〈居場所なんてない〉第2話
ようやく安月給が手に入り、はした金の小遣いが渡された。やっともう一つの隠れた居場所である、立ち飲み屋に行ける。別に自分のための座席があるわけではないが、そこは定年退職をした六十代初めの白髪の大男のオヤジさんのやっている店で、酒の種類もつまみの量も多くはないが、おでんとうどんがとびきりにうまい。そして、道楽でやっているせいか、値段が破格なのも嬉しいポイントだった。
相変わらず定時退社をした徳次が安心して身を寄せられる、数少ない聖域のような場所だった。暖簾をくぐると、どこか懐かしいうどん出汁の匂いがする。一人なので一番隅に場所を取り、「ビール」というとすぐによく冷えたジョッキが目の前に置かれた。
ここの店主は寡黙で、他の客が話し掛けているのを見たことがあるが、あまりしゃべり上手でもしゃべり好きでもないようだった。今も店に二人きりだが、店主は敢えて徳次に背を向けておでんの具の様子を見ている。
徳次も別に話がしたくてここに通っているわけではなかったので、自分から話し掛けることもない。ただ温かな湯気の立ち上る暖簾のこちら側の空気は、徳次に存在していても良いという肯定感を与えてくれた。客は金を払うのだから当たり前なのだが、その支払金額で心が落ち着くなら安いものだった。毎日は来られないけれど。
ジョッキのビールがぬるくなるほどのスピードでちびちびやっていると、三十代くらいの男の二人連れが入ってきた。徳次とは斜めになる位置に立ち、スーツの上着を脱ぐ。いかにも営業職といった感じの二人組みで、「とりあえずビール」と言うと、二人して機関銃のように話し始めた。
「ったくさー、あれくらいのミスで普通泣くまで責めるか?」
「だよなー。どうせ事務の女の子なんてお飾りなんだし、仕事ができることを期待するのがおかしいんだよ」
「部長の好みじゃなかったんじゃね? アヤちゃん貧乳だし」
「だはは、エロオヤジじゃん」
一通り上司の悪口を言って、想像上のオチで締める。
「どうせもうすぐ定年なんだしさ、最後くらいみんなに泣きながら見送ってもらえるような人格者になれないもんかね」
「いや、もう無理っしょ。あのオヤジが今さら優しくなったら、全社員総出でドン引きするわ」
「はは、引かれて誰にも見送られねーってやつ?」
「あんだけ好き勝手なことやっといて、定年の時には花束もらってみんなに泣いて見送ってもらおうなんて、ムシが良すぎるんじゃね?」
「まぁなー。ほぼ全社員の人格否定の説教してるもんな。ああいうタイプは家で嫁の尻に敷かれてて、会社でしか威張れねーんだろ」
「家じゃペコペコしてるタイプ」
「で、定年したらずっと家にいるから家族に邪魔にされて、スーパーで万引の常習犯」
「見つかっても『俺かどういう人間かわかって言ってるのか!?』なんて、会社での肩書きにぶら下がってな」
「やべぇ、俺今すげぇリアルに想像できたわ」
「俺も。今見てきたみたいに」
ぎゃっはっは、とバカみたいに笑って二人はビールジョッキを合わせる。
徳次は今耳に入ってきた話を聞いて、他人事とは思えなかった。自分は部長ではないし、定年してもしがみつけるような肩書きはない。しかし、あと三年で定年だと喜んでいたが、そうなると行く場所もなくずっと家にいることになる。家族に邪魔にされているのは今でもそうだが、朝から晩まで家にいるしかないとなると、自分は一体どこにいれば良いのだろうか。
三年後には息子は大学を卒業している。この不況下ではどんな会社に就職できるかはわからないが、まさかニートにはなるまい。とは言え、家を出るという保証もない。娘も大学生になるが、女の子を一人暮らしにさせたくはないと妻は言うだろうし、家事全般をいまだに親に支えてもらっている娘が、自ら家を出るとも考えにくい。
徳次は息子がどんな就職先を志望しているのかや、娘がどこの大学を目指しているのかも知らなかった。それでも、定年退職した自分に、家での居場所はきっとない。思わずゾッとした。
妻の会社の定年は六十五歳だから、彼女はまだまだ働ける。そんな中、役立たずの自分がずっと家にいることなど許されるのだろうか? 今の会社で五年延長制度を使うのはきっと嫌がられるだろう。ただでさえ「給料泥棒」と言われているのを知っている。
ならば、何か他の仕事を探すか? 警備員? タクシードライバー? いや、それは免許がない。自分にできることなど世の中にはほとんどないのだという現実を突き付けられ、徳次は愕然とした。
若い二人組はおでんを突付きながら別の上司の文句を言ったり、事務員の中では誰が好みだとか、恋人と別れたいとか、好き勝手に話している。きっとあれだけでもどこかスッキリできるのだろう。サラリーマンが飲み屋でする話題といえば、会社の愚痴と決まっている。
徳次はゆっくりと立ち上がる。ビールは全部飲み干したが、それ以上注文するとここに来れる回数が減ってしまう。仕方なく小銭をピッタリの額で支払い、暖簾の外に出た。そこはまだ明るく、これから本格的に暑くなっていくのだと予感させるような生ぬるい風が吹いている。
これから自分はどう生きていけばいいのか。頭の中はそれでいっぱいだった。
今はまだ何とか少ないながらも収入を得てはいる。生活費の部分は徳次の収入から回っているはずなので、いくら邪魔でも追い出されはしないだろう。しかし、定年退職してしまったらどうだろう。年金がもらえるようになるまでの最低五年間は、やはりどこかしらに職を持って収入を得なければ、それこそ玄関をまたげなくなるかも知れない。
息子は就職して得た収入のいくらかを家に入れるだろうし、早いうちに自分の今の年収など追い越してしまうだろう。そうなれば、本当に徳次は佐々木家に不要な存在となる。一家の大黒柱は随分前から妻になっているし、自分はそこにぶら下がっているだけだ。そうしていられるのもあと三年──そう思うと身震いが止まらない。あまりにもリアルな現実だった。
翌日も行くあてがなく、いつもの立ち飲み屋に寄った。相変わらず客は自分一人だ。そもそもこんな時間に飲み屋に行けるような会社員は、ろくな仕事をしていないのだろう。自分が帰る頃には入れ違いで客が入ってくることも多いので、この店が特別はやっていないというわけでもない。
徳次はいつもの隅の席に陣取ると、まだ注文していないのに冷えたビールが目の前に置かれた。いつもビール一杯で帰る迷惑な客として覚えられてしまったのだろうか。そうなるとここにも来づらくなるな、と考えながら徳次は「どうも」と言った。
店主はいつも、徳次の陣取る場所からは背中しか見えない。おでんの煮込み具合を確認する時も、うどんを茹でる時も、ちょっとしたつまみを盛る時もだ。しかし今日はふらりと徳次の前にやってきて、「いつもありがとうございます」と言った。ビール一杯を時間を掛けて飲んで帰る、単価の低い客。そんなものがありがたいわけもなかろうに。
「いえ、こちらこそ」
いつも職場では周囲の目を窺い、ペコペコと頭ばかり下げるのが職務である徳次は、思わず下手に出て身を縮こまらせた。何か言われるのだろうか? 他にご注文は、とか? ビールの値段が上がりました、とか?
しかし店主はわけのわからない固有名詞を出して問うてきた。
「お客さん。〈おもいで屋〉をご存知で?」
「へ?」
思わぬ日常会話のような流れに、徳次はぽかんと口を開けてしまう。
「ご存知ないようですなぁ」
知っていなければならないようなものなのだろうか? 〈おもいで屋〉? 新しいドラマか、映画か何かのタイトルかも知れない。
「いえ、どうも不勉強で世の中に疎くて」
言い訳のように言葉を濁して、また頭を下げる。職業病のようなものだ。
「いやいや、ご存知の方の方が少ないでしょうから、そんなに恐縮せんでください」
店主は自分を責めるように頭を掻いて少し笑った。
「〈おもいで屋〉ってのはね、その人物のキャリアや社会貢献度なんかを査定して、それに見合う願いを叶えてくれるってやつらしいんです。まぁ、都市伝説みたいなものらしいんだがね」
「へぇ……」
何故そんな話を、しかも初めて会話する相手にしたのだろうか。徳次のキャリアなどたかが知れているし、社会貢献どころか存在が家族の迷惑になっている。自分には何の価値もないのだと、改めて思い知らされる話だった。しかし店主に悪意はないようで、話を続ける。
「お客さん、私の若い頃に似とるんですわ。勝手に重ねてしまって、間違いだったら申し訳ないんですがね。家に帰れば邪険にされ、帰りが遅ければいいご身分だと嫌味を言われてよ。だから定年退職してからすぐにこの店を持ったんです。その頃からずっと、通ってくれとるんがお客さん、あんたでね」
「そうなんですか……」
身体が大きく、人の良さそうな柔和な笑みのこの店主が、家では自分のような憂き目に遭っていたとは。しかし、それで奮起して店を持てるのはすごいと思った。自分には何も売りとなるものがない。
「少し前に〈おもいで屋〉を知りましてね。すぐにあんたに教えてやろうって思ったんですよ。何しろやつは、人生を変えられるっていうんですからねぇ」
「人生を変える? そんなバカな」
ここまで話を聞いて、ようやく自分はバカにされているのではないかと察した。遠回しな来店拒否だろうか。情けない日々を送っている、安い立ち飲み屋でさえつまみも注文できない甲斐性のない男に、こんな夢のような話を聞かせたらどうだろうかと?
しかし、店主の顔は真剣そのもので、やっと徳次に話し掛けるチャンスが訪れたとばかりに話を進める。徳次はひとまず話を聞くことにした。もしかしたら、自分にとって悪くない話が聞けるかも知れないと思ったのだ。定年退職後に一人で店を立ち上げただけのパワーのある年上のオヤジから。
「あんた、奥さんは働いてるのかい?」
「ああ、俺より高収入で、息子の大学進学費用も、娘の予備校代も、これ見よがしに出してくるほどにね」
「うちの家内もそうだったよ。十も若い嫁だから、まだ働けるしねぇ」
「そうなんですか」
無難な言葉を返すが、こんな人の良さそうな店主の十歳も下の奥さんが、自分の妻のように夫を邪険にするような女性だとは驚いた。長く一緒にいると、百年の恋も冷めるような出来事に躓くものなのかも知れない。
「今は女の方が稼げる時代なのかねぇ」
店主はぼそりと零した。あの頃は良かった。そんな感情が見えた。
「子供はじゃあ男と女、一人ずつかい?」
「ああ、生意気で俺を父親とも思ってないようなのがね」
普段は誰にも言えない強気な言葉が、何故か初めて話すこの店主の前だとハキハキと言い切ることができた。ずっと誰かに愚痴りたくて、でも相手もいなくて。我が身を省みると情けない限りで。愚痴など言えた立場ではなかったから。
「俺に似ず、優秀な子供たちですよ。妻と三人で十分やっていけるような、ね。俺なんか、いてもいなくても同じようなもんだ」
言葉にしてしまうと、本当に自分への哀れみが増した。たまたま入った会社があまりうまくいっていなくて、しかしそのまま定年間近まで自分なりにがむしゃらに働いてきた。悪くもないのに取引先や年下の上司に頭を下げ、おこぼれのような収入を確保してきた。それをギャンブルや女遊びに突っ込むでもなく、全額入ったままで通帳とカードを妻に預けてある。おかげで自分が自由に使えるのは、毎月三万円ぽっちだ。
それでも何故か家庭内で孤立した。いつからなのかは詳しく思い出せない。何か特別なきっかけがあったわけでもなく、おそらく息子が思春期に入った頃くらいから何となく遠ざかり始めたのではなかったか。
「へぇ、そうなのかい。お互い寂しいねぇ」
「ははは、オヤジさんはまだこの店があるじゃないですか」
「そうさね。いつかこんなこともあろうと想像して、ちまちまと小銭を貯めてきたんでさぁ」
それだけで立派だった。自分は店主に言われてようやく定年後の地獄絵図を免れるための方法を考え始めて、だが早々に躓いたというのに。
「〈おもいで屋〉はよぉ、人の人生を売るんでさぁ。それまで築き上げてきたものと引き換えにね。本人のキャリアや社会貢献はもちろん査定の中心だが、そいつがよくできた妻子を持っていたりするのも計算に入るらしいですわ。そんならあんた、妻子を手放してやりたいことなんかはないのかい?」
「妻子を手放して?」
普通なら「とんでもない」とでも答えるのだろうか。しかし、初めて愚痴を聞いてくれる相手を得て調子に乗ってきた徳次の舌は滑らかだった。何を悩む必要があろうか。ただの都市伝説の仮定に。
「あんなお荷物を手放せるなら何でもできるさ。俺、少し前から夢があってね」
そうは言いつつも、半ば忘れていた夢だ。実現などするわけがないから。しかし今ここでなら言ってもいいような気がする。いや、素直に言うべきだ。
「まだ独り身だったらって、よく考えるんですよ。それなら生活費も十分あるから、今頃多少の自由になる金はあったんじゃないかって。それで定年したら、田舎で広い家でも買ってね。ついでに田んぼも買って、農業をやるんだ。俺の父親が少しばかり農業をやってたことがあってね。俺が生まれてから普通に会社で働き始めたけど、残ってる田んぼで自分たちだけくらいは食っていける程度のモンは育ててさ。俺も子供の頃は泥だらけで田んぼ仕事をやってたもんだ」
まだ結婚する前、妻に言ったことのある数少ない家族の思い出だ。父親は持病で早逝し、母親も若くしてまだ例の少なかった認知症にかかり、徘徊中に事故で死んだ。
「おや、いい話じゃないかい」
店主は真面目に聞いてくれた。一笑に付しもしなかった。あの頃の妻でさえ、クスリと笑ったのに。どうしてそんな女と結婚してしまったんだろう。
「独り身なのに、どうして広い家なんだい?」
店主が問う。徳次は得意になって答えた。頭の中ではもう夢が叶っている。
「いやぁ、今風の3LDKみたいなのより、一階建ての横に長い平屋の方が趣があるじゃないか。マイホームマイホームって、女子供はすぐ駅近でコンビニやスーパーが近くにあって、洋風な外観の家を欲しがるだろう? ああいうのは俺の趣味じゃないんだ。一番近所の大型スーパーは車で一時間かかるとか、コンビニなんてない代わりに星空がキレイだったりしてね。そういうのが結局性に合ってるんですわ」
実際不便なことこの上ない条件でも、今の生活を省みると、余程輝いていた。今さら言っていいなら、都会に働きに出て結婚などせずに、ずっと田舎の地元に留まっているべきだった。そうすれば、少なくともこんな惨めな半生を送らずに済んだかも知れない。
「まぁね、今だから言える絵空事ですよ。今から人生やり直せるなら、あんな妻とは結婚しません」
「そうかい。あんたはそう欲深いわけでもないから、よくできた妻子と引き換えならそれくらいの慎ましい夢は叶うかも知れねぇな」
「ははは、叶うといいんですがね」
そんなわけはないとも言えず、徳次は店主に合わせて笑った。その日は愚痴を聞いてくれた礼にと思い、おでんを二つ注文したが、千円札一枚でいいと言われた。ありがたい。また明日も来ようと思った。
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