〈居場所なんてない〉第1話

 窓際族、という言葉を考えたのは誰なのだろう。

 そんな疑問も今やスマホやパソコンを開けば瞬時に正答にありつける時代に、いまだ旧式の二つ折り携帯電話を使っているような自分のような時代遅れの中年のことを指すのだろうな、ということだけはわかった。それが正解だと、わかったつもりでいた。

 佐々木徳次は窓際族の名の通り、西日がよく当たる場所に座席を配置され、若い社員に「社内ニート」と揶揄されながら、それもまた新しい言葉なのだろうかと呆気にとられる。よくもまぁ次から次へと。

 仕事内容は特にない。五十代も後半に差し掛かれば、定年退職に向けての引き継ぎのように後輩に仕事を教えることもあるが、徳次は後輩に教えるような特殊な仕事はしていないし、自分ができる仕事は誰にだってできた。自分が定年どころか、明日いなくなっても困らないだろう。

 肩書は一応主任ではあるが、自分より年下の係長や課長がいる。主任だって唯一無二の立場ではなく、いい加減いい歳になったのだから、何か肩書きを与えなければという会社の都合にすぎなかった。主任手当が毎月五千円追加されたが、責任はその金額に見合わない。他人の失敗のたびに付き添って頭を下げるという仕事が、唯一徳次が一番多くこなしている職務だった。

 五十七歳になり、年収は五百五十万円。高卒で入った古い会社で、主に親会社が企画製造した商品を売るのが仕事だったが、三十代で親会社が外資系のコンピュータセキュリティ会社に買い取られ、その孫会社になった。

 新卒で入った会社には退職までいるのが当たり前という世代であるため、どのタイミングでも転職のチャンスはあったのに、一度も自分で挑戦を考えはしなかった。故に年齢に見合わない低所得でも我慢するしかない。だから妻の方が高給取りで、職場での立場も大違いとなると、会社にも家庭にも居場所のない徳次なのだった。

 西日に当たりながら徳次はよく考える。あの女と結婚などしなければ、プライドまでは削られなかっただろう。

 薬科大学まで出て薬剤師をやっている妻のミエは、五十五歳だが白髪を黒く染め、チリチリのオバハン臭いソバージュヘアで職場に行っている。しかし、そこは国内大手チェーンの処方箋薬局であり、彼女はそこで副支店長としてのキャリアを築いていた。当然徳次より年収は高いし、社内的地位も比較にならない。

 家族四人で食べていくのに精一杯の徳次の年収をあてにせず、大学生の息子の学費を出し、高校生の娘の予備校代も妻の稼ぎがあるから出せるのだ。

 かくいう徳次は二着しかないくたびれたスーツを着回し、一週間分のカッターシャツの着替えの中でやりくりしている。革靴も鞄も酷くボロボロだが、貧弱なスーツにはむしろぴったりで、買い替えたいと言おうものなら「たいした稼ぎもないくせに」と罵られる。

 まぁあと三年だしな、と人前に出ることも減った、つまり仕事のほとんどがなくなった徳次は自分を納得させる。

 家に帰っても文句を言われるだけなので、週に何度か、一人で安い立ち飲み屋に寄ってから帰るのが気晴らしだった。しかしそれはそれで帰宅が遅いと文句を言われる。小遣いも少ないので若い社員を誘って奢ってやることもできないから、誰も徳次にはついてこない。

 面倒でないと言えば嘘になる。しかし、今さら離婚などすれば、自分がみじめなだけだ。どんなに息子に呆れられようと、娘に口を利きたくないと言われようと、孤独死をして誰にも葬式をしてもらえないような生き方はしたくなかった。我ながら情けない理由だ。

 その日は立ち飲み屋に寄らず、普通に定時に会社を出た。鞄は持っているが、中身はたいしたものは入っていない。尻のポケットの財布にも少ない現金だけで、通勤用のICカードを除けば、クレジットカードの一枚も入っていない有様だ。

 無言で帰宅し、玄関で太った身体をヨロヨロとさせながら不器用に靴を脱ぐ。徳次が定時で帰ると、ミエよりは随分帰りが早くなるので、誰も迎えにも出てこない。多分息子はまだ遊んでいて、娘は予備校なのだろう。ろくに子供の行動すら把握していないが。

 誰もいないリビングでテレビを付け、冷蔵庫に入っていた誰のものかわからないビールを開ける。もしもミエのものだったら、後でさんざん愚痴を聞かされるのだろうなと思いながらも、一本のショート缶のビールを見ると、我慢できなかった。一応会社で働いてきたのだから、これくらいは許されてもいいだろう。そう自分に言い訳する。

 夕方のニュースのスポーツコーナーで、プロ野球のデーゲームの結果を確認し、贔屓のチームが四連敗していることを知る。弱いチームを応援してしまうのは、自分を重ねてしまうからだろうか。それとも、分不相応に自分が応援などしているから彼らの運を奪ってしまっているのだろうか。

 普段は妻や子供が占拠しているソファは座り心地が良く、思わずうとうととしてしまう。ビールを半分ほど残したままうたた寝してしまい、気付けば息子の怒鳴り声で目が覚めた。

「何他人(ひと)の席でだらしなく寝てんだよ、このオヤジ臭の塊が!」

 昔はこんなに口の悪い子供ではなかったのに、徳次に対してだけはまるで任侠映画のチンピラのような物言いをする。思わず自分の臭いを嗅いでみるが、自分では気付けない。

「いいからそこどけよ!」

 息子の怒りに慌てて徳次は立ち上がる。息子は消臭スプレーをこれでもかとばかりにソファに吹き付け、しっとり濡れた部分に扇風機を当てる。

「え? お前、俺のビール飲んだの? うっわ、最悪。買ってこいよ。炭酸の抜けた半分の残りなんかいらねぇんだよ! いいから黙って買ってこい!」

「あ、す、すまん」

「いいから買いに行け!」

 久し振りに対面で話す息子の剣幕に恐れをなして、徳次はあわあわと近くのコンビニまで余分な贅肉を揺らしながら急いだ。同じ銘柄のビールを一本買い、財布に入っていた千円札でなんとか買い物を済ませる。このまま帰ればきっと、つまみの一つも買ってこれない気の利かない父親だと思われるのだろうが、千円札からビール代を引いた小銭で買えるような金額では、息子が満足して許してくれそうなものは買えなかった。

 そもそも、一人で立ち飲み屋に行く金が残っていないからまっすぐに帰宅したのだ。そして冷蔵庫のビールの誘惑に負けた。すべて自業自得だった。

 なるべく早く帰宅したつもりだったが、若い息子とは違い、メタボな還暦間近のオヤジには限界がある。走ったり歩いたり止まって呼吸を整えたりしながら、ほうほうの体で家に戻った。

 コンビニ袋に入った一本のビールを袋のまま差し出すと、案の定息子は「つまみの一つも買えねぇのかよ。この役立たずが」と罵った。徳次に非があるのはビールを飲んだことだけなので、ビールだけで補えるのが普通だと思うのだが、自分の席にしているソファで居眠りしていたことも罪の一つとして数えられているようだった。

 息の上がった徳次を見て理解したのだろう、ビールがかなり揺れていることを察した聡明な息子は、すぐにはプルタブを開けず、一旦冷蔵庫に保管した。父親の無様ぶりをよく知っていると言える。

「何だよ、用がないなら俺の視界に入るな」

 そうは言われても、子供は自分の部屋があるが、徳次には自分の部屋などあるはずもない。ミエがローンを払う形で購入したマイホームなので、徳次にすれば我が家でも何でもなかった。まるで目障りな居候扱いだ。

 息子と娘にはそれぞれ部屋があり、ミエにも小さな書斎と呼べるような、仕事関係の分厚い書籍がたくさん本棚に収められた部屋がある。3LDKはそれで埋まってしまうので、徳次はリビングか夫婦の寝室──とは言え、シングルベッドが部屋の両端に置かれた寝るだけの部屋だった──しかない。

 ソファに自分の場所はないので、一応自分の席のある食卓テーブルに移動する。テレビは息子によってチャンネルを変えられ、見たこともない若い女優と、面白いのかどうかもわからない芸人の旅番組に変わっていた。

 玄関の鍵が開く音がする。妻か娘だろうが、どちらなのかは徳次にはわからない。しかし息子はテレビに目をやったまま、その人物がリビングに入ってきた気配だけで「おかえり、百合」と妹の帰宅をピタリと当てた。

「お兄ちゃん、ただいま。今日のゲスト誰?」

「佐川栞」

「わ、しおちゃん、私大好きー。一緒に見る」

「こっち来いよ。あ、冷蔵庫からビール取って」

「はーい」

 ごく普通に仲の良い兄妹の姿がそこにあり、徳次の存在はどこにも認識されていない。そもそも娘からの「ただいま」すらない。自分も「おかえり」を言いそびれたのだが、それでも娘が父親を無視して、兄とだけコミュニケーションを取るのは不自然だ。

 ただ、佐々木家ではこちらがごく当たり前の風景であり、妻が帰宅して四人で食卓を囲む時でさえ、まるで父親のいない三人家族であるかのようなのだ。徳次が認識されるのは、何か面倒事を持ち込んだり、先程のように何か誰かの気に障ることをやらかしてしまったり、妻の機嫌が悪い時くらいだろう。

 兄妹がわいわいと徳次には理解できない単語を使いながら会話をしている間、次の給料日まではこんな針の筵な時間が続くのかと思うと、消費者金融で金を借りてでも立ち飲み屋に行きたい気分だった。もちろん、金を借りる勇気など微塵もないのだが。

 しばらく経ってから、玄関からまた音が聞こえた。今度はさすがに徳次も誰の帰宅かはわかる。四人家族のこの家庭で、まだ帰宅していないのは妻だけだからだ。まさか合鍵を持った他人ではあるまい。

「おかーさん、おかえりー」

「おかえり」

「ただいま。何見てるの?」

「さっきまでしおちゃんの出てる番組見てた。終わったから夕飯手伝うね」

「ありがとう、百合。健一はまたビール? 今からそんなんじゃ、お腹出ちゃうわよ」

「普段から運動してるから大丈夫だよ。それに俺、母さんに似てるから」

 ミエはスマートとか言う以前に、痩せすぎなくらいの典型的な貧相なオバハン体型なのだが、メタボの父親になど似ていないと言いたいのだろう。大学生で晩酌する息子もどうかと思うが、毎日飲んでいるわけではないし、今日は徳次が勝手に飲んだため、イラつきついでに飲んでいるだけなのだろう。

 そして相変わらず、一番下座に当たるリビングの出入り口の近くに座っている徳次は当然のように無視された。母娘は手分けして夕飯準備を始める。徳次としては、娘も高校生なのだから、母親の帰宅を待って手伝うだけでなく、自分で作ってくれれば食事も早くできるのにと思う。しかし、そんな意見を言おうものならどんな反撃があるかわからない。だからおとなしくしている。こちらは作ってもらっている身分なのだから。

 一つずつできあがっていく料理は大皿には決して盛られず、一人三皿ほどに分けられる。以前娘が「お父さんと同じお皿で食べたくない」と言って以来、ミエは面倒だろうが、娘の味方について皿を分けた。その分、娘も毎日夕飯作りを手伝っているというのもある。

 しかし徳次はいつも食事の時に気掛かりになる。今はまだ会話はないながらも自分の前にも食事が乗った皿が置かれるが、そのうち置かれなくなるのではないかと思うのだ。まるでそこに存在しないかのように、まったく見向きもされなくなるのでは、と。

 かろうじて会社には自分のデスクがあるが、この家には自分の確固とした居場所がない。家のローンの支払名義も妻になっている以上、出て行けと言われれば抗う言葉もない。

 そんな綱渡りのような毎日に、徳次の心は蝕まれていくのだった。

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