〈居場所なんてない〉第3話

 風が涼しい。雨が降るとあちこちから雨漏りする古い家だが、夏はよく風を通してくれる。今何時だ、と思って壁を見ると、驚くほどボロい家に寝ていることに気付いた。

「はあっ!?」

 裏返った声を上げて徳次は起き上がる。身体に掛けていた大判のバスタオルがバサリと音をたてた。

「何だぁ、こりゃ……」

 自分の知っている3LDKの我が家──いや、妻子の家ではなかった。

 いや? 自分に妻子などいただろうか? 結婚を考えた女性はいたが、結局価値観の大きな違いに気付いて、婚約に至らなかったことはあるが……。

 おかしい。記憶が二重にある。そのどちらが現実かは一目瞭然だが、実際最近までサラリーマン勤めをしてはいたのだ。しかし早期退職を募っていたため、徳次は真っ先に挙手した。そして長年憧れていた地方での田舎暮らしを初めた。それから数ヶ月は経っている気がするが、つい昨日まで会社に通っていたような錯覚もあった。

 ──〈おもいで屋〉。

 そんな単語が脳裏をかすめる。まさかな、と思いつつも、サラリーマン時代によく行った立ち飲み屋の店主が、ちらりとそんなことを聞かせたくれたこともあったっけ。

 いやでも、このボロ屋と外に広がる田んぼは、間違いなく自分が貯めた金で買ったものだ。

 時計の下にピンで留めたカレンダーを見る。昨日の続きが今日で間違いない。外を見ると、稲が順調に育っているのが見える。初めてにしては良い出来だろう。

 縁側からつっかけを引っ掛けて外に出て伸びをする。都会より随分空気が良い。ここでなら長生きできそうな気がするな、と少し口元がほころぶ。塀の向こうを知った顔の老人が歩いていくのが見えた。農協の偉い人だ。徳次は声を張って挨拶をする。

「おはようございます!」

 老人はその声にちらりと徳次を見たが、言葉でも仕草でも何も返さず、視線を逸らして歩き去ってしまった。また今日もだめか。

 徳次はここに引っ越してきた時、近隣の、とは言え一軒一軒の家に距離があるが、行ける範囲のご近所さんを車で回って挨拶をした。挨拶はサラリーマン時代から毎日ペコペコと頭を下げ続けてきたため、失礼はなかったと思う。しかし、この集落の誰も家の中までは入れてくれず、玄関で自己紹介する徳次を「ああ、はいはい」と適当に追い返した。

 田舎の集落だから、東京から来たという時点で警戒されているのかも知れない。どうせすぐに音を上げて戻っていくと思われていたのかも知れない。そう考えて、徳次はこれでも農家の息子だったんだぞ、と気合を入れて米を栽培し初めた。誰に聞くでもなく、車で一時間はかかる街中まで出て書店で農業についての本を買い漁り、我流に近いやり方で苗を育てた。

 まだ米の栽培を初めて数ヶ月だ。その間、会社に行っていた記憶がこんがらがったりして、今日初めてこのボロ屋で目を覚ましたような錯覚があったが、そんなはずはないだろう。稲の育ち具合が、徳次がその分の長さだけここで過ごしたことを証明している。

 東京にいた頃は、会社から労働時間外の理不尽な呼び出しをされる時にしか鳴らなかった携帯電話を持っていたが、ここに来る際に解約した。どうせ電波も入らないと思ったのだ。しかし現実は意外に便利になっているようで、この周辺の農家はタブレットで天気予報を見て、台風が近付くとか、急に気温が上下するとかいう情報には強かった。

 そこで徳次も都会まで車を走らせ、スマートホンを購入することにした。店で自分のしたいことを伝えると、タブレットよりも電話の機能を備えたスマートホンの方が、万一の時に便利だろうと勧められたのだ。

 確かに、都会に出るまでには一本しか通り道がないし、そこが山崩れや落石で通行止めになると、集落が取り残されてしまう。そんな時は電話が必須だ。電気が断たれたら使えなくなる家の電話より、充電しておけばいつでも使えるスマートホンは理に適っていると思った。

 老眼なので、画面のなるべく大きい機種にし、店員に文字も最大に設定してもらった。薄い説明書が付いていたが、文字が小さく読む気にならないので、書店で『五十歳からのはじめてのスマホ』という図入りでわかりやすそうな本も買った。

 スマホを持って既に数ヶ月になるが、まるで今日初めて触ったかのように馴染まない。使い方もさっぱり覚えていないし、もう一度本を取り出して悪戦苦闘した結果、空腹で腹が鳴ったのをきっかけに時間を見ると、もう午後だった。

 一応、最低限の使い方は覚えられたが、またあとで読み返そうと思い、徳次は着替えて玄関で靴を履いた。そしてふと思い出す。徒歩で行ける範囲にコンビニなどなかったことに。まるで毎日当たり前のようにコンビニを使っていたから、今日も何気なく昼食になりそうなものを探そうと思ったが、それは無理な話だった。コンビニもスーパーも、車がないと行けない。

 都会暮らしの癖が抜けないな、と特に気にも留めず、徳次は車の鍵と財布を持った。そして、中古で買ったワンボックスタイプの軽自動車に乗り込む。また数日分の食料や日用品を買ってこなければ。

 今は比較的稲が安定しているので、目視で田んぼに異常がないかを確認し、車を出した。走ること一時間強。やっと大型スーパーの看板が見えてくる。自炊は面倒なので、日持ちしそうな惣菜やカップ麺などを買った。あとは下着を二枚と長靴を一組。

 スマホではまだ天気が荒れるという情報はなかったので、特に災害用の何かを買うわけでもなかった。サイドドアから買った商品を後部座席に置き、軽油を入れて家に戻る。ディーゼルカーなので燃料代はそこまで高くはないが、車を使う頻度と距離が半端ではないため、こまめな給油は欠かせない。

 帰宅して車に積んだ荷物を玄関に運んでいる最中に、一応隣に住んでいる、自分より若い夫婦に出会った。徳次はまた声を張って挨拶をするが、まるで聞こえていないかのようにおしゃべりをしながら去って行った。

 田舎でも若者は礼儀を知らないな──などと思いながらも、ここでは自分が一番の後輩なので、なるべく人間関係を円滑にしたかった。挨拶を無視されたくらいで怒っていては、この先やっていけまい。もともと徳次は気性の荒い性格ではないので、すぐに気持ちを切り替えて荷物の搬入を再開した。

 何だか奇妙だな、と感覚的に思うのだが、どこがどう、とははっきり言葉にできない。もともとそういうことは苦手だったし、口下手で思考力もそう高くない徳次は、昼飯をぼそぼそと食べながら、自分の田んぼの稲を眺めていた。隣のビニールハウスでは野菜を育てている。当然無農薬だ。憧れだった。

 そうやって、難しい問題があってもすぐに棚上上げする癖は、もう抜けない。かつて交際していたミエという女性と結婚して男女の子供を授かった気もするが、結婚もせず地味な暮らしで小銭を貯めていたからやっとここまでこれたという事実もある。

 あの時結婚していれば……そんな気持ちは微塵もないが、心のどこかで引っ掛かっていたのだろうか? 自分のことなのにまるで他人事のように遠く、遥か昔の話なのに昨日まで一緒にいた気もする。

 もう一度古ぼけた柱時計の下に留めたカレンダーに目をやった。確かに昨日と今日は繋がっているし、近隣の農家との付き合いというか、一方的な挨拶も毎日続けてきた。決して昨日今日にここへやってきたわけではないのだ。

 徳次は難しいことをさらに難しく考えるのをやめ、プラスチック容器をビニールにまとめて口を縛る。それを台所の端に山になっている同じような袋の上に投げ、ビニールハウスに足を向けた。

 ここではナスとキュウリとトマトを育てている。一番育てやすそうだったし、自分の食料としても便利だったからだ。内臓脂肪と皮下脂肪で固まった腹回りを健康体に戻すためにも、ここでの生活は良いと思っていた。だが、数ヶ月経っても一向に体型が変わる気配がない。毎日のように出来合いの惣菜やカップ麺を食べていれば当たり前なのだが、徳次は気付かなかった。

「まったく、ぼさっとしてる暇があったら何か役に立ちなさいよ!」

 幻聴のようにミエの甲高い声が脳内によみがえった。付き合っていた頃、気の利いたデートもできず、喫茶店で会社の話という体の愚痴を零した時のことだ。自分の味方をしてくれるかと思っていたら、上司とほぼ同じ言葉を浴びせられたので驚愕したのを覚えている。

 返す言葉もなく呆気にとられていると、「だいたいあなたは──」と説教までされてしまった。あの頃はまだミエの言うことにも説得力と根拠があり、なるほどと聞き入れていた。

 ──あの頃は?

 あの頃以外にミエとの関わりはない。一年も付き合いは続かずに、向こうから愛想を尽かされた。徳次も価値観が合わないと感じていたから、周囲の人間には「捨ててやった」などと尊大に言いふらした。それまでは、結婚する気持ちでいたから、周囲の誰もが憐れみの目で徳次を見たが、自分では騙せているつもりでいた。

 何故かミエと一緒に暮らした映像が脳裏に明確に映る。そんなに好きな相手だったのだろうか。別れてからもう三十年近く経つというのに。子供を授かった幻覚まで見るなんて、ここに一人で数ヶ月もいる間に、無性に人恋しくなったのだろうか。

 徳次が交際したことのある異性はミエだけだったから、余計に記憶に明確なのかも知れない。他の誰かと混同することはないし、時期も思い出せる。それでももう一度彼女と出会いたいとは思えない。それなのに、何故思い出すのは彼女のことばかりなのだろう。

 他に時折よぎる思い出は、サラリーマン時代の冴えない自分ばかりだからだろうか? 年下の上司に頭を下げ、ある時突然一人の席に一台のパソコンが設置されてからは、他の年上の人間も何とか部下に教えてもらい、書類の作成などに利用するようになった。

 徳次は何度教えられても、メモした紙を見ても、きちんと理解できなかった。それでも書類作成までは何度も修正を重ねながら作れるようになった。が、そこまでだ。社内データの共有、顧客データのデータベース化などと聞き慣れない言葉が当然のように社内を行き来するようになると、完全に取り残された。徳次の席のパソコンだけが他に回され、アナログでもできる少量の仕事しか回ってこなくなった。

「ふん」

 くだらない思い出を回想していることに気付き、徳次は鼻を鳴らした。今さらもう終わったことだ。外資系に親会社が買い取られて、外国の変な習慣に馴染まされようと無理強いされていたのだ。そう思うことで、徳次は自分の無力さをよそへ置く。

 今は自分で稲や野菜を育てている。まだ一年経たないので、今は出来合いの食事しかしていないが、米が収穫できれば自給自足ができる。売って生計を立てようとは思っていない。自分一人がのんびりと食っていけるだけの収穫があればいいのだ。金ならまだ残っているし、早期退職した分の退職金もある。

 すべてを合わせても一千万円には届かない貯蓄額だが、田舎の物価は東京ほど高くないし、一人で慎ましく暮らす分には問題ないと高をくくっていた。

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