳でもない。
火の始末をしっかりしてから、新しく買った炊飯器を箱から取り出した。また小さな文字の取扱説明書があったが、こればかりは書店に行っても『わかりやすい炊飯器の使い方』などという図解式の本など見当たるまい。仕方なく老眼鏡を取り出して掛けた。「はじめに」や「この箱に入っているもの」という部分は軽く読み飛ばす。そんなもの、入っていて当たり前だからだ。何のために日本製を買ったと思っているのだ、と徳次はペラペラめくって「お米の炊き方」という項目を見つける。
米を洗って線まで水を入れ、「炊飯」ボタンを押せば数十分でできるという、昔使ったことのあるものと基本構造は変わっていないようだった。ただ、釜の内側にはあらゆる面に別々の線が引かれてあった。おこわ、おかゆ、白米。そうか、白米の線に合わせればいいのかと勝手に納得した徳次は、早速米袋を開けて一合分洗う。
釜に直接入れて洗うものだから、白く濁った水を流すたびに少量の米が溢れた。しかし気にせず二度三度と繰り返し、濁りがなくなるまで洗った。そして一合のところまで水を入れる。コンセントを台所の下の方に見つけ、そこにつないで炊飯ボタンを押した。あとは雑用をこなしている間に炊けているだろう。
買ってきたものを収めるべきところに収納し、燃やしてスッキリした台所周りも片付ける。ずっと立て掛けてあった大きな木製のテーブルを広い畳の部屋に置き、寝る時に枕代わりにしている座布団を広げて置いた。何となくそれらしくなった気がした。
今日食べる用に、生鮮食品売り場で小さな刺し身のパックを買った。二十パーセントオフになっていたので、今晩の食事にしようと思ったのだ。山の中で暮らしていると、時々無性に魚や肉が食べたくなる。他の住人はもっと高齢だから、葉物野菜だけでやっていけるのかも知れないが、徳次はまだまだ五十代だ。肉体労働もできるし、実際田んぼの仕事はそうだった。
肉は高価で手が出なかったので、台風が去り請求書の嵐も収まったところで、自分を労おうと思った。刺し身は十分なご褒美だった。
次の苗を植える時期まで、特にやることがないと感じた徳次は、何か収入源を探さなければと考えた。買い物に行った時に求人誌でも買えば良かったのだが、今ならスマホで調べられる。その方法もだいぶわかってきた。
検索窓に「求人」と入力して実行ボタンを押すと、目がチカチカするくらいの量の求人サイトがヒットした。中には広告もありややこしい。しかし徳次は老眼鏡を掛けた目でじっくり読んでいった。
トラック運転手、タクシー運転手、バス運転手は免許がないので却下。工場仕事は年齢制限があるものとないものがあったので、可能なものだけメモしておく。スーパーの品出しの仕事なら、消費期限切れの野菜などがもらえたりしないだろうかと考え、それもメモした。消費期限切れで廃棄予定の弁当を、高校時代のアルバイトでの夕食にしていたので、コンビニの雇われ店長の仕事も追加する。
ピピッ、ピピッ、と炊飯器が米が炊けたことを知らせる音で、徳次はスマホから目を離す。思ったより集中していたようで、老眼鏡を掛けた目が乾いて潤いを欲していることに気付くが、目薬などはない。スマホを置いて立ち上がり、台所で顔を洗ったついでに目を洗って代わりにした。
冷蔵庫から刺し身を取り出し、醤油とわさびを小皿に入れる。そして欠けた茶碗を持って炊飯器を開けると、おかゆとまでは言わないが、何かべっちゃりとした水っぽい白米が炊き上がっていた。米を洗った時にたくさん零したのに、水はきっちり目盛りまで入れたせいだろう。
徳次は思わず出鼻を挫かれたように感じで舌打ちをしたが、米は米だ。食べられないことはない。炊きたてのふんわりした白米と刺し身の夕飯を思い描いていたせいで、期待を裏切られた反動は大きかったが、無駄にするわけにもいかないので茶碗によそってテーブルに運んだ。
妙にべちゃべちゃした飯だったが、味はまともだ。刺し身の美味さが引き立つとは言えないが、次からは水を少なめにしようと思い直して食事を終える。
スマホを見ながらメモした紙には、時間を掛けたわりにはわずかな候補しか連絡先が記されていない。やはり何の資格も持たず、これまでの経験や実績もなく、年齢も定年間近となれば、いくら正社員ではないといえども制限は大きかった。
それでも、この中から一件当たりを引けばいい。そうすれば、自分一人が食べていく程度のことは難しくはないのだ。どんな仕事でもいい。これまでさんざん媚びへつらい、プライドなどないものとして頭を下げる日々をこなしてきたのだ。多少身体がキツかろうと、人間関係が悪かろうと、金さえ得られればいい。本来仕事とはそういうもののはずだ。労働に見合った分だけ金を受け取る社会の仕組みでしかない。
古い柱時計に目をやる。さすがにアルバイト募集の応募の電話を掛ける時間ではなかった。コンビニなどもこの周辺では二十四時間営業ではないのだ。明日の午前中にまとめて電話をしようと考え、その日はもう休むことにした。いろいろあった。それでも、生きていくには働くしかない。
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